4.ようこそ愚かな魔物達
目が覚める。やけに視界が白く霞んで見える。
まるで靄が発生したかのように濃厚な白は、世界の色という色を遮ってこの世界を支配しようとしていた。
隠し事を隠蔽するかのように。嫌な過去を上から塗り潰してぐちゃどろに溶かしていくように愚かで、なんとも言えないものがあった。
筆先でなぞって、伸ばして広げられていくようなその光景は、さも「さあ急げ急げ。世界がすべて白で染まって消えてしまう前に」と誰かに言われているような気がする。そういう感覚に陥る。
ここは何処だろう? 僕はどうすればいいのだろう?
そんな普通の疑問を持つと、僕はおぼつかない足取りで前に一歩、二歩とその世界を歩き始めるのである。初めて『歩く』という動作を行った幼い幼い子どものように。
数分の時が経った。歩いても、歩いても、その程度の速さでは世界が白に塗り潰されていくよりも遅いので、一向に赤黄青といったさまざまな色のある世界に辿り着くことができない。むしろ、その世界が歩き始めたときよりも遠退いているような気がする。
面倒くさがりやな僕はやがて歩みを止める。おそらく、追いつくことができないから諦めてしまったのだろう。
どうせ、いつかは死ぬ運命だったんだ。いつかはひとりぼっちで何もない空白の世界に囚われてしまうのだ。
そう、自分に言い聞かせて、納得させたのだ。
辛くなんてない。寂しくなんてない。痛くなんてない。
何度も何度も繰り返し繰り返し言い聞かせ、心を騙していく。そうしたら、救われたような気持ちになれた。
「はぁ。厄介ね。人の心に付け入る魔物がどうやら近くにいるみたいね。それも二匹」
そんな風に面倒くさそうに言いながら、一人の女性が黒い氷柱状の何かを手にしながら僕の視界の右奥から現れた。……アマ姉だ。
先程までひとりぼっちだったから、途端に安心感が身体の底から湧いてくる。有り難さを感じる。
僕はアマ姉に迷惑掛けっぱなしだ。
そう、僕は申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
「魔物が……二匹も?」
「うん。魔物ってのは心が弱くなっている状態の人間ほど標的にして捕食しようとあれやこれやしてくるからね。今のリン君は格好の的なのかも。私だって食べようとしてたわけだし」
「どうして、心が弱くなってると捕食を……?」
「なんでも万能な魔法だ魔法だとは言っても、心が強い人間には一切魔物の攻撃は効かないんだよね。物理的にですら。それに相手の人間の心が強すぎると逆に魔物は消滅しちゃったりもする。何故かはわからないけど。……だから、魔物は普段、人の前に姿を現すことはしないの」
「それじゃあ、僕の心が強くなっちゃったら、アマ姉ちゃんは……」
アマ姉の言葉を聞いて、僕は不安そうに言葉を返す。友達を失いたくはないから……。
「ふふっ、大丈夫よ。心が強い人なんてそうそういないわ。それに、仮にリン君が強くなっちゃっても、心を弱くすればいいんだものね?」
アマ姉は僕の鼻頭を突っつくと、悪魔のような笑みで僕を舐め回すかのように見つめた。
なんだか、ちょっぴり恐怖を感じた気がした。
なんだろう、心を弱くするというのは。魔法か何かを使って、内部を弄くりまわすとか、危ないことをしたりでもするのだろうか。
想像してみると、物騒なものしか頭の中に浮かばず、少し肩や背中の辺りに寒気を感じた。
「さて、魔物さん達にはお引き取りいただかないとね。リン君は私の大切な食糧……あっと、今は友達だったわね。その友達を食べられちゃうわけにはいかないから」
ペロリと蛇のように長い舌で彼女自身の口を舐め回すと、手に持っていた謎の物体を分裂させて、白い靄の中へと思いっきり放り込んだ。
そうして暫くすると、白い靄が多少治まり、色のある世界が少しずつ見え始めてきた。
それでも、まだ砂漠のど真ん中で起こるような砂嵐くらい辺りはぼやけていて、そこにあるはずの彩りを覆い隠している。
なんだか別世界にいるみたいだ。
「あら? 外れたか、まだ死んでいないか。まあ、どうでもいいか。どうせ、私に退治されちゃうんだからね」
そう言って、また黒い氷柱を幾つも幾つも生み出し、それらを周囲にばらまく。相手の息の根を止めるために。
「あっ、そうだ。家は大丈夫ですかね? 僕達が今何処にいるのかもわからないし……」
「たぶん、大丈夫……かな……? ここ、リン君を捕食するために相手に有利となる世界に私達を連れ込んだみたいだから。……家が吹き飛んでたら……ごめんね?」
氷柱を片手で生成させながら、僕の方を見てニッコリと笑う。罪悪感とかは一切無さげに。
「そういえば、昨日のアレは使えないんですか? あの魔物にしか効かないという」
「ああ、アレ? アレ、一見するとこれよりも楽そうな気がするけど、一番疲れるのよね。それに言ってたでしょ? 『一部の魔物にしか効かない』って」
肩を回しながら続けて何度も何度もばらまき放つ。容赦なく、次々次々次々と。
こんだけの量、黒いそれを放ってもらっていても、視界は未だにほとんど白かったので、僕はこんなに濃い白をどうやったら生み出せるのだろうか、という疑問に至った。
