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P氏の清算

A~Zまで悪人を並べ立てようとしててやろうと思っています。

自分の中の悪を並べ立てれば、書いている本人の私は毒が抜けきって真っ当になれるかも知れません。

そう願を掛けながら、意外と悪が出てこないことに焦りながら、Pです。書いたのは、2014年の11月。

責任って何なんでしょう。責任を取って切腹をした国、日本。ですが、この国ほど誰も責任を取らない国も無いでしょう。年金が消えた責任は誰か取りましたっけ?第二次世界大戦にこの国を突っ込ませた責任は?無責任大国、日本。合議制だから、誰も責任取らない。

「申し訳ありません。本当に申し訳ありません。」

 三和土(たたき)で土下座している男の人を廊下から見下ろしながら、私は、この人は善人なのかも知れないと思っていた。

 泣きじゃくり、何度も何度も頭を三和土にこすり付けている。

 三十台前半だろうか。私よりずっと若い。世間を、まだ知らない。のかも知れない。

 町中(まちなか)とは言えない程の田舎のことだ。家は古いとは言っても、かなり広い。十月ともなれば、それなりに冷える。三和土の床石も、さぞ冷えていることだろう。

 どれくらい私は彼が泣きじゃくり、謝罪するのを聞いていたのだろう。

 まるで夢の中を歩いているようで、ふわふわとした現実感の無さが私の周りに漂っている。

 これは本当に起こっていることなのだろうか、それとも夢なのだろうか。

「お前、人一人殺してるってこと、分かっているのか!」

 怒鳴り声の主は、主人だった。額に青筋を立てて、がなり散らしている。

「70も後半まで生きた人だぞ。立派な人生の、社会の大先輩を、お前はお前の不注意で殺したんだよ、この人殺しが。『申し訳ありません。』で申し開きが出来るか考えてみろ。」

 私はしらけた気分で主人の横顔を見ていた。主人に比べれば、間違いなくこの男性は善人だ。

「お前の親とは、俺、反りが合わねえんだよ。なんつーかさ、お前に言っても無駄だから、俺にせっつくみたいなさ、そんな浅いのがミエミエなんだよね。俺にお前の実家行って、茶ァでも出せっての?ありえねえし。」

 私も主人の実家にはウンザリしている。何かと言えば口出しをしてきて、さも親切ぶって見せるくせに、無責任極まり無い約束をしたり、子供達を振り回すようなことをする。

 だから、自分の親も、きっと主人には鬱陶しいものだろうと思う。だけど、私は口には出さない。出したところでどうなるものでもなし、出したところで相手が嫌な思いをするだけだから。

「俺にあのクソまみれの家の掃除しろとか、言わないよな?」

 そのくせ、主人は私の両親が死んだ後は、私の実家で暮らすことを半ば想定している。わたし達の住んでいるマンションとは比べるまでもなく、家も土地も広い。駐車場代を気にする必要もない。

「償いきれるとは思っていません。ただ、ただ申し訳ありませんとお詫びするだけです。」

 そう言えば、主人が車で事故を起こした時はどうだっただろう。主人は車で、子供が乗った自転車をはねたのだ。

「いきなり交差点で飛び出してきたんだよ。事故だよ、事故。

 はあ?なんで俺が謝りに行かにゃならんの?相手が悪いんだよ。

 法律?はん。バカバカしい。法律がどうでも俺が被害者なんだよ。

 慰謝料も治療費も、全部保険から出るだろうが。

 はあ?保険会社が謝罪に行けっつってる?バカか。どうしてもってんなら、お前が行ってこい。俺は仕事が忙しい。」

 私はお花とお菓子を持ってお詫びに行った。相手の親には散々罵られた。

 事故を起こした本人が何故誠意を見せに来ない。何故今頃になって、しかも奥さんが来るのか。一時停止の交差点で一切減速しないで突っ込んできて、後は保険会社任せってどういうことか。

 私はひたすら頭を下げ続けた。

 後で保険会社の人に言われた。

「保険の等級、ほぼ一番下まで下がります。つまり、保険料は一番高いレベルになると言うことです。

 何せ、先方はあのお怒りようですからね。本人が謝罪にも来ないようなら、慰謝料もそれなりにかなり高額になりますよ。なにより、ご主人に反省の色が見えないってのが致命的ですね。私も上司に報告のしようがありません。」

