7.アイスクリーム低気圧
茹だるような暑さの平日。僕は学校が終わるとすぐに家へと帰って来た。
ふぅ、と一息吐き、玄関の扉を開ける。
「ただいまー」
「あっ、おかえり」
冷凍室にあったアイスクリームを食べながら、シア姉は言葉を返す。
「あれ、それアマ姉ちゃんの……」
「しーっ。五個もあったんだから一個くらい言わなきゃバレないバレない。それに一人占めはズルいと思わない? ほら、リン君も一個」
「わ、わ、わ、どうも」
口にスプーンを加えながらもう片方の手でアイスクリームをひょいと渡されたので、それを落とさないようにキャッチする。ひんやりしていて気持ちいい。
「あら、聞こえているわよ。野良犬さん。リン君はいいけど、それは貴方が食べていいものではないわ」
後ろからヌルリと忍者のように音も立てずにアマ姉が現れ、シア姉の肩をがっちりと思いっきり掴む。今にもビキビキ、という効果音が聞こえてきそうな程、彼女は冷静ではなかった。
顔がまるで般若の面のように怖いために、僕がもう少し幼いときであったら泣き出してしまうところだ。それくらいにはアマ姉の顔から怒りと憎しみに満ちたオーラが放たれていた。
それをシア姉は「なんだお前」みたいな蔑んだ目で見て、掴んできた手をスプーンの柄で叩く。
場はキューバ危機の頃の情勢みたいに辺りに緊張が迸り、少しでも返答を間違えてしまったらこの世界が滅んでしまうのではないか、というくらいには深刻な状態に陥っていた。
それくらい、二人の仲は険悪なようだ。犬猿の仲、とかいうことわざでは足りない程の仲の悪さである。
「それくらいでピリピリしないでほしいんだけど、〝おばさん〟」
「あら、ピリピリしてるのは貴方じゃなくて? 若いうちからピリピリしてたらお肌に悪いわよ?」
両者共に遠回しに悪口を言い合う。双方の点を悪い方に誇張して、罵りいがみ合って。
その光景はなんだか子ども同士の喧嘩みたいだった。
子どもの僕が言えたことではないのかもしれないけれど。
「やんのか、あ゛あ゛ん?」
「いいわね。無様に負けて泣いて媚びて命乞いをする貴方の滑稽な姿が目に見えるもの。ちょうどいいわ。私、そろそろハイエナを討伐したいなーって思ってたんだから」
そう言って、またあの謎の黒い氷柱状の何かを生成し始めようとする。後先のことなんか全く考えずに。
「あっ、あの……ここでやられるとちょっと……」
どうしたらいいものか、と思いながら困惑した表情で僕は一応止めに入った。ただ、ブレーキの力は弱いかもしれないので、結局のところ意味はないかもしれない。
「そうね。賢いっ。リン君は賢いぞっ。こんな後々のことを考えないおばさんより百倍……いや、千倍は偉いっ」
シア姉はまたまたアマ姉のことを小バカにしながら僕のことを持ち上げる。そうして、僕の頭を軽く撫でた。
「阿呆は置いておいて、まあここでやるのは確かにアレでアレかもね。リン君、じゃあ決着を付ける方法を二人で考えましょうか」
アマ姉はシア姉に対して、呆れた、という風な仕草を見せた後、シア姉を剥がして顔を僕に近づけてくる。アマ姉は、シア姉を除け者にしたいようだった。
「決着……?」
「そう、決着。どっちがより滑稽か、というね。まあ、でも百パーセントあそこにいる汚い害獣が滑稽だ、という結果で終わるでしょうね。それは必然で当然だもの、しょうがないわ、愚かで醜き淫獣さん?」
「わ、私が汚くて害のある、い、淫獣ですって……!?」
シア姉がアマ姉の言葉に興奮して、腹をたてる。
「……おこおこのおこだ。もう、許さない! 絶対、許さない!」と、まるでギャグマンガ調のようにあれやこれやとバリエーション豊かな怒った表情を見せると、食べきった空っぽのアイスクリームの容器とフタと、それからスプーンをアマ姉の顔面目掛けて思いっきり投げ放った。
そうして、それらがアマ姉の顔面にクリーンヒットして、シア姉は思わずプププと口を手で押さえて笑ってしまう。
なんだか、もう取り返しがつかないところまで、ステージが進んでしまっているような気がした。二人の攻防戦は実に白熱(?)している。
「くっ、殺してやるわこの小娘……と、思ったけどまあいいわ。どうせこの後、貴方が赤っ恥をかくんだものね?」
そう言って、スプーン以外を消し炭に変えてしまうと、ニタリと何か裏を考えてそうな笑みをして彼女の方を見た。
なんだか、笑っているのに笑っているようには見えなかった。
なんだろう……。相手を嵌めることしか考えていないような、そんな感じの。
「ええと、べつに決着とか付けなくても……」
「いや、それはダメよ。そうでもしないと、このアバズレが思い上がって空っぽな脳みそをいつか捏ねくりまわして憤死してしまうからね。リン君はこんなヨボヨボのご老体の亡骸なんて見たくないでしょ?」
シア姉は僕の提案を一蹴して、また口汚くアマ姉のことを罵る。どうやら、お互いともに相手の立場より上になって見下すことしか考えていないようだった。
みんなで仲良く暮らすためにはどうしたら……。
