結実させる為に
水中でも何もしなければ、三時間は楽に潜れる。
但し、それは水深が一定か、一線を越えなければ。
或いは、水圧が急激に変化しなければの話。
当然ながら、深度が深くなればなる程に活動可能な時間というのは短くなってゆく。
そんな悪条件の揃った状況下では、活動限界時間は瞬く間に過ぎていく事になる。
──とか冷静に考えている間にも猶予は減る。
しかし、今の自分には出来る事が無い。
視界は僅かな光すら感じない深闇。
だから、開いている意味も無い。
ただ、別に目を開けていても特に負担や刺激が有るという訳ではない。
聴覚は可笑しな事に正常。
気圧差で耳鳴りがするか、鼓膜が破れてしまっても可笑しはない状況なのに何とも無い。
水が入ってくる、という事もだ。
手足を動かし遊泳、或いは浮遊しようにも手足には一切の抵抗感が感じられない。
空気ですら、身を動かせば確かな抵抗が有る。
だが、この水には何も無い。
まるで其処には何も存在していないかの様に。
実は幻覚の類いでした──という展開は無い。
明らかに酸素は奪われていっている。
──と言うか、じわじわと氣も奪われている。
地味に効く嫌がらせだ。
水と表現するのは、唇の端や鼻から空気を漏らせば泡と成って上って行くから。
しかし、自分が浮き上がる事は出来無い。
まるで、異物であるかの様に。
それなのに、可笑しな感覚も有る。
浮力は一切感じないのに、確かに浮いている。
重力に従い真っ直ぐ落下していっているのに。
浮遊感は有るのだから訳が判らない。
単純な落下とは違う。
だから、水の様に感じてしまうのだろう。
ゆっくりと、水底に沈んで行っている。
そういう感覚なのだから。
(……っ……不味い…意識が朦朧としてきた……)
酸欠の症状が出始めている。
視界ではなく、思考が鈍り、破綻し始めた。
考えれば考える程に貴重な酸素を消費する。
それは判っているが、考えなければ詰んだまま。
諦めない為には。
生き足掻く為には。
盤面上を覆す為には。
考えなくてはならない。
だが、それが結果的に俺に残された時を削る。
(…あー……くそっ……これで終わり…かぁ……)
今生、二度目の走馬灯を経験する事になるとは。
一度目は自爆による不本意過ぎる黒歴史だが。
それは俺以外には知る者は居ないから大丈夫。
──とは言え、二度も走馬灯を見る事は無い。
普通の人生を送っていては有り得ない事だろう。
そう考えると、怒濤にして激動の第二の人生だったという風に言わざるを得ないのだろう。
…まあ、最初は単なる転生だった筈なんだが。
……何が何だか判らない内に押し付けられて。
………そんなこんなで前を見て走ってきた。
…………だから、もう…そろそろ…良いよね?。
……………もう………終わっちゃっても……………
…………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………おわる?。
…コポッ…と静寂の中に響いた一泡の音。
「おわる……オワル……終わる?……何が?」と。
そう考えが到った時だった。
その瞬間、何もかもが停止する。
記憶の糸を手繰る様に、消えていった走馬灯が宛ら逆再生するかの様に一気に流れ──加速する。
行き着いた先、光の彼方には────その掌が。
そして、静寂を終わらせる様に罅割れる。
「──────ァァァアアアアアッッッッッ!!!!!!
