89話 姫花の咲く野に
社会秩序というものは不変的なものではない。
勿論、人道的・道徳的な観点から言えば、不変だと言えるものも少なくはない事は確かだろう。
ただ、それらを本当に尊重し厳守出来るか否か。
それこそが最も重要な論理的であり、核心。
如何に議論や主張をしようが、実際に尊重・厳守が出来無ければ何の意味も無い。
机上の空論、詐欺師の妄言と同じ。
実を伴わなければ、どんなに崇高で素晴らしくとも戯言・寝言と変わらないのだから。
自然摂理と社会秩序は似て非なるもの。
覆しようの無い絶対である摂理に対し、秩序は人が集団で生活する為に生み出した社会性。
その為、人が築く文化に伴い変化してゆくものだ。
それなのに、人々は秩序の変化を嫌う。
それは秩序の変化は生活の変化を意味する為。
今の生活を失う事、今の安定を崩す事、今の地位を脅かされる事を嫌がるから。
つまり、利己的な故に、拒否する。
その時点で既に自らが社会秩序から外れている。
そう認識出来る事が、正しいのだが。
人間という生き物は我欲に特化した存在である為、自分に不都合な事には強い拒絶反応を見せる。
本来であれば、そういった間違った社会秩序を持つ人々を厳しく処罰し、更正、或いは排除する必要が社会秩序には求められるべきなのだが。
間違った“人権の主張”により、出来ずにいる。
──とは言え、全てが全て「違うから不要」という訳ではない事は忘れないで貰いたい。
“違い”とは可能性であり、選択肢である。
全ての人類が大量生産される商品の様であれば。
確かに、世界は争乱も差別も無い社会となる。
しかし、その社会に可能性は一切生じはしない。
平等・公平を“同一である事”とするならば。
退化・荒廃する可能性は無くなるのだが。
進化・発展の必要性は存在しなくなる。
何故なら、その現状こそが同一であり、本の少しの違いも許容しない事が、正しいとなるのだから。
故に、その在り方は一つの秩序の完成だと言える。
ただ、それが本当に正しいか否かは論点に因る。
同一を最重要視すれば、理想だと言えるだろう。
しかし、可能性を最重要視すれば、大間違いだ。
完成された秩序とは“永遠の停滞”だと言える。
進化する可能性も退化する可能性も無い。
ただただ、延々と同じ事を繰り返すだけの世界。
そんなものに何の意味が、価値が有るのか。
──と言う話になってくるだろう。
人間が構築する社会秩序というのは複雑だ。
他の生物が自然摂理に基づく社会性を持つのに対し人間だけは自分達の為の社会秩序を構築する。
環境保護、生態系保護といった言葉を耳にするが、そういう状況にしたのは他でもない人間である。
人間以外の存在からすれば、「巫山戯るな!」等と罵詈雑言の雨嵐。
「そう思うなら人間は滅べ!」と言われたとしても反論の余地は微塵も無いだろう。
それでも、漸く、自らの傲りに気付き始め。
本当に、まだまだ極々僅かな人々ではあるのだが。
自然摂理と向き合う人々が増えているという現実はまたまだ頼り無くはあるが未来への希望と言える。
過ちを認め、正し、改める事。
それこそが社会秩序には不可欠な要素である。
ただ、勘違いしてはならない。
過去の過ちを繰り返さない事が重要であり。
過ちを追及し、利益に変える事は大きな間違い。
利益を求める時点で、秩序は乱れてしまう。
故に、秩序に利害が絡んではならない。
秩序とは社会性の根幹であり、意志である。
利害を含む考えは秩序とは呼べないもの。
その事を人々が正しく認識出来たなら。
未来の社会は、今よりも優しくなる事だろう。
「~~~~~っ…何なんだ、この可愛さはっ…」
そう呟きながら顔を緩ませ、身震いする春蘭。
その表情は今までに見た事の無いもので。
俺は勿論、双子である秋蘭でさえ唖然としている。
だが、そうなるのも仕方が無いだろう。
その腕の中には秋蘭が産んだ長女の夏侯栄。
春蘭にとっては初めてとなる姪っ子。
大切な双子の妹の娘、という補正もあり。
双子であるからこそ、我が子にも等しいのだから。
尤も、双子だが遺伝子的な事を言えば二卵性なので全く同じという訳ではないのだが。
そんな不粋な事は言いません。
言っても説明が面倒なだけですから。
まだ孫家との戦いが終わってから程無いが。
戦闘も事後処理も問題無く順調に予定通りに進み。
秋蘭の出産も予定通りに。
落ち着いて我が子を取り上げる事が出来ました。
まあ、それは兎も角として。
秋蘭が産んだのは長女です。
ええ、俺にとっては初めての娘です。
そう、遂に出来た女の子なんです。
──あ、事前に検査で性別の確認はしないのが宅の方針なので産まれてみなければ判りません。