 付け加えるようにして、ぼそりと担当者が言ったのを覚えている。

「いるんですよねえ。なんにしても頭の下げられない人。そういう人に限って、被害者面する時は人一倍で。それって、自分が損するだけだって知っているんでしょうかね。」

 主人は今、唾を飛ばして男性を罵っている。喜々とした表情は、まるで水を得た魚のようだ。自分のことは棚に上げ、母が交通事故で死んだと聞いて、絶対に来ないと言っていた私の実家に上がり込み、事故の相手を殺人者呼ばわりしている。

「人・殺・し、なんだよ、お前は。刑法なんざ知るか。法律がどうあれ、お前が人一人を自分の手で殺したことに変わりは無いだろうが。」

 ふわふわとした現実感の無さは消えてはいない。それでも、この状況は私には不快だった。

 私は三和土に降りて、男性の手を取った。

「もう、充分ですから。もう結構ですから。お気持ちは充分にいただきました。

 どうか、どうか今日のところはこれで。わたし達も疲れていますから。」

 男性は真っ赤に腫らした目で私を見た。ガタガタと体が震えている。私は両手で相手の右手を包んだ。冷え切った、冷たい手だった。

「事故なんですから。どうか、ご自分を責めないで。」

「バカ野郎、お前。こいつ、お前。お前の母親殺したんだぞ。

 いつもいつも食事届けたり、孫の相手したりしてくれてた、あの優しいお母さんだぞ?

 あの善良を絵に描いたようなお母さんを殺した殺人鬼だぞ、こいつは。」

「母が信号を無視して飛び出したって、警察の方も言ってたじゃないですか。

 それとも、交差点で一時停止せずに子供をはねたあなたが、他人には青信号でも一時停止しろって仰るんですか?」

 私はしらけた思いで口にした。

「何言っているんだ、お前。自動車に乗る者は、歩行者の安全を保証するもんなんだぜ。」

「だから、それをあなたが言うのですか?子供をはねたあなたが。子供に大けが負わせて、お詫びの一言も言わなかったあなたが。口は痒くないのですか?」

「誰に向かって物言ってんだ。お前、誰に食わせて貰ってる?」

「すり替えないで。」

「こいつだって、信号の手前でスマホでもいじってたんだよ。でなければ、お母さんがいくら信号を無視したからって、気付かないわけ無いだろうが。」

「そうじゃないって、見た人がいるって警察の人が言ってたでしょう?」

 私は主人の顔をまじまじと見つめて続けた。

「あなた、本当に今、楽しそうよね?」

 私の言葉に息子が飛び出してきた。

「母さん、止めよう。ね、もうここいらにして。」

 高校生の息子は主人よりも背がかなり高い。背がまだ息子より高い間は、主人は息子を可愛がっていたが、背の高さで抜かれると、まるで敵愾心を剥き出しにするようだった。ボスザルが、ボスの座を守るために、虚勢を張っているようにしか見えない。

「あんたも、もういいから。分かってるから。あんただけのせいじゃないよ。後はさ、保険の人がやってくれるんだろ?

 あんたの気持ちは良く分かったって。今日はもう帰って。それから葬式とか、来なくて良いから。静かに送ってやりたいし、ばあちゃんもあんたを恨みになんて思ってないし、娘の母さんもそう言っているんだし、お互いに辛い事故だったよね。そういうことで。

 忘れろって無理だろうけど、あんま、気に病まないで、マジで。」

 男性は私と息子に深々と頭を下げて帰っていった。

 主人は噛み付かんばかりの顔でわたし達を睨み付けていた。

「ちょっとでも保険料を取ってやろうという俺の気持ちが分からんのか、お前ら。」

 口の中のタバコの匂いが染みついた唾が飛んでくる。私は手で自分の顔を守った。つかみかからん勢いの主人の前に、息子が立った。

「あんた、見苦しいんだよ。だいたい何なんだよ。あんたが口出しすることじゃないだろうがよ。ばあちゃんはあんたとは赤の他人じゃないか。あんたがいつもそう言ってるだろ?

