第百二十四話 演奏会?
奇跡に奇跡が重なって、無事に家に帰りついたコミケから十日がたちました。あの時は、もう死んだかと思いました。
八人乗りのワゴン車がフェラーリやカウンタック、コルベットと首都高バトルを繰り広げ、全てに勝利するなんて誰が想像出来るでしょう。
首都高5号線のストレートでは、RX-7改造の高速パトカーをぶっちぎって逃げていました。桶川さん運転の車には乗れそうにないので、あれからはお仕事の際には電車で移動しています。
今日も電車で移動しています。桶川さんはぶつくさと文句を言っていますが、まだ心的外傷が癒えていないので車での移動はお断りです。
本日最後のお仕事を終え、乗り換えの為に足を踏み入れた品川駅でのことでした。どこからか美しいピアノの音色が流れてきます。
「誰も寝てはならぬをBGMに流すとは、駅長さんの趣味かしらね」
「桶川さん、これ生演奏ですよ。誰でも弾けるピアノが設置されているんです」
最近、駅や空港に誰でも弾けるピアノが設置されています。地域活性化の策で、都庁など人気の場所では順番待ちをしなければならない程だそうです。
「ユウリちゃん詳しいのね」
「弾いているのを動画サイトに投稿する人が増えてますよ。中にはライブを開催するにまで至った人もいるそうです」
音源の方に向かうと、奏者がお辞儀をして立ち去る所でした。見た感じ順番を待っている人は居なそうです。
「ユウリちゃん、ピアノは弾けるのかしら?」
「やりたい事探しの一環で習いました。上手く弾けるかどうかはわかりませんが」
折角覚えたので忘れないよう運指などは練習していますが、上手に弾ける自信はありません。
「もう仕事はないし、聞いてみたいわね。お願いできるかしら」
「難しい曲は無理ですけど、リクエストはありますか?」
椅子の高さを調整し、音と指の動きを確認するために軽く音を出します。思い通りに音を出せたので、普通に弾く事くらいは出来るでしょう。
「宣伝も兼ねて、あなたにを弾いてほしいわ」
「楽譜も無いのに無茶振りを・・・下手でも良いなら弾いてみますよ」
私の唯一の持ち歌、あなたにはCDが発売されてばかりでした。先週から番組でも流れているので、そこそこの売り上げは期待出来ると思うのですが桶川さんとしては少しでも認知度を高めたいのでしょう。
記憶を頼りに鍵盤を叩きます。アレンジする余裕はないので、メロディーラインに忠実に音を構成しました。
最後の鍵盤から指を離すと、周囲から拍手が降り注ぎました。演奏に集中していたので気付きませんでしたが、結構な数の人が足を止めて聞いてくれていたようです。
そんな人の輪の中から、幼稚園くらいの女児がトテトテと近寄って来ました。
「お姉ちゃん、これってロザリンドちゃんの歌だよね」
「ええ、まだ一回しか流れていないのに覚えてくれたのね」
「最初から聞きたい。もう一度、お願い」
じっと見つめられ、はいとしか言えない空気になっています。幸い順番待ちの人も居ないようですし、私も予定がある訳ではありません。
「うちの子がすいません。アカリ、お姉ちゃんに迷惑だから我儘言わないで」
お母さんらしき女性が女の子を抱きしめ頭を下げました。お母さんに窘められたアカリちゃんは、目に涙を浮かべて泣きそうです。
「桶川さん、もう一回構いませんか?」
「ファンの子にはサービスしないとダメよ。私も聞きたいし、ついでだから・・・」
桶川さんからとんでもない提案をされました。聴衆のいるこの場でそれはやって良いのか迷いましたが、泣きそうなアカリちゃんにサプライズをプレゼントすることにしました。
「では、もう一度弾かせてもらいます。『悪役令嬢になんかなりません』の主題歌で、『あなたに』」
通る声での宣言に、聴衆から拍手が起こりました。その中の何人かの人はその声で私が誰か気づいたようです。
ゆっくりと、前奏を弾くと拍手の音も話し声もなくなりました。駅のコンコースにピアノの音が響きます。前奏が終わり、歌声が重なりました。
歌が終わり、ピアノの音が消えると割れんばかりの拍手が巻き起こりました。
「アカリちゃん、アニメ見てくれてありがとうね」
「えっ、お姉ちゃん、ロザリンドちゃん?」
小首を傾げて問うアカリちゃん。変装用のサングラスを外すとお母さんは「えっ?本当にユウリさん?本当に本物だぁ」と呟いています。
「えっと、悪役令嬢になんかなりませんも脳力試験も毎週見ています。握手してもらえますか?」
「応援してくれてありがとう、嬉しいわ」
応援してくれるのは嬉しいのですが、近い将来に由紀や友子のお仲間になりそうなのが心配です。完全になるなとは言いませんが、程ほどで止まる事を祈ります。
その後、握手やサインを求める人に応じたので結構な時間を食ってしまいました。誰も指図しないのにきちんと行列を作って並ぶ辺りは日本人の特性でしょう。
「ユウリちゃん、暫くはストリートピアノは封印ね」
「了解です。でも、歌わなければあそこまでにならなかったような・・・」
小さなファンにサービス出来たので後悔はしていません。だけど、暫くストリートピアノは弾かないと心に決めたのでした。




