3.幻想世界にご案内
「……ふわぁーあ」
僕は大きな欠伸をする。気だるげな感じで。
「あら、眠いの?」
僕の母親が着ていた白いワンピースの着心地を確かめながら、アマ姉は僕に一つ質問をする。
「ええ、すみません。もう夜の十一時をまわりましたから」
申し訳なさそうに言葉を返して、僕は読んでいるところのページに栞を挟み、パタリと丁寧に本を閉じる。
文と文、それから少しの空白と紙の匂いで彩られていた世界が瞬く間に消えていく。それを感じて、僕の一日はもう終わるのだと脳が理解していく。
「不思議なものね、人間て。魔物は別に眠くなることなんてないから。まあ、一部の魔物は眠くなったりするのかもしれないけれど」
アマ姉はまじまじと僕の顔を見ながら、不思議そうに顔を顰める。
人間と魔物の違いに驚いているのか、それとも人間の劣っている部分に呆れているのか、あるいは人間のその行動のユニークさに興味を持っているのか、その行動の意図は正確にはわからなかった。
「不思議といえば、そういえば意外でした」
「何が?」
「アマ姉が人間社会のこととか、テレビだったりラジオだったりフライパンだったりの生活必需品の使い方とかを知っていたからです。僕が読む物語とかでは、よく魔物はそういったことには疎いように書かれているので」
「魔物でもこれくらいのことはわかるよ。むしろ、私達は人間社会の裏に潜んでるから。この地に落ち、息吹きを吹き込まれれば、生きていくうちに嫌というほど、そういう情報は目や耳に入ってくる」
沸かした熱々の白湯が冷めるのを待ちながら、アマ姉は僕の疑問に淡々と答える。
さっき、白湯は身体に良いらしいから飲んでる、とアマ姉は言っていたのだが、それをする理由自体もなんだか人間味があって、なんだか魔物であるような気がしない。
何故だろうか。僕の頭の中に勝手に偏見等の諸々が染みついていたから?
理由はわからないけど、僕がイメージしていた魔物というよりも、ひとりの人間として見れる気がした。
「まあ、リン君が眠いというのならもう寝ようか」
「アマ姉ちゃんの布団も敷きますね」
「ああ、いい、いい、大丈夫。一緒に寝ればいいんじゃない?」
「……えっ、一緒に!?」
アマ姉の言ったその言葉に驚いて僕は敷き始めようとして持っていた布団の一式を思わず落としてしまう。
「うん、一緒に。ダメ……だったかな?」
「え、いや……でも、ほら、たぶん一緒だと寝づらいかも」
「どうして?」
アマ姉が上目遣いをして僕に訊いてくる。
「えっと、ほら、二人だと窮屈ですし」
「……そうかなぁ?」
僕の問いにアマ姉は首を傾げて布団の方をチラリと見る。
確かに僕ひとりにはこの布団は大きすぎるかもしれない。でも、だからといって、一緒に寝るというのは……。
「まあ、いいわ。布団、くっつけて寝よ?」
アマ姉はそう言うと、僕が畳に落とした布団を軽々と持って僕の布団の隣にそれを敷く。鼻唄まじりに。
僕ももうお年頃だし、それにアマ姉と一緒にって何故だか寝ようとしても寝られない気がするんだ。
僕はそんなことを思いはしたが、口にはしなかった。
「この翼邪魔よねぇ……えいっ!」
腕を翼の方に持っていきそうやって元気よく掛け声を掛けると、翼がグロテスクな感じで抜けていく。ビキビキ、ビキビキ、という生々しい音とともに少しずつそれが剥がれていく光景を僕は最後まで直視することはできなかった。
たぶん、こういったものは物語の描写……文やイラストで表されたものでさえも無理だと思う。
僕は段々と額から冷や汗が垂れていっているのに気づき、近くにあったティッシュでその恐怖による産物を拭く。
拭いてもじわりじわりとまた出てくる。
「……あっ、ごめんね。こんなところ見たくなかったよね。お姉ちゃん、魔物だからちょっとだけ常識が欠如してるの」
僕のその反応に気づいたのか、アマ姉は僕を見て一つ詫びを入れる。ちぎった翼を左手から発した黒い何かでゆっくりと消し飛ばしながら。
「それ、痛くないんですか……?」
僕はその痛々しくて異様な光景を目の当たりにして、そんなことを一つ質問する。
「大丈夫。ちょっとむず痒さは出てくるかもしれないけど。それに翼なら自在に生やせるから」
「魔物って……スゴいですね……」
「そんなことはないよ。ただ、おかしなことができるだけ」
両翼を消し終えたアマ姉は僕の方へと向き直って、僕の右頬を突っつく。まるで、「そういうことは言わないで」とでも言いたげのように。
「リン君はさ、翼って欲しい?」
「うーん、欲しいか欲しくないか、って訊かれたら欲しいって答えますかね」
「なんで?」
「もし、お空の遠い遠い先に天国というところがあるのだとしたら、その翼で両親に会いにいけるから、ですかね」
「……ごめんね。話したくない話、させちゃった」
「いえ、気にしないでください」
訊いてはいけない質問をしてしまったのではないか、そう考えたらしく、アマ姉はシュンとする。
そんなことはない。ただ、僕が未練がましく、両親をまだ諦めきれてないだけの話なのだから。
