第百七十二話 増えるお仕事
「さて、北本さんの家で土呂刑事を拾ったら事務所に行くわよ」
「え?今日は仕事は無かったはずでは・・・」
金曜日だから収録はないし、単発の仕事も予定に無かったはずです。事務所に行かなければならない理由がありません。
「何を言ってるのよ。開催するイベントの打ち合わせとか各部署への通達とか、仕事なら山積みよ」
にっこりと笑う桶川さん。逃げるための方便とはいえ、イベントの実施をマスコミに話した以上やらない訳にはいきません。原作者のお父さんとキャラクターデザイン担当のお母さんは打ち合わせをしなくてはならないでしょう。
「桶川さん、あれは脱出のための方便なので・・・」
「こんな美味しい話、逃すと思います?」
時期を名言していなかったので、誤魔化すつもりだったらしいお父さんは涙目です。締め切りが・・・と呟いていますが、私には見守るくらいしか出来ません。御愁傷様です。
「着替えもしたいし、私と友子は家で降りるわ」
登校途中だったので、着ぐるみの下は制服のままです。学校に行かないなら着替えてしまいたいのです。
「ダメよ、内臓が居なくなったら困るでしょ?」
「内臓は別の人でも構わないでしょう、顔が出る訳ではないのだから」
中の人は見えないので、誰が演じても同じです。私が同行する意味はありません。
「あんな殺陣を着ぐるみで出来る人なんか、他にいないわよ。それに、友子ちゃんにはうちの所属になってもらいます」
桶川さんに笑顔で宣告されました。また声優以外のお仕事が増えるみたいです。友子は桶川プロに関われる事を喜んでいますが、私は確かめなければならない事があります。
「桶川さん、それは北本遊としてですか?それとも、声優ユウリとしてですか?」
「北本遊としてね。ユウリちゃんが内臓をやると、北本夫妻との関係を勘繰られる可能性が高いわ」
北本遊の名前が広がるのは避けたいのですが、桶川さんが指摘した内容は無視できるものではありません。家に寄って土呂刑事を回収した私達は、桶川プロへと向かいました。
「しゃ、社長!何なんですか、それは!」
着ぐるみを見た受付嬢さんが叫びました。何の説明も無しにこんな奇妙奇天烈な着ぐるみが入ってくれば、叫んでしまうのも無理ないです。
「これは北本先生の新作のキャラクターよ。うちでイベントを担当するの」
「小説のキャラクターですか。こんな強烈なキャラクター思い付くなんて、凄いですね。小説家さんの頭の中って、どうなっているのでしょう?」
感心しきりの受付嬢。それを考えた本人が真後ろにいるので、直に聞いてみれば良いと思います。
「北本先生を交えて会議をやるわ。重役達を会議室に召集しておいてね」
一方的に命令してエレベーターに乗り込む桶川さん。私達も後に続いきました。受付嬢さんは先程の発言を本人に聞かれていたと知り、耳まで真っ赤にしながら内線で連絡をしていました。
「土呂刑事は警察側の担当者として紹介するから、話を合わせて下さいね」
「分かりました。適当に話を合わせます」
エレベーターで最上階に到着し、会議室にノックも無しに入ります。
「社長!会議をすっぽかして飛び出すとは何事ですか!」
入った途端に中年のオジサンが食って掛かってきました。額から後頭部にかけての肌色が光輝いています。黒い色は側頭部にわずかに残るのみです。普段からストレス受けてると容易に推測出来ます。
「悪かったわよ、緊急事態だったの。それよりも入れてくれないかしら?」
ドアを入ってすぐの所で足止めを食っていたので、部屋の中に入れたのは桶川さんだけでした。
「あ、失礼しました」
オジサンが下がったので、ゾロゾロと会議室に入ります。並んで座っている重役の皆さんの顔に、驚きの色が浮かびました。
「社長、そちらの方々は?」
「こちらは小説家の北本夫妻。この二体の着ぐるみは、新作小説のキャラクターです。この度、我が社で新作イベントを仕切る事になりました。こちらは所轄署の担当となる土呂刑事です」
桶川さんの紹介に合わせて各々がお辞儀します。重役さんたちは、いきなりの話にざわついています。
「まだ発表もされていない新作を扱うという、大きなチャンスです。失敗は許されませんよ?」
完全に経営者の顔で凄む桶川さん。普段はアレでも、伊達に社長をやってないません。その後白熱した議論が続き、成り行きで提案されたイベントは具体的になっていきました。
期日は小説の発売当日ということになり、「絶対に落とせない・・・」とお父さんが落ち込んでいました。お父さんの胃にダメージが入りましたが、締め切りが守られる事が確約された事で担当さんの胃に入る筈だったダメージが消えたので良しとしましょう。
あれこれと詰めた会議は、夜も近くなり閉幕となりました。来たとき同様桶川さんに送ってもらい、桶川さんは土呂刑事を警察に送り借りた車両を返却。いつものワンボックスを回収して帰るそうです。
戻れるのは日付が変わってからになりそうてすが、桶川さんは降って湧いた商談に上機嫌でした。




