6.伊勢崎紘一 ⑥
「……とまあ、大体そんな感じですね」
語り始めてみたら思いの外長くなってしまった話を、伊勢崎はそんなふうに締め括った。内容は底知れぬ恐怖と衝撃に満ちた胸糞悪いような話だが、しかし語る伊勢崎はケロリとしたもので、途中から会長の伊勢崎を見る目に、そんな伊勢崎自身も理解出来ないモノであるかのような色が混じり始めていたが、伊勢崎は特に気にしなかった。
「なるほどね~。そんなことがあったわけか~」
ちなみに、何から言ったものかと言葉に詰まっている様子の会長とは逆に、この事態を招いた張本人である桃依は、楽しそうにそう呟いていた。個人的な好奇心との言葉に他意は無かったようで、彼女は伊勢崎が語った話で十分満足してくれたようだった。
「……楽しそうね、桃依さん」
「ええ、まあ。考えていた以上にスカッとする話でしたから」
言葉どおりのスッキリしたような笑顔で答える桃依に、会長が微かに顔を顰める。
「……確かに、朝永君たちがしたことは行き過ぎていたとは思うわ。でも……出水君のほうも、やり過ぎではないかしら……」
「…………そうですか?」
「仮に伊勢崎君を助けるためだったとしても、それでも限度はあると思うわ。だから……」
僅かに眉を寄せて、どこか辛そうに会長が言葉を紡ぐ。それをじっと見つめていた桃依は、ふっと肩の力を抜くと、微笑みながら頷いてみせた。
「そうですね。言われてみれば確かに、ちょっとやり過ぎかもしれません(『……だから、あなたでは駄目なんですよ』)」
そんな二人のやりとりを見て、伊勢崎は目を瞬かせた。
苦言を呈した先輩の言葉を聞いて、後輩が考えを改めた。端から見れば、そんな光景だ。けれど、桃依の言葉に重なって、別の言葉が聞こえた気がしたのだ。
(気のせい……? いや、でも…………)
一瞬だけ親友の顔が過ぎったのも、それを錯覚で片付けるのを躊躇わせた。だが、桃依の言葉にホッとしたような笑顔を浮かべた会長を見る限り、彼女にはそれが聞こえた様子はない。
(…………ああ、いや……そうか…………)
と、そこで伊勢崎は気づいた。会長に向ける桃依の笑顔が、先程までと違っていることに。
会長に気づいた様子はないから、それは伊勢崎だけが気づけた変化だったのだろう。そしてそれは、気づいてしまえば見慣れた仮面だった。
親友の顔が過ぎったのも道理だ。だってそれは、親友が適当に相手をあしらうときの、突き放した対応と同じだったのだから。だとすれば聞こえた声は、いつもなら親友相手に伊勢崎が勝手に読み取っている、表に出さずにしまい込んだ本音だろう。片や、処世術。片や、まともに相手をするのが面倒臭い。たぶん、そんな違いはあるけれど、対等に相手する価値なしと見定めた、というのに変わりはない。
「でも、出水君がそこまでやったのは、さすがの彼も腹に据えかねた、ということなのかしら」
桃依と話すことで考えがまとまったのか、会長がそんな疑問を口にしながら伊勢崎を見た。
「さあ? 俺に聞かれても。俺だって、穂高が何を考えているか、一から十まで知っているわけじゃないですし。だからまあ……それについては、たぶんもう誰にも分からない、永遠の謎じゃないですかね」
「……そう。伊勢崎君にも聞き出せないのであれば、そうなのでしょうね」
いや別にそういうわけじゃないんですけどね、と心の中で呟くが、わざわざ言葉にはしない。
「ただ、何であんなに過激な手段を取ったのか、については知っていますよ。当時の俺にとってはショッキングなことでしたから、ついついその点については追及してしまったので」
「え……? それはつまり、過剰防衛にも見える行動にはちゃんと意味があったってこと?」
「意味と言うか、まあ……。別に難しい話じゃなくて、あいつ曰く、ケンカの必勝法とか常套手段とかみたいなものらしいんで。あのとき相手をすることになったのは、朝永を含めた五人。人数でも体格でも劣っている状況で確実に勝ちを拾おうとするのなら、まずは不意打ちで数を減らし、可能な限り一撃必殺で仕留めるのが最善だそうで。ま、言われてみればそうですよね。中途半端に殴り返しても、返り討ちに遭うのがオチですから」
なので、今となっては納得している。言い分として理に適っているように思ったのもあるが、何よりも、伊勢崎としては多少やり過ぎと言われようと、穂高が無事であることのほうがずっとずっと大事なことなのだから。
……と、そこで伊勢崎は気づいた。先程聞こえた気がした幻聴――いかにも穂高が言いそうだと思っただけなのか、桃依の胸の内だけの言葉として通じたのかは分からないが、何にしても、だからあのような言葉だったのだと。
話を聞いて、穂高の過剰防衛だと判断した会長は、手控えた場合の結果が見えていない。あるいは、もっと穿った見方をするのなら、その場その場で判官贔屓をしているだけなのではないか、とも受け取れてしまう。――そんな相手が伊勢崎の境遇に同情して息巻いたところで、信用なんて出来ないだろう。
