6.ジャージと子犬と氷柱
痛い。痛い……。
右肩から滴る血がその痛みを視覚的観点からしても痛いのだということをはっきりと主張していた。それは、身体が闇に消えていってしまうかのように瞬間的で非現実感があった。
痛みで目から涙がどしゃ降りの雨のように流れ出し、ぽとりと地面に落ちる。故障してもなお、その部品の機能としての役割を果たさなければならない、バグついている視界の下の方で。
じわり、じわりと僕を襲う恐怖と緊張が僕の中で迸り、治まってくれそうにない。反乱分子かのように僕の意図しない方向にあっちやこっちやと動き回り、大人しくしてくれないのだ。
僕は強烈な痛みに思わず顔を歪め、目の前にいる獣と化した女性のその牙を左手で力いっぱい掴んで自分の肩から追い払おうとする。肩が、肩として機能しなくなってしまうその前に。
「リン君、遅いけどどうしたの――」
その吐き気を催してしまうほど醜悪な光景を見たアマ姉は瞬時に顔色を変える。その顔はまるで親の敵を討つときかのように険しくて真剣だった。
「どうして、こうも魔物というものは理性という二文字の言葉が頭にないのかしら。空っぽであるということは罪よ。懺悔なさい」
すぐさま黒い氷柱状の物質を生成して、目の前の獣の首に突き刺して一発お見舞いすると、前に出て僕のことを翼で庇う。「これはお前の獲物なんかじゃない」、とでも言うかのように。
「ちぃっ……」
獣は刺さった氷柱を抜いてから大きく尖った牙をしまって元の女性の姿へと戻ると、しくった、とでも言うように舌打ちをして僕らのことを睨む。その、憎悪を抱きでもしているかのような眼光で。
「弱いわね。そして、それはもう醜い。貴方の醜さが顔に出ているわよ?」
アマ姉は挑発をするかのように相手を煽ると、再び氷柱を生成して女性目掛けて思いっきり放り投げた。
それは女性の脳天に命中し、散り散りの細かい破片となって辺りに散らばる。割れたガラスかのように透き通っていて尖っているその破片たちは、女性にこれ以上この者達に近づいてはならない、ということを知らせていた。
女性はその破片を見て、悔しそうに腕を地面に叩きつける。怪我をしてしまうのではないか、と思うくらいに強く、重く。
「一つ訊かせてもらっていいかしら」
一つ二つ三つ……と、幾つもの氷柱を生み出したアマ姉が相手を見下すかのような目をして女性に問う。その目に光は宿していなかった。
「どうして、この子を狙ったのかしら。まあ、わざわざ訊かなくても私も魔物だから少しはわかるけれども」
その相手に命乞いを求めるが如く、地面に伏せている女性の頭に氷柱を当てて理由を問い掛ける。返答次第では容赦はしないぞ、とでも言うかのように。
「さぁ? 知らないわ」
負けを認めたくないとでも言うかのように強気で言葉を返して鼻で笑い返される。その声は覚悟を決めているかのような者の声であった。
「ふーん。ところでそのジャージ、臭うわね。人間の臭いがぷんぷんと」
「…………」
アマ姉がわざとらしく言う。それを聞いて、女性はずっと舌打ちだったり歯軋りをして抵抗を見せていたのをすっぱりとやめて黙りコクる。触れてほしくはないとでも言いたげに。
「貴方、私と同族でしょ。この場合『魔物』って意味じゃなく。そして、正しくは過去形なのかしら?」
何かを知ったかのようにつらつらと言葉を発して、アマ姉女性に訊く。当てていた氷柱を女性から離して。
「同族だぁ……? まあ、それはともかく、知らないねぇ。そんなこと」
「惚けるつもりなのね」
アマ姉はまた女性の頭に氷柱を当てると、冷ややかな目で彼女のことを見下した。
「あの、どういうことですか?」
