91話 寄せ引きする
物事にはタイミングというものが有る。
そのタイミング如何で、結果は大きく異なってくる事は珍しくはない。
スポーツ等では解説している人達が、客観的な体で粗探しをしている。
そんな風に穿った見方をしてしまう事も有る様に。
些細な事が致命的となる。
スポーツの場合、それがより顕著に現れてしまう。
──とは言え、それらは結果論や“たられば”話。
その瞬間、実際に判断・選択・実行してはいない。
だからこそ、客観的だと言えば間違いはないのだが選手やアスリートの立場での見解とは言えない。
飽く迄も、客観視しているだけなのだから。
それは“元”と付くコメンテーターの人達も同じ。
今、実際に競技してはいない。
今、プレーしてはいないのだから。
まるで選手の代弁者の様な言い方は如何なものか。
客観的な立場に居る。
その事を忘れてはいないだろうか。
観客や視聴者に伝える為、客観視するなら。
「自分なら」と必ず一言付けるべきだろう。
そうしなければ、真実とは全く違う印象を視聴者や観客に与え、選手やアスリートを苦しめる。
そういう二次・三次被害を生む可能性の高い立場に有るのだという事を自覚して貰いたいものだ。
ただ、その一方で本当に素晴らしい実況や解説には惜しみ無い拍手と称賛を送りたい。
選手やアスリートが主役なのは間違い無い。
しかし、そんな彼等彼女等を更に輝かせる。
或いは、スポットライトを当てられる。
そういう舞台外の演出家としての一面も有る。
後世に語り継がれる素晴らしい試合や大会等には、必ずと言っていい程、名実況・名解説が付随する。
しかし、これらは狙って生まれる訳ではない。
綿密な取材や情報、選手のや関係者との交流。
その瞬間の雰囲気や緊張感、興奮や熱狂や感動。
時には苦痛や失意すらも感じながら。
それを込めながらも、客観的な言葉で貫く。
小説の地文、ナレーションの様に。
主観ではないからこそ。
観る者に、聴く者に。
その言葉は心を震わせ、深く印象付けられる。
選手やアスリートにとって一世一代の大舞台。
それを単なる出来事の記録としてではなく。
誰もが知る物語へと昇華させる。
そんな仕事だったりする。
だからこそ、観る側、聴く側としては。
より素晴らしい伝説を求めてしまう。
期待してしまう。
それに応え様として生まれる訳ではないのだが。
それでも、望んでしまうのが人というもの。
ただ、だからこそ、在るが侭を大切にして欲しい。
その果てに生まれるからこそ。
意図して紡がれてはいないからこそ。
誰の手垢も付いてはいない筋書きだからこそ。
伝説と呼ばれる物語は刻まれるのだから。
良い事だろうと。
悪い事だろうと。
タイミングというものは関わってくる。
しかし、反省や改善の為の結果論なら構わないが、利己的な考え方による“たられば”は不必要。
何故なら、そんな事を考えても何の意味も無い。
ただただ、自分の責任逃れをしているだけ。
其処から自分にとって良いものが生まれてくる訳が無いのだから。
どんな結果であろうとも。
どんなタイミングであろうとも。
それが、自分の言動の結果に違いは無い。
其処に他者が関わっていようとも。
自分だけの舞台ではないなら。
それは御互い様。
自分にとって、相手が邪魔なら。
相手にとっては自分が邪魔なのだから。
しかし、自分だけではないからこそ。
素晴らしい物語は出来上がる。
一人よがりの自己満足。
他者に対する意識や意図を含まない物語。
それは果たして名作と成り得るのだろうか。
どの様な形であろうとも。
人と人との繋がりこそが。
心に響く物語となるのではないのだろうか。
「流石は袁硅と言うべきなのか、遅かったな」
「臆病者らしいと言えばらしいですね」
「そうだな」
栄を侍女に渡し、華琳達と会議室に移動。
既に華琳が集合を掛けていたのだろう。
主だった面子は揃っている。
