1.魔物のお姉さんとひとりぼっちの僕
僕の家には美しくて儚い魔物が潜んでいる。
それに気づいたのは僕が十二の時だった。
僕はある日家の中で一人で読書をしていると、なにやら庭の方から耳障りな音が聞こえてきた。それはなんというか、金属と金属が擦り合わさっているような甲高くてなんとも嫌々しいそんな音だった。
僕は不審には思ったが、極度の面倒くさがりやであったためその音がしただけではその場から動くことはしなかった。
……しかし、いつまで経ってもその音が止む気配はない。さすがに当時の僕は『面倒くさい』よりも『気味が悪い』という気持ちが勝っていたのか、漸く仰向けになっていた身体を起こして本を乱暴にパタリと置くと、庭の方へと向かった。
ただただ広い広い敷地と手入れのされていない伸び放題の雑草が生い茂っているだけのその庭に何があるというのか。泥棒か何かでも、不法侵入したというのであろうか。
僕はそんな誰しもが考えるありきたりなことを考えて庭へと出た。
……庭を隅々まで見るが、別にこれといって特におかしな様子は見られない。
いくら見回したところでこの不愉快な音の正体はわからなかった。
僕は疑問に思った。確かにこの音はこの庭から発生しているはずなのに、それらしき物や怪しい人物などは見受けられない。
……いったい、どうなっているのだろう。
と、そんなことを考えていたときだった。
「がっ……ぐっ……かはっ……」
背後から何者かの腕で首を強く締められる。殺意丸出しの、その腕で。
「……本当はもっと簡単な方法で殺せたの。まあ、でも見つかると厄介だからこの方が安全よね? 自分でも嫌だと思う音を立てるのは正直どうかと思ったけど」
女性の声がした。心なしか、複雑な心情が入り乱れている気がした。
「あなたは……誰ですか?」
「私? 〝魔物〟……かなぁ」
僕が女性の正体を質問すると、女性はまるで愉快犯のようにクスクスと笑いながら現実には存在しない空想上のソレを答えた。締め上げる力を緩めながら。
僕は咄嗟の判断でそのほんの僅かな瞬間を待ってましたと言わんばかりに女性の腕を払いのけ、振り返って女性の方を見る。
しかし、その女性の風貌は、およそこの世の者とは思えないような格好をしていた。
髪は太陽のように煌めく金色で腰に届いてしまいそうな長さ。
目は鋭いが夕焼け色に染まっていて、しかし暗く淀んでいる。
口からは八重歯がこっそり見え、なんとも悪戯な感じがする。
肩はきれいな丸みを帯びていて腕・脚ともに長く、スラリとしている。
衣服は所謂チャイナドレスとかいうやつに似ているような感じで気品溢れるその紅黒い色が映え、全体的にマッチしていてとても高貴な感じがする。
首からは宝珠等で作られたような謎のアクセサリーが提げられていて、それが艶やかに彼女を彩る。
そして、おまけに胸が割りとある。
……と、ここまでならただの美しい女性、というだけで終わりの話なのだが、一部のパーツが僕が知っている『人間』というものにくっついているものとは違っていた。
頭にツノがちょこんと二つほど生えている。それから、禍々しいオーラを放つ翼が生えていた。
そして、手にはダークマター的な何かを発生させて僕の方へと向けていた。
「キミ、親は? 見たところ今はひとりみたいだけど」
「親? ……僕の親はいません。だって、もうこの世にはいませんから」
「ふぅーん、となるとこんな立派そうな日本古来感バリバリの屋敷なのに、ここは孤児院か何か、というわけか。まあ、どうでもいいけど」
そうして、その女性は僕の住み処の方をチラリと横目で見ると、溜息を吐き、僕の方へ一歩また一歩とゆっくりと近づいてくる。同情したかのような、あるいは諦めがついたかのような、そんな面持ちで。
「ここは孤児院なんかじゃないですよ。僕と家族みんなの家です。大切な大切な思い出のつまった」
「……ふぅーん、ところでキミは今までどうやってひとりで生きてきたの? この誰も助けてくれない、誰も見てもくれやしない、誰も人のことを考えてくれやしない腐った世界で。……ああ、そうか。キミは助けてくれる家族も親類も友達もみんなみんないないから、今から自殺しようとしていたんだねぇ? 先のことも考えすらせずに、ただ惨めったらしく、負け犬のようにうじうじうじうじと性根を腐らせて、阿呆みたいにキミの人生は終わっていくわけだ。なんともキミにお似合いの人生なんじゃないかな。無様だね。滑稽だね。キミは首を吊る以外能の無さそうな顔をしていて面白いねぇ?」
「……近いです。自殺の決心はまだついていませんでした。だから、お姉さんが僕を殺そうとしてくれたとき、僕は一瞬安心しました。……でも、違いました。何かが。たぶん、この思い出の染みついた家がなくなるのが名残惜しかったのか、将又、生きていたいという理由が咄嗟に脳裏に過ってしまったのか。どうやら、僕は今は死にたくないみたいです」
「ふむふむ、まあ、どうでもいいけどね。キミは今から私に殺されるんだから。キミはじゃあ……友達とやらに助けを乞えばいいんじゃないかな? まあ、その前に殺すけどね……」