「ああ、リン君。あのね、リン君にはあまり話したいことじゃないかなぁ。たぶん、同情しちゃうかもしれないから。まあ、一応教えるけど、同情しないでね? これは甘い言葉でリン君のことを誘惑して殺そうとしてくるだろうから」
そう言って、見せしめのように女性の頭を足で思いっきり踏みつけ、地面に額を付けさせた。
「あの、そこまでは……」
「痛みつけて思い知らせてやらなきゃ、これはまた何度でも襲い掛かってくるよ。魔物って単純だから」
「いえ、でも……」
「リン君はお人好しだね」
ピタリとそれを止めて僕の方を見ると、ニッコリと笑い返された。
「で、さっきのことだけど、こいつはね、おそらく元々人間と一緒に暮らしてきた魔物なの。じゃなきゃ、あんなに身体中から人間の臭いがしないもの」
氷柱の大きさを縮小させてみせながらぽつりぽつりと話し始める。氷柱は熱気を帯びながら形を変えていった。
「まあ、だから、そういう魔物ってやつから外れた、人と暮らすおかしな魔物のクセに、リン君を襲っていたから少し気になってね。こいつは元々人間を襲わない人間で言うところの〝イイ〟魔物だったのかもしれない。だから、言うのは躊躇ってた。こいつの理由次第ではリン君が同情してしまうかもしれないから」
言い終えると、僕の血塗れになっていた肩に手を掛けて何やらきれいな湖面の透き通った色をした小さなスライム状の物体を生み出して纏わりつかせた。そして、次の瞬間、その物体が僕の肩でゆらゆらと揺れ、それがパチンとシャボン玉のように消えると、僕の肩からは血が止まっていて、元通りの様相を見せていた。
「この方をどうするのでしょう……」
「殺すしかないわ。一度人間の味を覚えたら、もうそれは終わりだと思うの。それに私、横取りされるの大嫌いだから」
そう言って、女性の頭目掛けて小さくなった氷柱を振り下ろそうとする。慈悲もなく。
「アマ姉ちゃん、待って……!」
僕は思いっきり大声で呼び止める。自分でも鼓膜が破れてしまいそうなくらい、大きく。
「やっぱり殺すのは……」
「でも、朝の魔物のときは何も言わなかったじゃない。人型だと同情しちゃうの? ダメね。やっぱりこいつを殺さなきゃ」
一つ指摘をして、また殺意を女性に向ける。恐々として冷え冷えとした、その殺意で。
「いえ、そういうことではなくて……。そういうことじゃない何か、ええっと……ダメなんです」
「リン君は甘いなぁ。甘すぎるよ」
しょうがないといった表情で女性に向けていた氷柱を消して凶器をその場から取り除くと、パンパンと手をはたいて、女性の方を見た。
呆れてしまったのだろうか。あるいは怒ってしまったのだろうか。
アマ姉の表情からは感情を読み取ることができなかった。
「さて、無様な魔物さん。そういうわけでこの子に免じて貴方を許してあげるわ。これで思い知ったでしょう? 私がここにいる限り、私より低俗なる魔物共にこの子を食べさせやしないわ。だから、貴方、元の住み処に帰りなさい」
「住み処? そんなものもう存在しない。人の手によって〝居場所〟を壊された」
「あっそ、どうでもいい。じゃあ、どっか遠くの迷惑にならないところで野垂れ死んでくれるかしら」
アマ姉はシッ、シッ、帰った、帰った、という手つきで乱暴に女性を追い払おうとする。どうでもいい、という感情が顔に表れていた。
「言動から察するに、狙った理由は人への報復……復讐ね。で、その復讐は初めて、ってわけだ。だから、手始めに子どもで試してみたのか、たまたまそこに家があったから襲ったのか。まあ、どうでもどうでもどうでもどーうでもいいわ。しちめんどくさいことに私達を巻き込まないでくれるかしらね」
言い終えて、また面倒くさそうな目で女性を見て、溜め息を吐いた。
「……好きな人がいたのよ。私を、救ってくれた人間がいた。でも、殺された。人の裏切りによって……! このジャージは彼の形見のようなものよ。死んでも離さないわ……」