年少組は必要最低限しか居ない辺り、判ってるな。
今は知らなくていい事だからな。
そして、この件に関する情報を持っている事から、事前説明の必要が無い為、話を始め易い。
時間は有限ですからね。
省ける無駄は省きたいのが本音です。
勿論、それは時間を作る為に遣るのではないので、必要な場合には時間を費やす事は惜しみません。
「会議は1時間で終わらせる、始めるぞ」みたいな脅迫に等しい強制的な遣り方では有りません。
ただ、ダラダラと遣る気も有りませんけど。
まあ、宅の場合、皆が優秀ですから楽です。
何処の組織のトップも羨ましがる事でしょう。
しかも皆、俺の自慢の妻達ですからね。
「我、勝利セリ!」な訳です。
──というプチ自慢は置いといて。
袁家残党の蔓延る遼東郡の北部域は放置してきた。
それは長らく遼東郡を支配してきた袁家の影響力が決して弱くはない為。
現に、大敗しても尚、袁家軍は徴兵出来ていたし、物資も用意する事が出来ていた。
例えそれが強制徴兵・強制徴収だったとしても。
自分達の死活問題となれば抵抗の一つもする所だ。
しかし、現実には袁家に驚く程に従順な民。
荒療治として対峙した兵は殲滅した。
その効果は確かにあった。
純粋に戦力の低下、そして生産力の低下。
袁家の勢力自体にはダメージを与えられた。
民の目を覚ますまでには至らなかったがな。
…この事態に関しては、客観的な見た麗羽が自分の無力さを責め、悔し涙を流した事が救いだろう。
俺達に導かれて、という部分も無くはないが。
自分自身で考えて気付き、理解出来たのだから。
袁家の未来は期待出来るものとなるだろう。
美羽の方は心配しなくても聡い娘ですからね。
寧ろ、もう少し子供らしく出来る様にしないとな。
まあ、何にしても望み高く、多くを期待するなら、無い物強請りはしてしまうんですけどね。
それを成そうとする努力に繋がれば良い。
ただ、挫けて腐ってしまい易いのも人。
その辺りを導き、教えるのが年長者の役目。
それが、教育の原点な訳ですからね。
それを見失う様な事は有ってはいけません。
──とまあ、それはそれとして。
放置してはいても袁家残党の動きは全て把握。
宅の隠密衆は優秀ですからね。
余程の油断をしない限りは見付かりもしません。
…見付かったら、再教育ですけど。
そんな心配は要らないでしょう。
だって、仕事現場は常に敵地な訳ですから。
自分の油断は自分の死に直結します。
そして、仲間や家族にも害を及ぼす可能性が有る。
それを考えれば、油断なんて出来ませんから。
ただ、勿論ですが、四六時中緊張感を持って生活をしている訳では有りません。それとこれとは話が違いますからね。
常に張り詰めていては心身共に疲弊しますから。
何より、客観的に見て怪しくなり過ぎますから。
市井の生活に溶け込む事が肝心なので。
その辺りは皆、しっかりと理解しています。
「それにしても動かなかったよな~…」
「まあ、それも“袁当”が死んでるからな」
「そうだな、分裂していた袁家を統制するのには、それなりに時間を要した様だからな」
「人望が無いからよ」
「華琳、事実でも言って遣るなって」
「あら、別にいいじゃない、白蓮
どうせ、聞こえはしないんだから」
「それを言ったら何でもそうだろ、咲夜」
──と卓を囲みながら、御茶と御菓子を手にしつつ談笑するかの様な会議。
薄暗い部屋で、肘を付き組んだ両手で口元を隠して俯き加減で話し合ってると思いましたか?。
残念!、宅の会議は基本的には、こんな感じです。
勿論、もっと形式や雰囲気を、或いは会議している事自体を対外的に見せる必要が有る場合には場所も態度も緊張感の有る遣り方をしますけどね。
正直、そんな事は滅多に有りません。
だって、もう幽州制覇に王手を掛けていますので。
だからと言って、当然、油断なんてしませんが。
ええ、自滅フラグを立てる自虐趣味も無いですし、ボケやオチを欲しがる御笑い体質でもないので。