同時に、魔物というものはなんでもありなんだなぁ、という感想が思わず口から出そうになった。
「埒が明かないなぁ。しょうがない、翼、生やしますか」
「えっ」
アマ姉は、そんな人間界ではおよそ言わないであろう言葉を口に出すと、もいで無くなっていた翼が背中の肩胛骨の辺りからゴギュッ、ゴギュッ、という溶岩溜まりのような音を立てて生え始めていく。
その翼は抜け落ちた烏の羽根のように、あるいは暗雲垂れ込める空のように鈍色で暗く、ぽつん、と地球が中で産まれ置かれた宇宙のように大きかった。
アマ姉は、その翼を完全に生やし終えると、翼をまるで手や足のように自由自在に意思を持たせるが如く動かし、世界を覆っていた白い靄を吹き飛ばした。
そうすると、目の前には虎や牛、馬なんかを合体させたようなキメラみたいでおぞましい生命体とねばついた大きな泥の塊を纏わりつかせたような人型をした生命体が地球上の生物とは思えない声を発しながらこちらを威嚇していた。
「下位の魔物ね。どうやら意思疏通を図ることは難しいみたい。……こんなに涎を垂らして。よっぽと、リン君を食べたがっているみたいね」
「うぅ……」
目の前の怪物を見て、僕は怖じ気づく。
どうやら、相手方さん達は本当に僕のことを食い散らかす気でいるらしい。相手の殺意は見え見えである。
僕はべつに美味しくなんてない。ガリガリでひょろっひょろで肉なんてついてなくて、皮と骨の味しかしないだろうし、食べても美味しくないしお腹を壊しちゃうから住み処に帰って! それで、ゆっくりしてて!
僕は心の中でそんなことを念仏のように唱えるが、唱えたところで、相手の殺気は止まるわけがなかった。
美味しそうにじろりじろりと、僕のことだけを眺め回す。アマ姉のことなど、眼中にないようだった。
「でも、正体が、場所が、無様に殺気の居所がわかってしまったらもうおしまいね。さあ、消え失せなさい。蒙昧で実に哀れな魔物共。あなたたちの庭ごと滅ぼしてあげるわ」
言いながら空間に消えたアマ姉が、次の瞬間魔物達の後ろに現れて魔物達の腹をその黒くて鋭い凶器と足り得る氷柱でつき破った。
腹に蓄えていた養分と謎のカビたパンのような緑とも黒とも言えない色をした液体が黒ずんだ赤い血と混ざって、臭気を含んだガスとともに外に漏れだしていく。
そうして、暫くして魔物達の微かな動きさえも止まり、魔物達は息絶えた。
「ふう。さて、あとは消さないとね。こんなものが捨て置かれていたら気味が悪いし」
突き刺していた氷柱を既に固まってしまっていた肉塊たちから力強く抜いて消し飛ばすと、まるで念動力使いのように魔物達の残骸の固まりすべてを宙に浮かせて、ブラックホールに吸い込まれていくが如くアマ姉の方に引き寄せられて彼女の手の中に消えていった。
「あの、ありがとうございました」
「べつに、お礼なんていいのよ。朝から災難だったわね」
アマ姉はパンパン、と手を上下にはたき、虚空を見つめる。一仕事してやったわ、と言わんばかりに。
「そういえば思ったのだけど、さっきのアレは部屋を掃除するときなんかに使えそうね」
と、アマ姉は閃いたとばかりに一つ呟く。同じく魔物であるもの達の死を少しも憂うことなく。
「うーん、アレはちょっと勘弁してほしいです。家の家具なんかが傷みそうだし、下手したら消えて無くなっちゃいそうです」
「うーん、残念」
そう、地面に落ちていた小石を軽く蹴って、ダメだったか、というような表情をして俯いた。
「さてさてさてさて。この世界はもう終わり。元の現実に帰ることにしましょうか。……家はたぶん大丈夫なはず。現実の世界には干渉してきていないはず……たぶん」
曖昧にそう言い終えると、僕の手をしっかり繋いで空間の裂け目を爪でつくってみせた。
「さ、帰りましょ、リン君。麗らかな陽気が待っているわ」
僕達は濃い白がなくなってこの緑と青がきらびやかに演出する何処か遠い遠い鬱蒼としたジャングルの湖のほとりから別れを告げて現実の世界に繋がる裂け目の中に入っていった。
裂け目に入ると、また一面が白い世界となっていた。
アマ姉は「あれ、何処に裂け目を作ればいいんだっけ? リン君知ってる?」と、困惑した表情で僕に訊いてきたが、すぐに思い出してなんとか現実の世界に帰ることができた。
現実の世界に帰ると、眩しい太陽が僕達の目を痛みつけるかのように照りつけ、さっきまで現実味を全く感じていなかった心が一気にスイッチを切り換えて平常運転をし始めた。
家は……無事で安心した。傷一つとしてついていなかった。
「マーキング、しておかないとね。リン君を食べていいのは誰なのか思い知らせてあげなきゃ。毒をぶちまけるか、もういっそ近づけないように罠を張り巡らせておくか、それとも……」
「あ、あはは……」
そう悪そうな笑みを浮かべて拳を握ったアマ姉は、なんだか物語に登場する悪役の親玉か何かに見えてしまう。でも、なんだかその姿は何処か似合っているようにも思えた。
(すごいなぁ、アマ姉は)
僕はそんなことを思うと、アマ姉の顔をチラリと見るのであった。