第1章「閉門」2
<2>
目を覚ますと、男は知らない部屋にいた。
眩しさに目を細める。
風を感じた。窓が開いているようだ。薄絹の帳が揺れている。
体を起こそうとし、ひどい頭痛に襲われた。
頭に手をやろうとし、自分のものではない長袖の下着を身に付けていることに気付く。
大きく息を吐き、記憶を辿る。
仕事を終えて酒場に行き…。
そこから先の記憶が曖昧だ。
一軒では終わらなかった気がする。
誰がいたか…。
いつもの仲間といたはずだ。
だが、そこに泣き顔が見える気がする。
楽しかった。途中までは。楽しかったはずだ。なのになぜ。
なぜ泣いている…。
怒っている顔もおぼろげに浮かぶ。
何かを言われた。何を?
なぜ言われた?
おれは、何を言った…?
記憶がない。だが、心に痛みが走る。
何を言ったのか。
思い出そうとして吐き気が込み上げた。
口元を抑え、嘔気を堪える。
気持ちが悪い。頭が痛い。目が回る。
しばらく動けなかった。
寝台の端に腰を下ろし、眉間を抑えて項垂れる。
記憶は蘇らなかった。
発した言葉を思い出すことはできなかった。
脳裏に浮かんだのは、夜中に介抱してくれた誰かの手。
気遣う声も耳に残る。
あれは誰だったのか。
酔いに酔って、悪態を放ち続けて。
それでも、誰かが世話をしてくれた。
振りほどいても振り放っても、差し伸べられたその手。
それは一体、誰の手だったのだろう。
大きく息を吐く。額は汗に濡れていた。
手で拭い、息を整える。
右に視線を移すと廊下に通じるであろう扉があるのが見えた。
寝台に手をついて立ち上がる。
すぐにめまいがして倒れそうになる。
壁に手をつき、体を支える。
半ばよろめくように男は歩き始めた。
扉までわずか1間(1.8メートル)ばかりの距離が長く感じる。
廊下に出た。向かいの壁には明り取りの窓が並んでいる。
手前側にはほかにも部屋があるようだ。廊下は角で折れて奥へ伸びている。
折れた角には階段も見える。
おそらく二階建て。この街では一般的な造りだ。
一階に店があり、中庭があって、そこに厠があるのだろう。
降りてみよう。
男は階段へ向かう。
一歩が重い。木の廊下をきしませ、階段まで来てそこで休む。
息を整え、一歩ずつ慎重に階段を下りる。
少しでも気を抜けば、そのまま下まで転がり落ちそうだ。
一階に降りると廊下が同じように伸びていた。右手に一つ、少し進んだ左手にも扉が見える。
右手の扉の向こうからは小さな物音が聞こえる。皿を洗う音だろうか。
突き当りは出口だろう。ならば、中庭に続くのは左手の扉か。
壁を頼りに右手で口を押えながら進む。
扉の鍵は開いていた。
開けると爽やかな風が吹き込む。見上げれば初夏の空が青く輝いていた。
「ふふ。ははは」
男は笑った。
無様な自分と、なんと対照的なのだろう。世界はなんと美しいのだろう。
手入れの行き届いた中庭の、その北側に小ぶりな建造物が据え置かれている。
扉の数は4つ。等間隔に並んでいる。
差し迫っているわけではなかったが、気持ちを切り替えようと、男はその扉に向かった。
用を足し、立ち上がって顔を歪める。
吐き気を解消できないかと、便器に向かってみたが何も出なかった。
夜中のうちに、胃の中は空になっていたようだ。
そうと分かったら、胃袋が鳴った。
自分でも滑稽だと思った。
滑稽だと思える自分がまた、滑稽に思えた。
自虐的に笑い、男は外に出た。
初夏の風が出迎える。
風の中に出汁の香りが混じっていた。
朝…いや、見上げた空には既に陽が高く昇っている。
だいぶ寝坊をしたらしい。
男は香りに導かれるように、建物に向かって歩き出した。