第二百八十二話 乱入者の身元
正面玄関からは自称婚約者と警備員さんの押し問答が聞こえてきます。皆もそちらが気になるのか作業の手が止まり、少しざわついています。
「北本君、ここに居て巻き込まれてもマズい。別途指示があるまで別の仕事を頼む。社長が社長室に来て欲しいとの事です」
課長さんが最後の伝言以外を周囲の人に聞こえる声量で言い、私がここを離れる理由を作ってくれました。自称婚約者の前に出るかどうかを相談したいので、社長室に向かいます。
「遊ちゃん、まさかあの男が婚約者って事はないわよね?」
「ありません。私はあの男と会ったこともありませんし、両親も違うと言っています」
社長室に入るなり問い詰められたので、キッパリと否定しました。何を根拠に私の婚約者を名乗っているのか知りませんが、そんな事をする人は絶対にお断りです。
「警備室から正面玄関の映像を音声付きで回して貰ったわ。遊ちゃんも一緒に見てちょうだい」
桶川さんのデスクに置かれたパソコンの画面には、男と警備員さんが言い合う様が映し出されていました。スピーカーからは音声も聞こえてきます。
「だから、貴方はどこの誰なんですか。いきなりユウリさんの婚約者だから通せなんて言われて通せる筈が無いでしょう」
「なっ、貴様は俺を知らんのか。それでよく社会人やってられるな。俺は将来の総理と名高い新白岡葛生様だ」
脂肪で膨らんだ胸を張って偉そうに告げる新白岡。警備員さんは顔を見合わせて首を捻っているので知らないのでしょう。私も知りません。
「今は都議のパパの下で政治を学んでいるけど、すぐに衆議院議員となって総理になるのだぞ!」
父親が都議だそうですが、本人はどうなのでしょう。普通なら秘書として側で政治を学び、父親の引退で地盤や後援会を引き継ぐと思うのですが。秘書と名乗らなかったので、その地位も貰えていないのでしょう。
「ユウリちゃんに確認したわ。知らないそうだから、お引取り願って下さい」
横では桶川さんが警備室経由で警備員さんにユウリの婚約者ではない事を伝え、お帰り願うよう指示しています。素直に帰ってくれれば良いのですが、その可能性は薄いでしょう。
「ユウリさんは貴方を存じないと言うことです。一先ずお引取りを」
「そんな筈はない。ちゃんとユウリちゃんからチョコレートを貰ったんだからな。あれは市販のチョコを溶かして固めた物ではない。愛情の籠もった本当の本命手作りチョコだった!」
顔を上気させ熱弁を振るう新白岡。夢でも見ているような表情なのですが、それをしているのが太った男性なのであまり見たい物ではありません。
「遊ちゃん、あんなのにチョコレート渡したの?渡す渡さないは個人の自由だけど、ちょっと遊ちゃんの趣味を疑ってしまうわ」
「知らない男だと言ったじゃないですか。今年はかなりの数を配りましたけど、あの男に渡した覚えはありません」
共演する人達やテレビ局のスタッフさんにも配りましたが、その中にあの男は居ませんでした。絶対記憶能力があるので間違いありません。
「ユウリちゃんは都議の息子にチョコを渡していないそうよ。本当にユウリちゃんから貰ったのか確認して頂戴」
新白岡は渡してもいないチョコを貰ったと勘違いしたのでしょうか。それとも私の名を騙った誰かから貰ったのか。その真相は新白岡の口から明かされました。




