水面に漂う文
房総半島の南部にあるその農村では、稲刈りの季節を迎えている。
ほとんどの農家が一家総出で田に出ている中、川島家の長男である斉之助の姿が見えない。
「川島のところの倅は姿が見えんが、どこへ行った?」
近所の男たちが作業の合間に、そういえば、と口にする。
「斉次郎が働いているでねえか。」
「いやちがう。次男坊ではなくて、斉之助のほうだ。」
ああ、と言った様子で、周りの男たちはうんざりした表情の中に少しだけ嘲りの心を滲ませて、口々に答える。
「上の倅は、家ん中で読み物でもしているんでねえか?」
「あいつは来ても役に立たねえ。仕事の覚えも悪い。」
そう言って短い笑い声をたてると、男たちは再び作業に戻ってゆく。
それを少し離れた場所から、川島家の家長である斉太郎は表情を消し、黙って聞いている。
「おとう、腰は大丈夫か?」
一日中働き詰めだったからたくさん食べろと母親のさえから茶碗を渡すよう言われ、その通りに差し出した斉次郎が、斉太郎を気遣う。
「だいぶ良くなった。お前に心配される歳でもねえしな。」
明日はもっと働くと宣言した斉次郎が、渡された茶碗の中身をかき込み、それを見てさえが微笑む。
「斉之助は、もういいのか?」
斉次郎の隣で静かに汁物に箸を運んでいた斉之助が、少し考えたのち椀を床に置き、俺はもういい、と小声でつぶやいた。
「兄ぃは働いてねえから、腹も減らねえんだろ。」
嫌味というよりは冗談に近い口調で、斉次郎が腰を上げようとする斉之助に向かって言う。さえが少しだけ斉次郎を咎めるような表情を見せたが、それだけだった。
斉次郎が言ったとおりだと、誰もが思っていたからだ。
「斉之助さん。」
川島家に使いに来ていた寺田家の娘、千緒が縁側から声を掛ける。
「また書きもの?」
そうだ、と斉之助がこちらを向いて言葉を返す。
「千緒も読んでみるか?」
私は…と千緒はしり込みをする。字を読むのは苦手だった。
「体の方は、大丈夫?」
ああ、と斉之助は答える。収穫が始まった初日に昼前まで働いただけで倒れて以来、作業には加わっていない。
「俺も、情けないとは思っている。周りの人たちが俺のことを何て言っているかも知っている。千緒だって、本当はこんな働けない俺のことを歯がゆく思っていたって、何の不思議もない。」
そんなことは…千緒は言葉に詰まった。確かにそういう気持ちが無いわけではない。川島家とは家族ぐるみの付き合いがあり、当然斉之助のこともよく知っている。まだほんの小さい子供だった頃、千緒を斉之助の嫁にどうか、という斉太郎と自分の父である時吾郎との会話を聞いたことがある。体が弱く口数も少ないが、誰にも負けない優しさを持つ斉之助のことを、千緒はずっと慕っていた。
だが、長じて農家の跡取りとして明らかに役割を果たせていない斉之助は、斉太郎や親類縁者からも見限られつつあるという噂も聞くようになった。斉之助が駄目なら斉次郎の嫁に、という台詞が耳に入ってきたこともある。斉次郎なら断りたかった。悪い人間ではないが斉之助のような細やかな優しさは持っておらず、一言でいえば強いものにしか関心が無かったからだ。
「千緒の家は、ここから山道を登ったところだったよな。」
斉之助が不意に、そのようなことを聞いてきた。幼いころには斉之助や斉次郎も遊びに来たことがあったのだが、それも昔。あまり記憶が無いのも無理からぬことと千緒は思った。
「うちは山裾にあって川からも近い。どちらかというと、こちらの家の方が問題か…。」
独り言のように斉之助はつぶやいた。千緒はそれが何を意味するのか、その時は分からなかった。
見たことの無い形をした雲が浮かんでいるという噂は、今年に入ってから村内でよく聞くようになった。それだけでなく、夜間に不思議な光が海辺の方角から山の上に向かって飛んで行くのを見かけた、という声もあった。
「前の月には三度だけだったが、今月に入ってからは小さな揺れが六度を数える。」