「僕に友達はいません。それが生きていたい理由……未練なのかもしれません。だから、お姉さんが友達になってください」
「キミ、言ってることが面白いね。支離滅裂で、ホント。そんな意味不明なこと言ったところで、私がキミと友達になると思う? ただでさえ、キミを殺しにきた化け物なのにさ」
「それはわかりません。でも、話していて、お姉さんが優しいってことがわかったから、僕個人の意思でお姉さんと友達になりたいんです」
「子どものクセに適当なことぬかさないでよ……」
女性はそう言うと、嫌そうな目をして顔を背けた。
「子どもだから適当なことをぬかしちゃうんです」
僕はそう言って寂しげに笑うと、女性の方へと一歩だけ近づいた。
「……!? ――危ないっ!」
「えっ――」
女性はそう叫ぶと、鬼気迫る表情で僕の身体を思い切り突き飛ばす。乱暴に。強く強く。
見ると、お姉さんの身体に鉄の槍のようなものが突き刺さり腹部から紅黒い血がたらりたらりと地面に垂れていっている。
「……お姉さん……お姉さん! しっかり! すぐに病院に……いや、ダメかな!? どうしよう、どうしよう!?」
「なんでだろうね……身体が動いちゃった……。でも、安心して。これくらい『すぐに治る』から」
そう言って女性はゆっくりと自分の腹部から鉄の槍を抜く。ぐちょりぐちょりと生々しい血と肉とが奏でる音を聞くのは、とても堪えられるものではなかった。吐き気がする。
「近くにどうやら同族の魔物がいるみたいだね……キミの匂いに惹かれてキミの血肉を喰らいにきたのかな……」
「喋っちゃダメだよ、お姉さん! 血が! 傷が広がっちゃう! 待ってて、救急箱持ってくるから!」
「いや、そんなものじゃ傷なんて塞がらないよ。大丈夫、大丈夫。見ててね」
「えっ、いや、でも……!」
僕があたふたと混乱していると、いつの間にか女性が負っていた傷は消え、溢れ出ていた血も止まっていた。
「ねっ、大丈夫だったでしょ? ほら、お姉さんは魔物だから。……さて、私、横取りされるのは大嫌いなんだよね。こういうことをした腐れ下道の魔物は潰さなきゃいけないかな」
そう言うと、表情を怖い顔つきに一変させて、手から何やら黒くて鋭い何かを生み出す。そうして、女性は次の瞬間、それを霧状にして霧散させた。
はらはらと散らばっていた粒子のような何かが一気に消え、いつも見る風景に戻っていく。
「安心して。これは一部の魔物にしか効かないから」
女性は呟くように言うと、ニッコリと優しい笑みで僕の方を見た。
「これでお掃除は完了。はい、お疲れ様でした」
「あの……」
「ん? どうしたの?」
「悪さをした魔物はどうなったのでしょう?」
「ああ、ただ懲らしめただけだから大丈夫。ただ、ちょこっっっっっっっっっっっっとキツい罰になったかもね」
そう言って、女性は指で『ちょこっと』を表した。その仕草はなんだか可愛かった。
「なんかキミを食べる気が失せちゃった。いいよ、キミを食べるの今日はやめてあげる。キミが大人になるまで待ってあげるよ。だけど、キミが大人になったらすぐにキミを食べてあげるから、覚悟してね?」
女性はそんなことを言いながら、指で僕の鼻を軽く突っついた。品定めでもするかのように、粘着質な感じで。
「そうだなぁ……十八の人間が一番美味しいってどっかの噂じゃ聞くなぁ。……よし、キミが十八になるまで私と友達になろう! だけど、キミが十八になったら私がキミを食べる。それでどうかな?」
「友達になってくれるの!? ありがとう!」
僕は子どもらしく無邪気に喜ぶ。
初めての友達で嬉しかった。僕は暫く、ひとりぼっちだったから。誰かの手の温もりに触れられたこと、嬉しかった。
「そういえばキミ、名前は?」
「リン」
「そう、リン、って言うのね。覚えたわ」
「お姉さんの名前は?」
「私? ……そうねえ、〝アマテラス〟かな」
「アマテラス、アマテラス……。僕もお姉さんの名前、覚えました!」
元気よく言葉を返すと、僕はお姉さんの手を握り、家の中へと案内する。
まずは、お風呂からの方が良いだろうか?
「これは同情なんかじゃないからね」
お姉さんは頬を緩ませて笑みを作り、何処と無く嬉しそうに一言呟いた。
この世にはなんとも奇妙で不可思議なことが多いが、あの日は本当に奇妙さが群を抜いている。
奇々怪々すぎて、正直今じゃ信じられないかもしれないけど、あれは僕の大切な大切な思い出のひとつだ。
衝撃がすごかった。嬉しさが溢れ出て止まらなかった。もうひとりじゃなくていいんだと思った。
失いたくない。大事に大事にひとつひとつのピースを欠かすことなく保管しておきたい。
そんな、僕の人生の転機になったきっかけであるあの幻想の話をしよう。僕の酷く濁った世界を照らしてくれた、あの幻想たちの話をしよう。
これが僕と壊れた幻想たちとの、いずれ訪れる『さよなら』まで暮らし続ける日々の始まりだったのである。