第百三十一話 お約束
自室に戻り、服を着替えて三編みを解きます。眼鏡を外して軽く化粧をすれば準備は終了です。
「お姉ちゃん、入るわよ」
ドアをノックする音と共に由紀の声がしました。あれから五分キッカリで、一秒の誤差もありませんでした。
「いいわよ。入って」
ドアを開けて入った由紀は、私を見た瞬間にフリーズした。そんな由紀に対し、とりあえず挨拶をすることにしました。
「こんにちは」
にっこりと営業スマイルを浮かべて挨拶しましたが、由紀に反応はありません。そのまま三分が経過しました。
「しっ、失礼しました!」
顔を三倍早い機体よりも赤くした由紀がそろそろとドアを閉めました。突進してくるかと身構えていたのですが、予想が外れてしまいました。
「え?あれ?ここ、お姉ちゃんの部屋よね。見間違い?」
廊下からうろたえた由紀の声が聞こえます。どうやら軽く混乱しているようでした。
「由紀、どうしたのよ、早く入りなさい」
遊の声で入室を促します。聞きなれた姉の声を聞き、混乱した由紀の精神は少し落ち着いたようです。
「うん、お姉ちゃんの声よね」
再びドアを開ける由紀。今度はフリーズしませんでしたが、部屋に入ってきません。
「どうしたの?」
「えっ?あれ?ユウリさん?お姉ちゃんは・・・」
再び混乱のデバフがかかる由紀。私にはパッシブで混乱させるスキルがあるようです。
「まあ、とりあえずお入りなさい」
「し、失礼します」
由紀はガチガチに緊張しながら小さなテーブルの正面に座りました。まだ今の状況が掴めていません。いきなり自分の家に好きな声優がいたのです。平常ではいられないのが普通かもしれません。
「あの、何故ユウリさんがうちに?それに、ここは私の姉の部屋なのですが・・・」
「私がここにいる理由?それはすぐにわかるわ。それと、あなたのお姉さんって・・・」
眼鏡を掛けて声色を戻します。一時も目を離すまいと凝視する由紀の顔に、驚愕の色が浮かんできました。
「こんな顔よね、由紀」
手慣れた手つきで髪を結います。由紀は口をパクパクさせながら私を指差しています。
「眼鏡外して髪型変えるだけで、案外気付かないものね」
「まあ、声色もこの通り変えてるけど」
前半は遊の声、後半はユウリの声で言いました。ここまでやれば、ユウリの正体が遊だとわかってくれるでしょう。
「お姉ちゃん?あれ?今、ユウリさんが目の前にって、お姉ちゃんがユウリさん?!」
「その通り。新人声優ユウリの本名は北本遊なのよ」
再び髪をほぐし眼鏡を外します。気分はお供が印籠を出した先の中納言か、兄に電話された警察庁刑事局長の弟というところです。
「サ・・・サイン下さいっ!」
両手で色紙を差出し、頭を下げる由紀。その色紙、何処から出したのでしょうか。
「まぁ、サインくらい構わないけど。友子と全く同じ反応するわね」
サラサラとサインを書き、由紀に手渡します。受け取った由紀は、大事そうに色紙を胸に抱きました。
「ありがとうございます!あと、握手もお願いします!」
「本当に友子と同じ行動ねぇ」
親友と寸分違わぬ行動を取る由紀に、呆れながらも握手しました。
「友子お姉ちゃんも同じ反応だったんだ。まぁ、誰でもそうするわよ」
「由紀、見た目はユウリだけど私は遊なのよ。あなたのお姉ちゃんである事は変わりないんだからね」
そう言って微笑みかけると、由紀は期待に満ちた目で私を見つめました。
「じゃあ、甘えても、いい?」
「もちろん。可愛い妹に甘えられてダメって言うはずないでしょ?」
そう答えた瞬間、由紀はテーブルを回って抱きついてきました。
「ユウリさんに抱きついてるユウリさんに抱きついてる、夢にまで見たユウリさんに抱きついてる!蓮田さんの気持ちわかるわー
ふかふかで気持ちよくって、天使に抱きついてるみたい!ユウリさんユウリさんユウリさんユウリさんユウリさんユウリさん!」
胸に顔を埋めて壊れたように呟く由紀。予想を越えた暴走、というか壊れ具合に不安に思っていると、何処からか声がしました。
「あらあら、見事に壊れたわねぇ」
この声はお母さんです。しかし、声はすれども姿が見えません。首だけ動かして姿を探していると、壁の一部がハラリと剥がれて忍者服のお母さんが姿を現しました。
「お母さん、いつからそこに?」
「もちろん初めからよ。由紀ちゃんの狼狽ぶりは面白かったわ」
満足そうに微笑みを浮かべるお母さん。そろそろ由紀を引き剥がしてくれても、バチは当たらないと思います。
「そ、そろそろ降りても大丈夫かな?」
天井からお父さんの声がしました。見上げると、これまた忍者服に身を包んだお父さんが天井に張り付いています。突っ張る手足が限界なのか、プルプルと小刻みに震えていました。
「もう大丈夫よ」
お母さんが返事をすると同時に飛び降りるお父さん。音をたてず、膝で衝撃を殺した見事な着地を披露してくれました。
「夫婦揃って何をやってるのよ」
「遊が由紀にバラす瞬間に、親の私達が立ち会うのは当然だ」
震えが止まらず、未だに手足をプルプルと震わせながらお父さんが答えます。そこで、ある事実に思い至りました。
「お父さん、いつから私の部屋にいたのかしら?」
由紀の部屋から戻った後、私は一度着替えています。まさか、その前から居たという事は・・・
「お父さんが来たのは遊ちゃんが着替えた後よ。着替えを堪能したのは私だけだから安心して」
娘の着替えを堪能する母親の、どこをどう安心すれば良いのでしょうか。誰か私に教えて下さい。