女性は憎悪に満ちた声でそう呟くとドンと地面を思いっきり叩いた。
「……こんなところで熱くなって話し始めないでくれるかしら。貴方のことなんて興味もないし、そういうネチネチした腐敗した肉のように臭う話を聞くのって、私、思わず反吐が出そうになるの」
そう言い終えると、アマ姉は「行きましょ」と言って、家の中に戻るよう僕を促す。
「すみません。少し待ってください」
そう詫びをアマ姉に告げて女性の方に顔を向けると、女性の視線の高さと同じくらいになるまで腰を落とす。
「顔を上げてください」
僕はズボンのポケットから未使用のハンカチを取り出して涙を流しているその女性に渡そうとする。女性の身体はズタボロにはなっていたが、先程貫かれてしまった首はいつの間にか元通りになっていた。
「……バカなの? まあ、その、ありがと……そして、ごめん……」
一つ文句を言ってから感謝の言葉と謝罪の言葉を一つずつ言われると、ハンカチを取って彗星のようにきれいに流れ出す涙を拭き取る。
「……その、住む場所がないのでしたら、一緒に、どうですか?」
僕はゆっくりと提案を口に出す。そうしてから、手を彼女の方へと伸ばした。
「リン君、そいつはキミを殺そうとしたのよ。しかも、無差別に。だから、ダメ」
「でも、感じ的に困っているみたいですし。それに、一緒にいてくれる方は多ければ多いほど寂しくないですから」
女性の方を向いてニッコリと微笑む。
「その魔物の言うとおりよ。やめた方がいいわ。きっと、坊やのことを殺して食べてしまうから」
「でも、お姉さんは優しいし、それに、愛する人のために復讐を考えたってことは、それだけその人のことを一途に愛していた……愛することができていたってことじゃないですか」
「私が優しい……? そんなわけないでしょ」
女性は僕の言ったことを復唱してから否定する。戸惑った顔をして。
「優しくて素敵な方です。だから、きっともう殺しなんてしようとしません」
「褒めすぎ。褒めたって何も出てこないわよ」
じっとりと僕の目を見て、額に軽くデコピンされる。
「バカね。そんなこと言っても私が『じゃあ一緒にいてあげる』なんて言うわけないでしょ。これでこの話はおしまい。私が出す答えは、お断り。それが答えよ」
そう言い終えると、女性はピンとまた僕にデコピンをして、その場から立ち上がった。
「ダメですか……?」
「うっ、そんな子犬のような目で見てこないで。……わかった。わかったってば。ああ、もう面倒くさいなぁ。一緒にいてあげる、一緒にいてあげる。これでいいんでしょ!」
「……! ありがとうございます!」
「ああ、ああ、礼なんていらないから。言っとくけど、こうでもしなきゃ付きまとってあーだこーだ坊やもそこの魔物も口出ししてきそうで寒気がするから一緒にいてあげるだけよ」
「それは少し矛盾してないかしら」
女性の言葉にがるるっとまるで狼のようにアマ姉は噛みつく。
「私、シアン。坊やとそこの魔物の名前は?」
アマ姉の指摘を無視して、話を続ける。
「僕はリンって言います。あそこにいるお姉さんがアマテラス……僕はアマ姉ちゃん、って呼んでます」
「そ、私のことは好きに呼んで」
「じゃあ、シア姉ちゃん……って呼んでもいいですか?」
「べつに」
「シア姉ちゃん、よろしくお願いします」
僕はペコリと頭を下げて挨拶をする。
「はいはい、よろしくよろしく」
シア姉は僕の顔から目を反らして適当に返事を返した。
これはその後の話なのだが、アマ姉はシア姉がここに住むことををよく思わなかったらしく、僕のことを抱き締めながら、がるるっがるるっがるるっ、と獣のような形相でシア姉のことを威嚇していた。