 その他人が死んで、謝りに来ている人間にあのザマって何?みっともない。あんたみたいな人をね、クズって言うんだよ。」

 主人は口をパクパクとさせるばかりだった。

 玄関から母の遺体を安置している座敷に戻ろうと踵を返すと、主人がわたし達を追い越していった。

「マジであんなのと血が繋がってるの?俺。ゾッとするんだけど。」

 主人はドッカと父の横に腰を下ろすと、まるで家長然と胸を反らした。私は溜息をついた。

 母さん。あなた、まさかと思うけど、また逃げたの?


 母との思い出で、いい思い出なんて、探しても思い当たらない。

 嫌な思い出なら、どれだけでも思いつくのに。

 きっと、夜通し喋れと言われれば、喋れるだろう。

「あら、違うのよ。」

 これが口癖だった。

「あら、違うのよ。今ね、自治会のね、ゴミ出しについての会議に出てるのよ。あなた、代わりにサインしておいてちょうだいよ。」

 目の前にあるのは、父の手術の依頼書だった。総合健診で、父の胃に初期の癌が見つかった。依頼書には父のサインがすでに入っており、お医者さんからは家族の方のサインもある方が良いと言われた。

 家族に対する父の病状に対するインフォームドコンセントで、最初の告知の時には母は同席したが、その席で手術同意書にサインをすることなく、後日再度二人でお医者さんと話をするべく病院に行くことになっていたが、母はそれをすっぽかしたのだ。その言い訳が自治会のゴミ出しだった。

 私は母が同席した最初の時のことを思い出した。母は私の顔をのぞき込むようにして言ったのだ。

「Pちゃん、サインしてよ。ね、Pちゃんの方が運がいいじゃない?くじ運だってさ、大吉良く引き当てるじゃない。商店街の福引きでもね。だから、サインしておいてよ。」

 福引きでは、一番下のポケットティッシュより少しだけ良い50円券が当たったくらいだ。それでくじ運も何もないものだ。

 お医者さんから、最初に手術の依頼書を見せられた時、母は手術のリスクもろくに聞かず、私にそう言った。

「それに、何か嫌じゃない?アタシがこれにサインして、お父さん死んじゃったりしたら、まるで私が死刑執行にサインしたみたいじゃないの。」

 お医者さんを前にして言ってのけたのだ。私は慌ててお医者さんに頭を下げた。

 では次回、もう一度良く考えてから来て下さいと言われ、母はその日、すっぽかしたのだ。私はしぶしぶ父の手術依頼書にサインをした。お医者さんの苦笑いが忘れられない。哀れみをこめた、笑いだった。

 息子がまだ小学生の低学年だった頃、ゲーム機を持っていた。

 うちでは電子ゲームを禁止していた。息子はしぶしぶ従っていたが、いつの間にか手にしていたのだ。

 まさか友達のを持って帰ってきたのかと、私は息子を問い詰めた。息子はなかなか口を割らなかったが、ついにおばあちゃんに買って貰ったと白状した。

 私は母にもうちの約束事をくどくど説明していたにも関わらず、母は息子にゲーム機を買い与えたのだ。

「あら、違うのよ。」

 母はけろりと笑って言った。

「だって、トモヒロちゃん、学校でみんな持ってるって言うのよ。持ってないと、仲間外れにされちゃうんだって。」

「だから、何度も言っているでしょう?みんなと言っても、クラスで二~三人なのよ、あの子らの言うみんなって。」

「いいじゃない。なんでそんなに目くじら立てるの?」

「うちではダメなの。ネット通信でのトラブルも多いんだから。あれ、捨てさせるからね。」

「まあ、鬼ママね。怖いわあ。トモヒロちゃん、きっと悲しむわね。かわいそうに。」

 その可哀相の原因をわざわざ作ったのは、母だと言うのに本人はまるで気にしていない。

 一事が万事、そんな感じだった。

 実家とわたし達の家は、車で二十分ほど離れている。頼みもしない夕食を作っては、良く押しかけてきていた。それも中途半端な量で、家族三人と母の分量はなく、用意していたものが微妙に残る。どうせまた父の悪口でも言いに来たのだろうと言うと、