隣家の家主が軒先で時吾郎とそんな会話をしている。
「俺たちんところはまだいいが、海側の方は、危ねえかも知んねえぞ。」
この地域には言い伝えがあった。今から四百年前の地震で大津波が到来し、家という家が流されてしまったという。死者行方不明者は二百を超え、集落は存亡の危機に立たされた。
「その頃は、二度と海に流されねえよう山裾や川沿いに家を建てることは禁じていたはずだったが、時がたち、そんな言い伝えもどこかに消えちまった。」
川島の家はまさに山裾にあり、おまけに川からも近い。昔からの言い伝えを知らない、村人曰く「新しい家」の典型だった。
むろん、川島家でも自覚が無いわけではなかった。
「まさかとは思うけど、もしもの時に山の上へ逃げる準備をしておいた方が、ええのではないですか?」
さえが斉太郎に問いかける。そうだな、と斉太郎は答えるが、そこから先が続かない。
「今は稲刈りが大事だ。そんなことに怯えていたら夜も眠れねえ。眠れなければ働きに差し障る。俺は気にしない。」
斉次郎はそう言って笑った。その横で、斉之助は何か言いたそうにしていたが、結局は黙ったまま部屋に戻ってしまった。
「斉之助、何か言いたいことはあるんかね?」
さえの言葉が後を追ったが、斉之助はそれには答えなかった。
前日までの晴天からうって変わって、その日は曇天のまま一日中気温が上がらなかった。夕刻になって千緒がいつもの使いで川島家を訪れた。
「寒い日だね、斉之助さん。」
千緒が声を掛けると、背中を丸めた斉之助がこちらを振り向いた。
ひどく疲れているように見えた。体調の良くない時の斉之助の姿だった。
「風邪、ひいてない?」
それは大丈夫だ、と斉之助は答えた。
「やっと書き上げた。間に合ってよかった。」
斉之助は分厚い紙の束を千緒の前に差し出した。
「これは?」
「災いのけしき、とでも題しておこうと思う。」
災い? と千緒が聞き返す。
「千緒、よく聞いてくれ。」
向き直った斉之助が千緒に語り掛ける。これは行く末への文でもある、と言う。
「大きな地震が、近いうちにやってくる。不思議な形の雲や、夜中の光などはその兆候だ。井戸水が急に枯れるのも気を付けた方がいい。小さな揺れは大きな揺れの前触れ。それらのことをここに書き記してある。」
文に残すことで、遠い未来に同じような兆候が表れたとき、災いの前触れと思って用心してほしいのだという。
「ほかに、山の動物たちが騒ぎ始めたり、見たことも無いような魚が釣れはじめたりしたら危ういと思ってほしい。千緒の家のある辺りでも大波が上ってこないとも限らない。逃げるなら山頂に向かう途中の寺の境内まで逃げた方がいい。」
うちが危ないというのなら川島の家などもっと危ないのではないか、と千緒は思った。それを言うと、
「父も母も備えはしているし、いざとなれば動ける。斉次郎が頑固で厄介だが、父の言葉には逆らえないから大丈夫だと思う。この文は千緒に託す。」
私に…? 千緒は戸惑いながら紙の束を受け取るしかなかった。私は持っていても字が読めんよ、と答えると、いつか読んで皆に伝えてくれればいい、と斉之助は答えた。
「寺田の家では母様を頼りにすると良い。千緒の父様は婆様に頭が上がらない。婆様が逃げないと言えばきっと一緒に留まると言い出す。母様と千緒で二人を説得し、聞き入れなければ弟の時一も連れて三人だけで逃げることだ。」
時吾郎に付き合って全員が流されるのは愚かなことだと、斉之助は言った。
「そんなこと…私は父様も婆様も死んでほしくない。」
千緒は気色ばんで言い返す。その一方で、斉之助が他家の家族の関係まで実に正しく見ていることに驚かされた。この人は、こんな田舎に生まれていなければ、きっと世のため人のために働ける人のはずなのに…。
「斉之助さんは? 一緒に逃げてくれるよね?」
不安に駆られた千緒は、そう聞いた。斉之助はしばし黙ってから、口を開く。