────っっざけてんじゃねえぇええぇぇええええーーーーーーっっっっっっっっ!!!!!!!!!!!!!!!!」
走馬灯も、深淵の闇も──絶望でさえも。
烈火──否、絶火の如く猛る憤怒に蹂躙され。
粉々に砕け散る側から、灰塵と化して消滅する。
全てが、終わる?。
冗談じゃないっ!。
そんな事、絶対に許容出来るかっ!!。
俺が死ぬだけなら、一向に構わない。
ああ、それで済むなら幾らでも殺されてやる。
死んで生き返れるなら、だがな。
だけどな、他の者に害が及ぶのなら──却下だ。
「は~い、御疲れ様でした~」と笑顔で手を振って終わらせられる訳が無い。
何より──手前ぇ、誰に手ぇ出そうとしてんだ?。
あ゛ぁあ゛っ?!、俺の妻子に手ぇ出して、のうのうと存在出来るなんて温い事思ってんじゃねーぞっ!!。
そんな俺の感情の昂りに呼応する様に高鳴る。
其処に在るという事だけは感じていた。
しかし、余りにも稀薄であり、儚げで。
“卵”と形容してはいても、孵化のさせ方も不明。
ただただ、待っている事しか出来無かった。
その卵から、今、確かな鼓動を感じ取れる。
──否、孵化の瞬間を迎えた事が判る。
「────顕生しろ、“赫羅”」
静かに、しかし、はっきりと。
そう命名する俺の声に応えるもの。
それは修世者の天之器。
猛る、武る、勇る、威る、毅る、豪る、嵩孟しく。
俺の裡から無限の如く湧き噴き。
俺を優しく包み、愛おしむ様に抱く。
虹輝を纏う、白金の滅焔。
神々しい見た目に反し、何処までも独善的な力。
正しく、俺の映す鏡。
敢えて、自ら型というものを捨て。
無形であるからこそ、その姿は変幻自在。
何にも囚われず、然れど、己を見失いはしない。
そんな俺の生き方を、在り方を映す様に。
赫羅は焔という本質のみを持つ武具。
しかし、武具にして武具に非ず。
その力を、今、此処に示す。
「灼き滅ぼせ」
ただ一言、それだけで十分。
宛ら、産声を上げる様に。
自らの存在意義を得て歓喜するかの様に。
或いは、俺の臨界突破した憤怒を顕現する様に。
“赫羅”は周囲に有った闇水を消し去る。
蒸発、という生温い事象は起きない。
そんな当たり前の過程すらも滅してしまう。
足の裏に感じる床の感触。
目を開けば、其処は例の謁見の間。
見た目には何も変わった様子は無い。
ただ一つ、玉座だけが燃えている。
──否、たった今、燃えて尽きて消滅した。
恐らくは、座っていた王冠を被った人影は囮。
本命は玉座そのものだったのだろう。
そう考えれば意図は判る。
見事に相手の術中に嵌まっていた事もだ。
──と言うか、人型を意識し過ぎていたな。
本体は兎も角、その手駒が人とは限らない。
“人に起因する”という意味でなら何でも有り。
人型である必要など無いのだから。
もっと言えば、この塔も、その範疇。
そう考えた方が、滅茶苦茶な仕様も理解出来る。
攻撃力を持たない代わりに、攻撃を受け付けない。
そんな感じの条件付けをすれば。
こういった真似も出来るんだろう。
「まあ、今更、謎解きなんて遣らないけどな」
そう呟きながら頭上を見上げ──灼き斬る。
天井が──否、空間が裂ける。
腕を振らずとも、剣を握らずとも。
変幻自在な赫羅ならば、斬ろうと思うだけで十分。
自分の半身ながら、そのスペックには苦笑する。
「いや、もう無敵じゃね?」な、ぶっ飛び具合。
実に頼もしい事じゃ有りませんか。
──とは言え、それも俺自身が積み重ね、研鑽し、探究を続けている成果の一つ。
何もしないで、こんな真似は出来無い。
そういう意味では、咲夜が言っていた様に天之器が宿主──修世者の本質や経験や感情等の蓄積により姿形を変えるという話にも頷ける。
文字通り、俺という存在を映し出している。
そう思えるのだから。
そんな事を考えながら、出来た裂け目を見詰め。
軽く膝を曲げ伸ばしして──裂け目に跳び込む。
「ちょっと、世界を救ってくるわ」とか。
「魔王と拳で語ってくるかな」とか。
そんな吹き出し台詞が付きそうな雰囲気で。
ぴょいっ、と訳も判らない場所にね。
自分でも客観的に見たら「それは無いわー…」って引くと思うんですけどね~。
もう今更ですから、本当に。
裂け目に入り、着地した場所。
其処に広がっていたのは、見るからに異なる世界。
しかし、この場所を俺は知っている。
「やっぱり、隔離世狭間か…」
少し見渡しても見覚えの有る場所ではない。
ただ、空気感と言うか…肌感が同じ。
曾て、祭と共に迷い込んだ場所とね。
あの時は偶然だったし、判らない事だらけだった。
…いや、今も殆んど解ってはいないんだけどね。
ただ、同じ体験なんて今まで一度も無かった。
だから、その強烈な体験は忘れられない。
……違う意味でも決して忘れられませんしね。