「あら、違うのよ。」

 てかてかに塗り込んだ化粧が深いしわに食い込んで、ヒビが入りそうに笑う。

「ただね、家族で食事がしたかったの。それだけなのよ。」

 しばらくして父から電話があった。父とケンカをして、夕食をタッパに入れて出かけたそうだ。父はその夜、食事にありつけない。父の分も母がうちに持って来ていたのだ。いつもそうだった。

 子供の頃のことは良く覚えていないが、私自身が覚えておく必要もないと思っているのだろう。思い出そうとも思わないので、そのままにしてある。

 父が癌の手術を受け、二年ほど経って痴呆が出始めた。

 母は私が手術の同意書にサインをしたからだと責め始めた。では母は手術に反対だったのか。

「あら、違うのよ。」

 驚いたような顔をする。

「だいたい手術なんて、する必要があったのかしらと言うこと。初期の癌だったのよ。

 だったら、そのまま放っといても、そんなに大きくなる前に寿命よ。

 それならわざわざお医者さんに高いお金払って、ボケの原因を作る必要なんて、なかったのよ。」

 それを、頼みもしないのに私が手術同意書にサインをしたという。手術と痴呆との因果関係も、もちろんお医者さんは否定した。それを母も聞いているのだ。呆れてものも言えないでいると、

「介護は、アタシ、出来ないから。」

 と言う。

「足も腰も腕もね、痛いの。だから、Pちゃん、お願いね。」

「私も仕事があるのよ。」

「スーパーのレジ打ちでしょう?あんなの仕事のうちに入るの?パートじゃない。誰にだって出来る、バカみたいな仕事でしょう?

 でも、お父さんの介護はPちゃんじゃないと出来ないわ。」

 私にも家庭がある、仕事がある。私はこの母の勝手な言い分を無視した。それに、パートにさえ出なかった人に、レジ打ちをバカにされたくもなかった。

 ある時、警察から電話がかかってきた。父が徘徊していて、保護したという。何故私に連絡をしてきたのかと問うと、首に連絡先をぶら下げていたというのだ。母は、私の連絡先を書いていたのだ。

 父の徘徊は段々酷くなり、私は度々警察に呼び出された。大概夕方から夜中だった。私はその度に父を実家に連れて行った。

「奥さんが、ちゃんとご主人見てあげないと。」

 足と腰と腕が痛い割りに、母は良く観劇に出かけ、ゴルフに誘われては出かけていた。

 留守宅に意気揚々と、着物をめかし込み、酒の匂いを漂わせた母が帰ってくると、巡査が流石に露骨に嫌そうな顔をした。

「あら、違うのよ。」

 お決まりのフレーズを使って、へらりと笑う。

「どうしてもって、ご近所の方が。

 だってねえ。断れないでしょう?お誘いには伺わないと、後で何か陰口叩かれても困りますし。

 それに、うちにはこの子がいますから、この子が主人の面倒を見ますわ。」

「娘さんは娘さんで家庭があるんです。奥さんは奥さんで、自分の家庭をちゃんとしないと。」

「あら、違うのよ。アタシはね、体がほら、ダメだから、この子にお父さんを見てって言っているのよ。なのに、この子ったら全然その気がないのよ。親不孝ったらないわ。」

 巡査が深い溜息をつく。

「こう言っちゃあ何だけど、奥さん遊んでるだけでしょう?だったら、もうちょっとご主人の世話、なさったらどうなんです?」

 昼間はデイケアや訪問介護に任せっきりで手を掛けていないことを、もう何度も世話になっているこの巡査にも知られていたのだ。情けなかった。

 父の昼間の世話は、主にデイサービスに任せていた。土日には訪問介護を受け、決まった一時間の間に、父を風呂に入れ、掃除をさせ、洗濯もさせていた。見ていて恥ずかしいほどに「こき使って」いた。さも自分が雇い主のような顔をして。その費用の大半が、若い現役が払っている介護保険料から出ていることを、母は知っていたのだろうか。

