[1] シルフィ
~このお話は、ずっとずっと昔の物語。
そう……神様が人の姿を象って、
目の前に現れた頃の時代です~
【以前、目次背景が設定出来ていた時に使用していた画像です】
◇ ◇ ◇
地中海のとある領域には、暗い海の底であるというのに、明るく華やいだ世界が在った。半人半魚の国。人魚達の長は『シレーネ』と呼ばれ、唯一神との対話を許されていた。
「シルフィエーヌ……シルフィエーヌ=ブランシェ! 其処にお立ちなさいっ!」
真白い珊瑚を積み重ねたような煌びやかな宮殿内に、怒りを顕わにした鋭い呼び声が反響した。のそのそと動き出した小柄な影が、仕方ないといった様子で苛つく声の正面に立った。
「何度言ったら分かるのですかっ。掟は守るためにあるのですよ!」
「だってぇ、お母様~」
突き出した下唇は「掟は破るためにあるのよ」とでも言いたそうだ。
「それももう幾度注意したことか……此処ではあなたの母ではありません。『シレーネ様』とお呼びなさい」
「はーいっ、シレーネ様ー!」
──はぁ……。
既に叱る気力も失くしたシレーネと、室に佇む侍女達の唇から、諦めの溜息が零れた。この娘はどうしていつもこうなのだろう……全く反省の色が見えない。
「……いい加減勉強したらどうなのですか。あなたももう来年には成人となる十六に──」
「あーっ! お母様、時間よ! シレーネもお小言も終了、終了! ねっ、お母様帰りましょ?」
シレーネの真上に掛けられた時を示す巻貝が、不思議な音色を奏でた瞬間、少女は母親の腕を引き家路を急がせた。業務の時間を過ぎた今、先程以上に聞く耳を持たないことは一目瞭然だ。
「まったく……明日からはちゃんと良い子にしてちょうだい」
含み笑いを隠す様子もない侍女達に、釈然としない赤面した顔を向ける。シレーネの時間を終えた母ルモエラは、透明なガラスの玉座から重そうに腰を上げた。大きな瞳を輝かせて喜ぶ娘の笑顔を見れば、これまでの憤怒の心も瞬く間に透き通るが、自分はどれだけ甘やかしてしまったのかと自身を顧みるや、いささか情けない気持ちにも苛まれる。
「一体何だってそんなに早く帰りたがるの? シルフィ」
宮殿から数分という近い道中、まるで幼子のように母の手を握り締めた娘の顔を覗き込んだ。
「だって~今日はお姉様のお誕生日よ! きっときっと今日こそは戻ってくるわ!」
「シルフィ……」
そういうことか。とルモエラはやっと納得した。
「あの娘は戻ってこないわよ……そろそろ諦めなさい。アリアは何処かの悪い男にほだされてしまったに決まっているのだから」
急がせるその腕を引き、いつものペースに戻して釘を刺す。同時に一つの事に辿り着いた。この子がこうも甘えん坊なのは、きっと淋しいからなのだ……いつも忙しいシレーネの母親と、もう二年も戻らない誰よりも優しかった姉の所為で──。
「どうしてお母様はそう言えるの? 人間になって男の人と行ってしまったお姉様を見たの? あーもうっ、早く成人式が来ないかしら! そうすれば魔法で人間に変身して、絶対お姉様を見つけ出してみせるんだからっ。……お姉様はそんなことでいなくなったんじゃないわ……きっと人魚の姿を見られて、悪い人間に捕まってしまったのよ……」
急かすことを諦めた柔らかい手を放し、シルフィは俯いて泳ぎを止めた。その可能性は否定出来ないとしても、そんな姉ではない筈だと、彼女は信じたかった──いや、信じていたからだ。
「シルフィ……アリアがどれだけ妹想いで良く出来た娘であったかは、母さんだって十分理解しているつもりよ。それでも時に恋は心乱すものなの。特にあんな男の血を引くともなれば……あの娘の中にも、そういう性格が現れたのかもしれなくてよ?」
自宅の方角から自分の娘へと振り返ったルモエラは、小さな溜息と共に涼しく言い放った。まるで自身もその言葉で、諦めをつけてしまいたいかのように。
けれど咄嗟に顔を上げたシルフィの怒ったような表情は、その全てを一瞬でさえ認めていなかった。
「お父様はそんな人じゃないわっ! どうしてお母様は自分の愛した人をそんな風に言うのっ? お父様はわたしにもとっても優しかったわ! なのに……何でみんな、わたしの前からいなくなっちゃうのよ……」
そうして再び垂れた華奢な首筋が、泣くのを我慢するようにコクンコクンと小さく波打った。
困ったように娘を見下ろしつつも、ルモエラは言葉を続けずにはいられなかった。このまま……誤解したままなど、この子にはきっと為にならない。
正面に立ち、腰を降ろして、沈んだ藍色の瞳を見上げる。
「いい? シルフィ。お願いだからちゃんと理解してちょうだい。あなたは私が独りで生んだ子供なの。アリアの父親の血なんて入っていないのよ。それにあの人があなたに優しかったのは──誰にでも、なの。あなたが自分の娘だからじゃないのよ? ……もちろんあの人を愛していなかったとは言わないわ。でもね……お、大人には、えーと、色々とあるのよっ」
「……ぶう。結局そうやってはぐらかすんじゃない。その『色々』って何なのよー」
しどろもどろになって逃げるように立ち上がった母親を睨みつけ、頬を膨らませるシルフィ。一方ルモエラも毎度ここまで話しては詰まってしまう自分を、不甲斐なく思えて仕方がなかった。恋に恋する十五歳の娘に『女ったらしに嵌められて、アリアを産んだのだ』なんて、どうして説明出来よう。
「と、とにかく! 明日からは母さんを困らせるようなことはもう止めてちょうだい。その代わりと言ってはなんだけど、今夜はご馳走作るから! いてもいなくてもアリアの誕生日には変わりないものね。二人でお祝いしましょ」
「やった! きっと美味しい匂いに釣られて、お姉様も戻ってくるわ! わたしもお手伝いするっ」
再び繋がれた可愛い手と笑顔に、ルモエラもまた微笑みを返した。緩やかな波を描く自分に良く似た銀髪越しに、温かな我が家が映り込む。
──でもね、シルフィ……きっとアリアはもう戻ってこないのよ──。
そう言ってしまいたい唇をぐっと堪えて、小さな娘の背に続いた──。