普通に遣るだけです。
──で、話に出た袁当なんですが。
袁平の亡き後、派閥の頭に立った袁平の異母兄。
母親の身分の低さから冷遇されていた男。
だが、傍流だからという理由だけで冷遇されていたという訳ではない。
本人は、「そうとしか考えられぬわっ!」と声高に言っていたりするのだが。
実際には、性格的にも能力的にも問題有り。
先代である父親からも「あ、此奴には無理だな」と即断即決で跡取りから外される程。
まあ、そんな奴だからこそ、「自分に非は無い」と分厚い面の皮で言い切れたんだろうけどね。
いや、本当にね、ある意味感心するんですよ。
よく、そんな恥知らずな言動が出来るなって。
厚顔無恥って言いますけど、本当ですよね。
正面な神経では出来ませんし、本の少しでも常識的思考力が有れば気付けますからね。
そういう設定のキャラなら兎も角。
現実に実在する人物として目の当たりにすると…。
呆れを通り越して、感心してしまう域です。
宅には要りませんけど。
袁硅・袁平共に大敗し、麗羽達が宅に降った事で、チャンスとばかりに袁当が表舞台に上がった。
「これぞ天の采配!、我が世の到来だっ!」と。
そんな感じで意気揚々と袁平の支持派を奪取。
まあ、これも一種の火事場泥棒でしょうね。
そして、放置した遼東郡の北部域では袁硅と袁当の両派閥が主導権争いで打付かっていた訳です。
──とは言うものの、武力衝突という訳ではなく、飽く迄も責任の擦り合い、自己の正当化の主張での足の引っ張り合いをしていただけです。
袁当は無能ですが、精神は超硬度の図太さですので理屈や正論は通じませんから。
まあ、だからこそ長引くし、泥沼化し易い訳で。
前世の社会問題や政治問題にも共通する典型。
そういう意味では人類って学ばない生き物でもあるという見方も出来ると言えます。
だって、ちょっと考えれば判る事です。
責任逃れ出来る訳が無いのに往生際が悪い。
戦場やサバイバルで生き足掻くのとは違い、政治の場に置いては潔さこそが大切な訳なので。
その責任を負えない輩は不要としか言えません。
だから、前世の社会って歪んでたと思いますよ。
責任逃れが罷り通る訳ですから。
本当、可笑しなものですよ。
因みに、現世では違います。
何しろ、そういう輩の排除は善行ですから。
称賛されても批難はされません。
まあ、遣り方に関しては賛否両論有るでしょうが。
それでも、そうした方が社会の、人々の為になる。
それ故に、手段としては肯定されています。
なんちゃって人権主義の前世とは違いますから。
本当に守られるべき人々の人権の為の政治や法律。
それを俺達は常に心掛けていますので。
時には必要悪や犠牲も厭いません。
必ず、より良い未来の為の礎としますから。
──という考えは置いといて。
話を戻しますが、袁当の死なんですが。
宅が奈安磐郡と右北平郡の事に注力している間に、袁当は暗殺されました。
ええ、その話を聞けば、袁硅の指示だと思う筈。
しかし、実際には袁当派の中で袁当の事を見限り、これ以上は時間も費用も兵数も無駄には割けないと判断し、袁家を纏める為に動いた連中の仕業。
客観的には袁硅が遣った様にも見える為、知らない連中からは反発や不満も出ますが、そういう連中は自ら責任を負いには行きません。
ええ、口先だけの卑怯者ばかりですからね。
結局、何を言ってても流れには逆らわない。
ただ、責任を負わない為に、「反対したからな」と自分達に責任は無いとアピールしただけ。
しかし、それで良い結果と為り、責任を負っていた者達が大きな利を得ると足を引っ張ろうとする。
そんな何処までも役に立たない様な連中なんで。
当然、此処で綺麗さっぱりと駆除致します。
しつこい黴汚れは根元まで取り除いておかないと。
後々、また出てきますから。
建物も社会も政治も同じです。
風通しの良さが大事なんです。