「それにね、」

 まだ話を続けようとする巡査を、母はいつもの決まり文句で遮った。

「あら、違うのよ。」

 巡査は両手を胸の前で振って、その後の話を聞かずに帰っていった。


 父は痴呆が進むにしたがって、あろうことか体が頑強になった。

 父は繊細な性格で食も細く、仕事で少しでもトラブルがあると一層食が細り、お腹を抱えて痛がるような人だった。

 それが痴呆が出てからは、出されれば出されるだけ食べ、ところ構わず特大の便をするのだ。その便を、無表情に漆喰の壁に塗り込む様は、この世のものとは思えなかった。

 老人ホームに入れるだけの金銭的余裕はなく、両親を除いた唯一の肉親である兄は遠くに住んでいて、一切の連絡をして来ないし、しても何も聞く気がない。

「家のことは全部お前に任せる。財産もお前の好きにしろよ。俺は良いからさ。とにかく仕事が忙しいから。」

 それからは、母と私の間で介護のなすりつけ合いが続いた。世間は、何かと若い世代に責任を押しつけたがる。介護レベルを上げて貰うように頼のみに行った役所の人も、

「どうして自宅に引き取ってあげないの?親不孝だと、思わない?」

 とズケズケと言う。まだ三十後半の、親の介護なんて遠い世代にそう言われても、腹が立つばかりだった。

 主人はそれを聞くと、

「この狭いマンションに、もう一人なんて、入るスペースなんてあるわけ無いじゃないか。それに、俺は他人を世話する気はないからな。

 まず、この家には入れるな。ここは俺の家だ。ボケ老人なんて鬱陶しい。冗談じゃない。

 仕事で疲れて帰って、ボケ老人が同居って。ビールが不味くなるどころじゃない。しかも俺の家の壁に大便塗り込まれてたまるか。

 それと、お前の家族はお前が面倒見ろ。俺は関係ないんだからな。」

 夜中に呼び出しの電話がかかり、徘徊していた父を迎えに行かされた。電話は私の枕元に置かれ、主人は別の部屋で寝るようになった。

 仕事中にも呼び出され、やはり父を迎えに行かされた。仕事場でも、次第に居づらくなった。

 母はそれでも、

「あら、違うのよ。」

 と笑うだけだ。

 実家に父を連れて行けば、私が父を風呂に入れ、寝かしつけなければいけない。母は何もしない。手伝ってよと言っても、「そんなの無理よぉ」としか言わないのだ。布団から出てこないこともザラだった。

 小柄でも大人の男性を立たせたり座らせたりするのは大変だ。まして、湯船に入れたり等となると。立ち上がるにも時間がかるほどに腰は痛み、夜は電話の音に神経を使って熟睡もできず、私は体力的にも精神的にも追い詰められていった。

 そんな折り、母は暢気な声で、

「もうアタシ、無理だと思うのよね。これ以上、無理。」

 ほとんど何もしていない人間が何を言っているのかとあきれ果てたが、あれは母としての本音だったのかも知れない。だから、車に飛び込んだ。

 死ぬとまでは思っていなかったのかも知れない。適当に怪我でもして、自分の世話も父の介護も私に丸投げする腹だったのかも知れない。

 母をはねたのは、実家の近所の酒屋の若い跡取りだった。ディスカウントスーパーやネットショッピングが当たり前の今日、酒屋なんて商売が成り立つのかと驚いたくらいだ。

 それほどにここは田舎で、酒屋の需要があるのだろう。その酒屋の軽自動車に轢かれた。信号が変わって直ぐだったから、スピードもそれ程じゃなかっただろう。母の腹黒さを考えれば、怪我をして可哀相な自分に酔う母の姿が見えるようだ。

 だとすれば、死んだのは「想定外」だったのだろうか。笑えもしない。

 母の葬儀で、棺が灰になって出て来たのを見ながら、私はそんなことを考えていた。

 今後は父を一人で置いておくわけにもいかない。意外に太い骨を見ながら、「結局、逃げたのよね」と恨み言の一つも言いたくなる。


 母の葬儀には、兄が駆けつけてきた。開口一番、

「遺書はあるのか?遺産はどうなる。」

 だった。遺産は要らない、後のことはよろしくと言っていた口がどれだと探してしまう。

 主人にそう指摘されて、

「何だ、えらそうに。他人のお前が口出すな。」

 と兄は軽くあしらっていた。

 十年以上は会っていないはずだ。ぶくぶくに太った兄は自分のことも話さなければ、私のことも全く興味はないようだった。父の状況にも関心はなく、自分が介護をするとか、何らかの手助けをするなんて、欠片も思っていない。ただ、遺産として何が残されているのか、その一点だけに興味があるようで、