ただまあ、改めて来て、判った事が有る。
…いや、はっきりと理解出来たと言うべきだな。
自然との共存。
その為には人間の側が、自然界に対して理解を持ち尊重し遵守しなければならない事は多い。
しかし、隔離世狭間は違う。
此処は何が有ろうとも関わってはならない場所。
此処は生者が触れていい所じゃない。
決して、踏み入れてはならない領域。
絶対に超えてはならない境界線の先。
此処は、そういう場所なんだと。
だからこそ、振り向いた先に居る者に憤る。
「何が、どうして、こう為ったのか…
訊いても無意味だろうし、訊いても仕方が無い
だから、そんな事はどうでもいい
ただ、御前を存在させる訳にはいかない」
そう、はっきりと告げる。
最早、その存在その物が害悪──特級の大罪。
人を戒める為の、道徳的な大罪を超越した超罪。
…「「ちょーウザイ」って聞こえそうだね~」とかポテチ片手に笑っている小さな俺を殴りたい。
今、一応は真面目に遣ってるんですけど?。
──なんて、どうでもいい事を考えてしまうのも。
正直、仕方が無いのかもしれない。
覚悟は出来ている。
ただ、ずっと、考えない様にしていた。
一体、“歪み”というのは何なんだろうか、と。
考えてしまえば、僅かだろうと意思が鈍る。
その可能性を──否めなかったから。
だから、向き合って、理解してしまった事が痛い。
(…“歪み”とは、“世界の傷み”、か…)
人の身では決して理解する事の出来無い存在。
もし、世界に意志が存在するのであれば。
きっと、そういった存在なのだろう。
ただ、意志が在るという事は。
決して、良い事ばかりではない。
解り易く言えば、歪みは世界の抱えた膿み。
そうなった原因は、人に他ならないのだが。
皮肉な事に、世界を癒せるのも人だけ。
つまりは、そういう事。
この世界の中の存在では出来無い。
だから、この世界の理の外から、修世者を招く。
何とも壮大で──傍迷惑な治療依頼なんだろうな。
司馬防side──
“修世者”というのは特殊な存在。
それ自体は、私でも知っている。
けれど、実際には、どういう存在なのか。
どうして天之器や転生特典といった特別過ぎる力を与えてまで必要とするのか。
その理由までは知らない。
──否、正確には知らされていない。
ただ、必ず、その世界の為には必要だという事。
それだけは間違い無い。
そう言われ、そういうものなのだと思っていた。
何しろ、私の立場では無関係な話だったもの。
今回は偶々。
お祖父様の手違いとか色んな事情が重なって。
私のミス──ではないんだけど。
こうして転生して彼を追い掛けてきた。
だけどね、正直な事を言えば。
私から見て、彼が修世者だとは思わなかった。
そんなに凄い感じはしなかったもの。
…それまあ?、今なら納得出来るんだけどね。
文字通り、身も心も奪われちゃってる訳だし。
だから、その人選は間違ってはいない。
ただ、その選定に私が関わる事なんて考えた事さえ無かった位に先の事だと思っていた。
実際、今回の事も、関わらなければ事後報告に話を聞く程度だったでしょうから。
本当にね、その程度の認識だったの。
ただね、簡単に言うと決定権は私達には無い。
誰を修世者とするのか。
それを決めるのは──世界。
勿論、その前段階──候補者達をリストアップするのは私達──の上、お祖父様クラスの御仕事。
でも、言い換えると、それだなの。
だからね、考えてもみなかった。
まさか、今程に、その理不尽な押し付けを私自身が腹立たしく思うだなんて。
(……御願いだから、無事に戻って来てっ……)
生まれたばかりの朗だけじゃない。
他の子供達の為にも。
これから生まれる子供達の為にも。
何より──共に歩み、共に生き、共に死にたいと。
そう願う私達の為に。
私達を残して逝くだなんて真似…赦さないわ。
だから、絶対に戻って来てっ!!。
そう思わずには居られない。
少なくとも、聞いていた話とは何もかも違う。
いえ、同じ事なんて有り得ないのだけれど。
こんな事態は異常中の異常。
本来なら、先ず有り得ない事。
私という存在が介入した為、という事は無い。
そうは成らない為に、転生しているのだから。
それなのに、こんな事態になっている。
それが意味する事は、唯一つ。
この世界の歪み──禍津靈の影響は桁違い。
前代未聞と言っていいかもしれない。
だから、不安にならない方が難しい。
「………ぁ~ぅ?」
「……朗?」
腕に抱く朗が目を覚まし──私に左手を伸ばす。
反射的に近付ければ──優しく頬に触れ、笑う。
「もぉ~…御母さんったら、心配し過ぎ。だって、御父さんなんだよ?」と。
そう言うかの様に。
父親そっくりな温かさで。
私の不安を拭い去ってくれた。
──side out