だから。だから、僕がもう変わらないと。
「それじゃあ、寝ましょうか」
そう言って、僕は明かりを消す。そうすると、僕の目から見える世界はたくさんの色が主張していた鮮やかな世界から、薄暗い深い深い闇の世界へと様変わりしていった。
暗くてシルエットすらも見えないとこしえの美を手に入れた魔女が囁く。「お前の中身は空っぽでとてもとてもつまらない」と。
小さくて薄気味の悪い寄生先の宿主を見つけた黒粒達が蠢く。「ほとんど何もないが生命力という養分だけはある」とでも言っているかのように。
既に世界は変化していて、ここは幻想の世界になっているのだ。
牙を生やした眼球を持たないムカデ似の謎の生物達がそこら一帯を這いずりまわる。
灰色の物質で固められたチョウのようなものの集合体が地面に転がりまわる。
それを見て僕は怯えて、ただただ立ち尽くしていた。
そんな幻想の海に、一匹の女性がニタリと艶かしい笑みを溢しながら、暴れまわっているではないか。
ひとつの恐怖を握り潰し。ふたつの後悔を蹴飛ばし。みっつの懺悔を踏みにじって。
そうして、暫くして僕の方へと近づいてくる。ゆっくりと、それはもう静かに。
その女性が遂には僕のところまで辿り着くと、僕の方へと手を伸ばした。優しく、優しく。
僕は伸ばされた手を拒もうとするが、段々と魔法の力によって心の中身が入れ替わっていって……遂には心は別物になってしまった。別物になってしまった僕はその伸ばされた手をコワレ物を扱うかのように慎重に取る。
そうすると、次の瞬間女性は僕の頭ごと僕の身体を喰らい尽くす。
むしゃぶり、むしゃぶり、遂には骨すらも彼女の胃袋の中へと消えていった。
もう僕は何処にもいない……。
「…………。……ね……。……ねえ……。……ねえ――大丈夫? 大丈夫? リン君」
「あれ、アマ姉……。ここは……?」
「魘されてたみたいね。布団に入るなり、すぐに意識は夢の中に行っちゃってたかな」
ぼんやりとした視界をぼうっと眺めて、僕はアマ姉が口に出した言葉をしずしずと聞く。
何か怖いものを見た気がする。でも、何を見たかは不思議と思い出すことができなかった。
「確か、悪夢、ってやつでしょ。たまに人間が見るものらしいね。助けになるわ。私を使って?」
「えっ、使って、って?」
「魔法を掛けてあげるの。悪夢を見なくさせる。悪夢を消し飛ばして、悪夢とかいうやつを懲らしめてやろうと思うの」
「お気持ちはありがたいですけど、でも、もう大丈夫です」
「本当に?」
「……うーん、大丈夫ではないけど、大丈夫です」
一瞬返答に迷いはするものの、大丈夫だ、ということを再び繰り返す。アマ姉の方から少し視線を反らして。
「……それに、僕のすぐそこにはアマ姉ちゃんがいますから」
少し恥ずかしそうに照れ笑いをしながら僕はボソリと呟く。
だから、今の僕は怖くても大丈夫。だって、ひとりじゃないから。
「ふふっ、頼ってくれてるのね。なんだか嬉しい」
嬉々として身体を弾ませてそう言いながら、アマ姉はニッコリと笑った。
「でもね、本当に辛かったら言ってね? 悪夢が原因で死んだ人がいる、って噂を聞いたことがあるから」
「はい、わかりました」
「うんうん。すぐに魔法を掛けてあげるからね。私、リン君には私が食べるその日まで死んでほしくないんだから。絶対に、絶対に。その日まではリン君と一緒だよ?」
アマ姉は満足そうに頷いて、僕の耳元で嬉しそうにそう囁いた。
「もう寝れる? 大丈夫?」
「はい、大丈夫です」
「寝る前に何か温かいものでも飲む? ココアとか、確か市販のやつだけどあったよね」
「いえ、お気持ちありがとうございます」
「テレビでも一緒に見る? 何か面白い番組でもやっているかもしれない」
「いいえ、その気持ちだけで僕には充分です」
「今日くらい夜更かししてても大丈夫じゃない?」
という問答を何度も僕らは繰り返した。
そうして暫くして、気をつかわれるのはやっぱりどうしても申し訳なく思ってしまうので、「ありがとうございます、でももう心配要りません」とまた一言添えて僕はアマ姉の隣で静かに寝息を立て始めたらしかった。
汗でぐっしょりとした感じにはなっていたが、今度はアマ姉が隣にいるという意識がちゃんとあったために悪夢を見ることはなかった。それは安心感故からなのだろう。
今度見た夢はというと、両親が生きていて、アマ姉が実の姉として存在していて、みんなで楽しく暮らしているという、僕にとってはとてもとても幸せな夢だった。
こんな楽しい時間が永遠に続いてくれればいいのに。やってくればいいのに。
そういう風に、きっと夢の中の僕は思っていたのかもしれないが、未来と現実と過去はやっぱりはっきりしなくちゃいけない。
いつか。きっと、いつか。その日までには、僕は心の整理をしなきゃいけないのだ。終えていなきゃならないのだ。
だって、別れはいつか絶対にやってくるものなのだから……。いくら、嫌だ、と僕自身が嘆いたとしてもだ……。