「銀行とか、預金通帳あるだろう。見せろ。それから、ネットで投資とかしているかも知れないしな。隠してるとお前のためにもならないから、全部出せ。」

 まるで泥棒を見るような目だ。兄とは五つ離れていて、私が中学に上がって胸が大きくなると、良く風呂場に覗きに来ていた。誰もいないと勘違いしたとか言っていたが、電気がついて水音がする風呂場に誰もいないと思うはずが無い。バタンと扉を開け、私を見る気味悪く据わった兄の目は、高校生になってから被害に遭った痴漢のそれと変わらない。ゾッとするような気味の悪いものだった。

 ある意味、私の実家は家庭崩壊だったのかも知れない。私は兄を気味悪いと思っていたし、父は存在感がまるでなく、母はただ鬱陶しいだけの存在だった。

 どこにも繋がりは無く、バラバラ。

 葬式の後で、うちが取った寿司を片っ端から口に入れビールで流し込みながら、兄はやはりお金のことばかりを言った。

「苦しいんだ。全部とは言わん。七・三くらいで良い。俺は長男だからな。しかも、男は俺だけだ。家名を継ぐのは俺なんだから、全部俺が貰っても良いはずだが、流石にそれはな。」

 そういうと、ケラケラと笑った。

 息子が流石に信じられないものを見るような目で兄を見ていた。

 息子の中では、兄は存在していない人だった。私も口にすることはなかったし、父や母も口にしなかった。それは、ただ単に話題にすらならなかったという意味だ。突然現れた叔父の存在に、最初は驚きながらも嬉しそうだったが、今ではウンザリした表情をしている。

 翌朝、兄は帰っていった。

「これ、弁護士の名刺な。この人とちゃんとやってくれ。

 ああ、遺産隠したりするなよ。犯罪だからな。

 それと、弁護士代はお前が出しとけ。遺産から引くなよ。だいたいお前がちゃんと管理してれば、俺は弁護士なんて頼まなくて済んだんだ。だから、これはお前の落ち度だから、お前の家から出しとけ。

 じゃあな。」

 一言の礼もなかった。父や母の世話をしたこと、葬儀の支度をし、葬儀に呼んだこと。夕食を出したこと。一晩実家とは言え泊まらせたこと。実家でも、布団の上げ下げ、掃除と誰かが泊まるなら用事が出来るものだ。それを分かっているのかいないのか。

「お前の兄貴、凄いな。」

 主人が呆れたように言う。確かにそうだと思うが、同時にどの口が言うのだろうと思う。

「で?遺書はないのかよ。兄貴にはびた一文渡さないとか書いたやつさ。」

 とてもそこまで気が回らない。公文書として母が何かを残しているのかどうかも、これからなのだ。銀行の口座や証券会社どころではない。

「高く売れそうな宝石とか、ないのか?」

 主人は母の部屋に我が物顔で入っていく。こんな人だっただろうか。

 いや、きっと違った。でも、こうなった。それも、私のせいなのだろうか。

 父が癌になり、呆けたのも。母が死んだのも。兄と母と主人がただの薄情者で無責任で自分勝手なのも。

 何もかもが面倒に感じられる。その上、父の世話も全部のしかかってくる。こっちが死にたい気分だ。

「ねえ、母さん。これって、普通なの?」

 息子の困惑顔が気の毒だ。

「どいつもこいつも頭おかしいんじゃなくって、これが普通なの?俺、分かんないよ。」

 息子はまだ世間を知らない。あの酒屋の若い跡取りと同じように。

「これ、出してくるわ。」

 息子は私が差し出した紙を手にすると、まじまじと見つめていた。

「父さん、サインしたの?」

「ええ。随分前だけど。あなたの部活の費用や予備校代で苦しくなって、お母さんパートに出るようになったでしょう?そうしたら、お父さん、怒ってね。

 家事に手抜きがあるって。怒って怒って、これを叩き付けたのよ。

 本気だぞって。自分の分はご丁寧にサインしてね、ハンコ押してね。」

 自分の欄のサインは、最近したのだ。押印もした。役所に出せば、離婚成立だ。

「あなた、どっちにつく?一応、親権は放さないつもりだけど。結婚してからの財産は、夫婦で平等に分けるものなの。だから、今のマンションも、半分はお母さんのものね。あなたの養育費も、お父さんに払って貰う。