「川島の家は斉次郎が後を継ぐ。俺は厄介者だから近々家を出ることになると思う。だからこの村のことを千緒に頼みたい。」
私は、斉之助さんと…。そう千緒が言いかけた時、表から千緒を呼ぶさえの声がした。そしてそこから先の言葉は、斉之助に伝えられることはなかった。
半月後の亥の刻、大きな揺れと、それに続く大波が村を襲った。寺田家では斉之助が予想した通り、祖母のえいがここに居座ることを主張し、時吾郎もそれに従う様子を見せた。それに猛然と逆らい、力づくでえいを負ぶって山道を登ったのが母のふきだった。
「あんた、座ったまま死にてえのか。義母様、死ぬなら一人で死んでくれと言いたいが、私は義母様が大事だ。手荒な真似をしても上の寺まで連れていくよ。ほら、千緒も時一も手伝え。」
普段は朗らかな人柄で時吾郎をたてるふきが、まるで人が変わったような激しい口調で二人を怒鳴りつけたものだから、えいも時吾郎も何も言えずに従うしかなかった。
「斉之助に感謝せねば。まさかここまで水が来るとは思わなんだ。」
ふきが逃げながら千緒に向かって話しかける。千緒が斉之助の文を両親に見せた時、時吾郎はその内容を一笑したが、ふきは千緒の話に耳を傾け、その文を端から端まで読んだのだった。
「おお、時吾郎んとこは、みな無事だったか。」
寺の境内で、千緒は川島家の両親、斉次郎と顔を合わせた。斉之助の姿を問うた千緒に対して、斉次郎が口ごもりながら答えた。
「兄ぃは、隣の家に足の悪い爺様が逃げられずにいるはずだって、そこに向かった…。」
そこではぐれてしまったのだという。
「あいつは頭のいいやつだ。爺様を負ぶって少し小高い場所に逃げていると思う。なあ…。」
斉太郎がさえに言葉を振る。さえは目頭を押さえ、何も返せないでいる。
境内から海側の集落に目をやる。すると暗闇の中、月明かりに照らされて揺らぐ水面がどこまでも広がっているのが見えた。千緒はその場に崩れ落ちた。その手には斉之助から渡された文のほんの一部が握られていた。
※ ※ ※
主がいなくなって数年はたっている。これからずっと定期的に手入れをしていかなければならないと思っていた康介にとって、それは朗報と呼べるものだった。
「古民家カフェをやりたいんだってさ。それにしてもよくこんな物件を買おうと…。」
前の週に婚約したばかりの恵理那が一度、田舎の旧家を見たいというので連れてきたが、思った以上に立派なその家構えに彼女は、なんか売るのもったいないな、と呟く。
「俺もそうは思うけどさ、誰も管理できない。仕方ないよ。」
家の立派さに反比例してアクセスは悪い。海沿いの県道から狭い生活道路で山側へ。しばらく走ると勾配が急になり、それに加えて道幅も普通自動車一台が辛うじて通行できる広さしかなくなる。
「江戸時代の中期に津波があって、家のすぐ前まで水が来たって言い伝えがある。」
ぎりぎりで難を逃れた建物だからこそ、それから長い長い年月を経ても取り壊されることが無かったのだろう。
「この家は、寺田家の守り神みたいな存在なんだって。三年前に亡くなった祖母ちゃんが言ってた。」
ようやく家の前にたどり着き、二人は庭先を通り玄関の扉を開ける。ひんやりとした空気が流れ出て、体の中を通過していく。
わずかに残った荷物や家財道具を整理し、必要なものだけをトランクに積む。残された箱の中に恵理那が古文書のようなものを見つけた。
「これ、なんて書いてあるんだろう…?」
大学で古典文学を専攻していた恵理那は、良かったら一度読んでみたいと康介に言った。
「捨てるはずのものだから、構わないよ。」
紙が劣化して一部が破損しているが、字そのものは読みやすく綺麗に書かれていた。十枚ほどの文書の最後は、しかしながらこの先も何か続いていたことを予想させる唐突な終わりになっている。
「ほら、海が見える。」
車の横で、戻ってくる恵理那に向かって、康介は遠くを指さして言った。
沿岸に連なる街の向こう側には、陽光に照らされた波濤がどこまでも輝きを放っていた。