そんなことを考えて、もう一つ気づく。ひょっとしたら自分は、心のどこかで期待してしまっていたのかもしれない、と。朝霧の人間で、生徒会長で、今の世の中で声を上げ、実行に移す行動力を持っている彼女ならあるいは。……とはいえ大部分は、藪蛇になるくらいなら余計なことはしないで欲しいと思っているが。
それでも、僅かでも奇跡を期待してしまう心があったから、桃依の策に乗っかって、話すくらいはしてもいいと思ったのかもしれない、なんて。
だがまあ、その結果はこのとおりだ。やはり自分たちは、今までどおりを維持するのが一番無難なのだろう。そう思うと、いろいろと一気に冷めてしまった。
「質問には答えましたし、俺はそろそろ帰りますね。あまり遅くなると、親が心配しますし」
生徒会室にある時計にちらりと視線を向けながら、伊勢崎はそう切り出した。親のことを持ち出したのは生徒会長の良心に訴えかけて帰りやすくするためで、実のところ今夜は夜勤の母親とは、今日はもう顔を合わせることはなかったりするのだが、どうやらそれはちゃんと功を奏したようで、会長はハッとした様子になると、「ごめんなさい、長々と引き留めてしまって」と謝った。しかし、完全に納得したわけでもなかったのだろう。
「でも、最後に一つだけ、いいかしら」
真剣な表情で、そう頼んできた。
「……まあ、すぐに答えられることなら良いですけど。何です?」
「あなたには、その……怒りや恐怖はないの?」
質問の意図が分からず、伊勢崎は目を瞬かせた。その反応を見て言葉足らずだったことに気づいたのか、会長が一つ小さく咳払いしてから補足する。
「今聞いた話にしても、昨日のことにしても、あなたはかなり酷い目に遭わされている。それなのに、それを話すあなたからは、そのことに対する憤りも恐怖も感じられない。それだけの目に遭わされて、どうしてそんな平然としていられるの?」
そう問う瞳には、どうか理解出来る答えを返してくれという懇願が宿っているようにも見えた。
「んー……別に俺は聖人君子ってわけでもないんで、言われるほど平然としているわけじゃあないですよ。やられているときは、そりゃあ怖いし痛いし、ああいうことを笑いながらやるような奴らには普通に腹立っていますけど」
「……悪いけど、とてもそうは見えないわ。そういう人は何ていうかこう……もっとドロドロしたものを感じるものよ。でも、あなたはその辺サッパリして見えるというか……」
「まあ確かに、喉元過ぎれば熱さを忘れる……みたいな感じで、過ぎてしまえば、そういう意味では熱は無いかもしれませんね。忘れてはいませんし、許してもいませんけど」
逆に言えば、そこにストンと落とし込んでしまったことで、冷めた目で見られるようになったのはあるだろう。起きてしまった過去の一つとして語れるくらいには。
だが、そんなことよりも何よりも、知っていることが一つある。
「でもまあ……結局のところ、俺にとってはそれらの出来事が、その程度でしかないからなのかもしれないですけどね。世界には、その程度のことなんて大したことないと思えるくらい、もっとずっと、痛くて辛くて怖いことがありますから」
だからきっと、どれだけ自分が彼らに痛めつけられても、通り過ぎてしまえば、どうでもいいことだとして伊勢崎は切り捨てるだろう。
「それじゃあ、今度こそ本当に失礼しますね」
そして、伊勢崎はそう締めくくると、会長の反応を待たずに今度こそ生徒会室を後にした。
◆
(……とはいえ、些かフェアではなかったかな……)
教室に向かって歩きながら生徒会室での会話を反芻して、ふとそんなことを伊勢崎は思った。
何の話かと言えば、会長のことだ。
少なくとも現状、彼女はとても助けを求められる相手ではないと判断したわけだが、彼女の理解不足だけを責めるのは少し酷かな、とも思う。何故なら、そうするだけの信用度が圧倒的に足りなかったからとはいえ、伊勢崎は彼女が求めることを全て話したわけではないからだ。
例えば、先程話した朝永との一件には、まだ少しだけ後日談が存在することも。
言い出しっぺの桃依が率先してオブラートに包んで語ったため、当時の伊勢崎が朝永たちから受けていた仕打ちをそれに乗っかる形でしか話していないことも。
――そして何より、唯一思い通りに事を進めたように見える穂高が、本当は誰よりも一番重い代償を支払っていたのだということも。
(でもまあ、仕方ないか。最初から手札を全て晒せるほど、俺らは他人をあっさり信じられるような人生は送ってきていないからな……)
伊勢崎たちのような事情を抱えていなくとも、他人と信頼関係を築くのは難しいのだから。
そういう意味では、桃依の存在を知ったことは唯一有益なことだったかもしれないな、と伊勢崎は思う。決して味方にはなってくれない少女だが、彼女の在り方は、伊勢崎にとってはいろんな意味で興味深い。
と、そこで伊勢崎はハタと思いついてポケットから携帯電話を取り出した。
期せずして朝永との一件を第三者に話すことになったため、一応親友に報告しておくべきだと思ったからだ。ただし、まだ相手がバイト中であることを考慮して、メールにしておく。
そして、二人と話した内容と、ついでに彼女の存在についての雑感を手早くまとめると、送信ボタンを押した。