 でも、おじいちゃんやおばあちゃんの遺産は、離婚成立後にお母さんに入るものだから、一切お父さんには行かないわ。」

「母さん・・・」

「お父さん。もう死んでくれない?」

 私は横でニコニコ笑って座っている父に向かって言った。

「私一人じゃ耐えられないから。もう死んで。面倒見切れないわ。

 でも、人に迷惑掛けるのは止めてね。車に轢かれたり、電車に飛び込んだり。お母さんはねた人も、気の毒だったでしょう?」

 私は、痴呆になったとは言え、父が理解していると感じていた。

 私は父の側を離れた。父と顔を合わせるのは、これが最後だったかも知れない。だとしたら、有り難いことだ。

「母さん!」

 息子の声が胸に響く。

「清算するの。一人で抱えるには大きすぎるものは、清算するしかないの。

 自分に合わないものも同じだわ。

 時間が経って、自分も相手も変わって、そうしたらお互いに合わなくなっても仕方ないじゃない?だから、清算するの。」

「だからって、死ねって何だよ?母さん育ててくれたの、じいちゃんとばあちゃんじゃないか。」

「育ての恩のこと?

 子供はね、親が勝手に産むのよ。産みたいから、産むの。それで育ててやっただろうと言われてもね。あなたもそう思わない?

 勝手にセックスして、勝手に産んだのよ。だから、子供が気に病む必要なんて、ないの。

 自分がやったことなんだから、自分で始末して当たり前。育てて当たり前なのよ。それに恩着せがましくものを言うのって、気味が悪いわ。

 お母さんはね、自分の義務を果たしたいの。あなたを立派に育て、あなたが自分の生きたいように生きられるように背中を押すの。それが、責任よ。

 後はあなたの好きになさい。親を振り返る必要なんて、ないわ。

 でも、できれば幸せになってね。」


 母をはねた酒屋の若い跡取りは、きっと幸せに生きているのだろう。だから、自分のしたことをあそこまで詫びることができたのだと思う。

 母や兄や主人のような人間が、周りにいないのだろう。いても少数なのだろう。きっと、彼の生き方や幸せを感じる感覚を麻痺させるほどの影響力を持ってはいない。

 幸せになりたいと思う。人を恨んだり、憎んだり、いなくなって欲しいなんて思いならが生活をしたくない。だから、一気に清算するのだ。

 これからは邪道を行くことなく、正道を行けるように、マイナスを全部清算。そのための痛みは仕方がないこと。

 この家は建て替えようと思う。小さくても良い、父の便の匂いの染みついたところでは寝起きしたくない。それこそ遺産で何とかなるだろう。兄の取り分については頭の痛いところだが、私も兄と同じく弁護士に相談するとしよう。

 私は多くを望んではいない。お金持ちになりたいとも思わなければ、有名人になりたいとか、社会的地位を得たいとかも思わない。ただ、自分が薄汚れていくのは耐えられない。自分が何かに押し潰されてしまうのも耐えられない。ただそれだけ。何か間違っているだろうか。

「後は何十年か後、二十年くらいかな、その時に自分の後始末は自分で付けられるようにしておけば、私の人生は完了かな。」

 私は役所に出かけるべく、玄関に向かった。


育ての恩というものに、凄く違和感があります。

自分が親になって思うのですが、自分の子供に向かって、育ててもらった恩義があるだろうと言えるのかと。いや、勝手に子供を作ったんです。生まれてきてくれて有り難う、君たちが幸せだったらこの上ないのですが、どうですか?と言うスタンスです。産んでくれて有り難う、育ててくれて有り難う、そう言ってもらえれば嬉しいです。ですが、それは「そう思え!それが当然だ!」ってのは違うだろうと思うのですが・・・

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