そう、誰も傷つかず尚且つ穏やかに終結する方法をない頭で考えようとする。
……ダメだ。わからない。どうしたらいいのか、さっぱりだ。
どうしたら平和に終えられるのか。どうしたらお互いが納得してくれるのか。
それらが、その一瞬の間の中で頭の中身から捻り出すことができなかった。
どうしても、お互いが傷つく方向に導かれていってしまう。
うーん、どうしたらいい。どうしたら、どうしたら。
そう、無限に続く迷宮に迷い込んでしまったかのように、悩み苦しんで思案を続けた。
「……ええっと、じゃんけん」
暫くして、咄嗟に口に出た言葉はそれだった。
力だとか才能だとか、そういったものは一切必要ないそれは確かに今現在の二人の間では、公平ではある。
だが、それは争点とは全く関係のない決め方であり、おまけに必ずどちらかが負けてしまう……つまり傷ついてしまう決め方なのだ。
そのため、このとき僕が口に出した決着を決めるその方法はとてもダメなやつなのだ。決して、ダメな。
「じゃんけんか。まあ、いいわ。相手を捩じ伏せて手を開かせ、私がチョキを出せば勝ちだものね」
「ならば、その両手をこの胃袋に葬ってやれば、おばさんの不戦勝で私の勝ちになるね」
両者ともに、吠えて噛みつく。
これはもう、僕の知っているじゃんけんというやつではない。ただの殺し合いの喧嘩だ。
止めなきゃ、と思った僕はすかさず追加ルールを口にし始める。
「ただし、何か細工とかはしちゃいけないし、手は出しちゃいけません……って、普通はそうなんですけども。あと、一回勝負ってことで」
「まあ、さっきのは冗談よ」
と、アマ姉は僕の言葉に続けて言う。
本当に冗談だったのだろうか……。
そんなことを思いはするが、口には出さなかった。
「恨みっこなしの一回勝負ってことね、わかったわ」
シア姉は頷いて、とりあえず納得はしてくれた。
「ふん。じゃあいくわよ、おばさん」
「命乞いをする準備はできたのかしら? 淫獣さん?」
たかがじゃんけんだというのに、ここまでおどろおどろしいオーラを放つ光景は見たことあるものだろうか。いや、ない。僕らはべつにじゃんけん世界選手権決定戦とかに参加しているわけではないのだ。というか、そもそもそういう大会があるのかも知らないのだけれど。
そんなことを考えてその先の勝敗を静かに見守る。
まるで、何かスポーツの大会で自分のチームを見守るベンチ要員かのように。目を見開いて、静かに、静かに、と。
「「さいしょはグー、じゃんけーん――」」
振りかぶる際に、アマ姉はニタリと笑う。この戦いは貰った、と言わんばかりに。
それを見て、シア姉は困惑する。貴様何を企んでいる、と言わんばかりに。
二人が出した手は――。
「「ポン」」
両者が出した手を一瞬つぶってしまった目を開けて確認してみる。
「……ええっと、あいこ、ですね」
両者ともに、チョキを出していた。
「あいこ、かぁ。一瞬だけヒヤヒヤした」
「あいこ、ね。くっ、この獣咄嗟に出す手を変えたわね」
各々そんなことを呟く。
「まあ、いいわ。次で貴方の愚かさを思い知らさせてあげるわ」
「あっそ。おばさん、どうせ負けちゃうんだから降参したら?」
お互い、そんな会話をする。
ここだけ見たら、仲が悪いように見えるだけで案外仲は良いのかもしれない。
「……えっ、次? もう、勝負はついたじゃないですか。それにちゃんと『一回勝負』だって」
そう言って、僕は強引に押し切ろうとする。とても、強引に。
「……? 勝負に引き分けなんてないよ、リン君。あるのは勝つか負けるか、それだけ」
シア姉は「ダメだよ」と軽く注意するように言って、アマ姉の顔をきつく睨んだ。
「引き分けじゃダメですか……?」
「うっ、だからそんな目で見ないでって……わかった、わかった。しょうがない。私の方があのおばさんよりも心は大人だものね。正直、アイスクリーム云々如きであれやこれや言ってるのもバカらしいくらいだし。そうね、もうやめましょ、やめましょ」
そう言い終えて、シア姉は僕の両肩に手を当てると、「行きましょ、行きましょ」と僕の耳元で囁いてアマ姉がいる方とは逆の方へと身体を振り向かせた。
「そうね。決着をつけるのはやめにしましょうか。ずっと勘違いをし続けている滑稽な輩を鑑賞している方がよっぽど有意義だものね。相手の方が滑稽だというのは今更わかりきってる話だし」
そう言って早足でズンズンと僕らの方に近づくと、シア姉から僕を奪い取って彼女に「あっかんべー」というような感じで舌を出した。
僕はその光景を見て何故だか、「ああ、今、僕は幸せなんだなぁ」ということを一つ思った。
それは二人の友達と日々を一緒に過ごしているからなのだろうか。
それはわからないが、この心は、楽しい、という時をしっかりと刻み込んでいたのであった。
明日も、明後日も、その先も。
ずっとずっとその先も。
こんな幸せがずっと続いていく、なんていう確かな証拠なんて存在しないことをわかっていながらも。