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その30

その30

今日は討伐した魔物の数を30に抑えたのに、それでもダマスからはジト目で見られた。心外である。

「おい、本当に無理はしてないんだろうな?」

念を押されて、カズとしては、多少は言い訳をしておく必要を感じる。

「ええとですね、つまりそういう技なんですね。今度、対スタンピードの依頼に参加するつもりなので、多数の魔物に出あっても何とかなるような、そんな技の練習を兼ねてるわけで、決して無理してるわけでは・・・。」

説明にもなっていないし、言い訳にもなっていないが、ハッキリしたことは言いたくない。

「その技とやらを教えてもらえれば一番良いのだろうが、冒険者が隠し技をやたらに口にするわけもないか・・・。ま、とにかく無理はするなよ。」

これは一応は認めてもらえたのかな?

次の日も30匹分の魔石を持って行くと、またダマスに呼び止められた。

「おい、ずるしてないだろうなあ。弱い魔物の数が少ないんだが、30以上倒して、魔石だけ強めの魔物30提出するとか、まさかそんな事してないよな。」

”ギクッ!!” で、ある。

「ハハハハ・・・、そう言う事は・・・、ハハ、ムニャムニャで…。」

「見てる限り、武器とか、装備の痛みもないんで、無理な戦い方はしてないようだが、お前らD級の初心者なんだからな・・・35だ。それ以上はとるな。わかったな。何か有ったら、ギルドまでいろいろ言われる。」

「40は・・・」

「ばか! ダメに決まってるだろ!!」

と、言う事に成りました。

暗くなって、寝る前にテントの中で座禅の真似事をする。外の方が気持ちが良いのだが、人目が気になる。

悟りは開いた。こんな事をいくらしても、決して無我にも明鏡止水にも なれない。出来ない事はしっかり悟ってしまった。

これは苦手な運動と同じである。俺の場合コーチの言うとおりにやっても絶対に上達しない。

スポーツは体で覚えなければならない。頭で考えてその通り動かそうとしても、考えて動かしたのではとても思い通りには動けない。

たぶん、運動神経のいい奴はコーチの言う通りに動けば体が覚えてくれるのだろう。だが、運動神経の残念な俺は、覚えてくれない。

で、どうやったら体が覚えてくれるか、身の丈に合った練習方法は何か、それをうんうん言いながら考えて、やってみて、自分の体と相談しながら試し続ける。非効率である。絶対天才には足元にも及ばない。それでも人並み程度なら何とかなる。それが私の導き出した結論である。

で、その、本来の目的は、明鏡止水であり、無我についてである。

”コギト エルゴ スム”  われ思う ゆえに 我あり。

デカルト、西洋哲学の根幹をなす概念である。

西洋哲学の”我あり”と、東洋の”無我”、どちらが正しいか・・・ではない。

西洋と東洋のこのような考えの衝突の場合、どちらが正しいかではなく、その基準となる考え方、いわば物差しの違いを知ることが重要なのだ。

デカルトは自意識が存在するゆえに”我あり”と言った。デカルトの”我あり”のミニマムは自意識の存在である。ゆえにデカルトにとって我は有る。

が、釈迦牟尼仏はその自意識には実体がないゆえに”無我”と主張する。釈迦牟尼仏は実体を持たない自意識は迷妄であると断ずるのである。

実体のないものに執着してはならない。そして、存在するすべての物は実態を持たない。それは自我においてもその通りである。それゆえすべての物に対する執着、自我に対する執着を捨て去って涅槃に至れ。それが仏の基本的な教えである。

問題はその”無我”が単に空想上の産物でなく、現実的なものであり、かつ剣を志す者にとって有益であるか? である。

なにしろ、”無我”だの”無念無想”だの”明鏡止水”だのである。カルト宗教のうたい文句にもピッタリである。

それなりに疑いたくなる。

しかし、改めて自分自身を考えてみると、何も無念無想とか御大層な事を言わなくても、意識されずに勝手に動いているものはいくらでもある。

心臓もそうだし、呼吸も、胃も、腸も、内臓関係はほぼすべて、自意識とは関係なく勝手に動いている。

それは心についてもいえる。自意識はそれはあたかも人間の全てであるように威張り腐っているが、本当は意識の中のほんの一部、表層意識の部分でしかない。

表層意識の下には無意識、あるいは下部意識と呼ばれる人の心の大部分が広がっている。

要するに人はその表層意識と呼ばれるごく一部を除いて、元々無我である。ならば、その表層意識の活動を停止させ、あるいは制限することのメリットとは何かと言う事に成るが、それはとっさの場合には、反射的な運動に頼ざるを得ない事を考えればえれば、すぐわかる事だろう。

圧倒的にその方が素早いからである。デメリットは理論的な検証が行えないことである。したがって、練習時に術理や動きの検証を行って、いざと言う時は無意識で実践できればいいわけであるが・・・

”あー、もう、やめやめ、”

気が付くといつもこれなのだ。

だいたい、俺は”無念無想”や”無我”を体得するためにここに座っていたのだ。

それがこのザマである。

何も考えまいと思うほどいろいろな雑念が浮かび上がって、気が付けばこの通り雑念のとりこになっている。

いっそアズミに丸投げしてしまおう。禅宗の坊さんなど、”無我”の境地に達した人の脳波はアルファーが優位になっていると言う。昔使っていたVRゴーグルを改造してもらえばどうにかなるだろう。

と、言う事で座禅に関しては本格的に挫折してしまったカズであった。

                             *


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