それだけに、とても嬉しく思います。
当然ながら俺の子供としても長女になります。
八人目にして漸く、です。
別に息子ばかりでも不満は有りませんが。
あまりにも男児ばかりが続くと不自然に感じます。
俺達が何かをした訳では有りませんが。
世界が干渉した可能性は有りますので。
だから、こうして娘が生まれた事で一安心です。
そして、妻達からしても待望とも言える娘です。
だから春蘭の若気る気持ちも判る気がします。
息子達が可愛くない訳では有りませんよ?。
ただ、将来的な事を考えると同じ女性という意味で色々と楽しみも出来ますからね。
娘を欲しがるのは仕方が有りません。
同じ我が子では有りますが。
やはり、最初ですからね。
どうしても特別に感じるのは仕方有りませんよ。
しかも息子ばかりだった訳ですから。
その特別さは別格だと言えます。
勿論、ずっと、という訳では有りません。
飽く迄も、今は、というだけですから。
そう思いながら春蘭の様子を見ていると横に座った咲夜が小さく肘で小突いてきたので顔を向ける。
決して、「此処には私も居るんだけど?」といった意味ではないみたいですが。
そういう事は咲夜は人前では遣りません。
ええ、二人きりの時には有りますけどね。
「待望の娘だから可愛いのは確かなんだけれど…
貴男、あんまり可愛がり過ぎない様にね?」
「其処まで特別扱いはしないって」
「そうじゃなくて、娘だからよ
一番身近に居る男性が貴男や兄弟っていうだけでも将来が心配になるもの」
「…其処まで心配する事か?」
「心配するわよ
私達は自分自身の事だから構わないけれど、娘達が行き遅れたり、拗らせるのは頂けないもの」
「……華琳?」
「どう思う?」と言外に訊く様に顔を見る。
すると、全く笑っていない笑顔を浮かべ──
「娘と言えど、本気なら手加減は致しません」
──そう言い切った。
思わず、「何のだ?」と言いたくなる。
だが、訊いてはならない事だけは経験で判る。
俺の本能が激しく警鐘を打ち鳴らしているからな。
見れば、「其処で華琳に訊くのが間違いよ」と言う呆れ顔をしている咲夜。
いやまあ、そうなのかもしれないんだけどね。
何か、華琳に訊く以外に思い浮かばなかったんで。
……ハッ!?、コレが俗に言う“強制力”かっ?!。
──って、そんな訳有りませんけどね。
「…はぁ~…まあ、その辺りは妻の役目よね」
「頼りにしています」
そう言うしか俺には出来ません。
だけどね?、息子達がマザコンになる可能性だって同じ位は有ると思うんですよ。
その辺りは如何なものなのでしょうか?。
「その心配は無いわよ
少なくとも私達は貴男以外の男に興味が無いわ
だから、息子達が私達を見て思うとしたら、自分も父親の様に、母親達の様な相手を見付けたい
そう自然と思うでしょうから」
「……それなら、娘にしても同じでは?」
「娘の場合、貴男が基準になるから駄目なのよ
息子の場合は、自分と貴男を比較すれば、母親達と同等の相手を求める事は無いでしょう
だけど、娘の場合には自分達と母親とを比べても、見劣りしない可能性が高いもの
何しろ、貴男との娘な訳だからね
そうなると、釣り合う男を探す方が大変なのよ」
「まあ、息子は息子で大変でしょうけれど」と。
口には出さないだけで視線で伝えてくる咲夜。
そう言われて、我が子の立場で考えると納得。
いや、息子達の苦労は判っているんですけどね。
…そっかぁ……娘達も大変な訳か。
「御兄様、私に良い解決策が御座います」
「却下で」
「娘達も御兄様の妻にしてしまいましょう」
「ねぇ?、却下って言ったよね?
何で言うかな?、しかも滅茶苦茶な方法だし」
「父親が実の娘に手を出し、孕ませた、という話は珍しく有りません」
「他所は他所、宅は宅です
──と言うか、実の娘に手を出す気は有りません
それ以前に、其処まで飢えてもないから
娘に手を出す様なら御前達を足腰立たなくなるまで容赦無く貪るから」
「言質は取りましたからね、御兄様」
「期待していますよ、旦那様」
「…………」
そう、良い笑顔で言う華琳と咲夜。
どうやら、娘をネタに嵌められたらしい。
──と言うか、コレはアレだな。
白蓮達からも圧力が有ったんだろうな。
皆、秋蘭が産んだ娘にメロメロだったからな~…。
…要するに、「早く二人目を!」って事ですか。
まだ産んでいない咲夜にしろ、妊活中の華琳にしろ早目に二人目を催促しているのがなぁ…。
勿論、そういう要求も有るんだろうけど。
…幽州統一後は子作りに精を出せ、と。
いや、別に駄洒落じゃないんですよ?。
偶々ですから、ええ、偶々ですとも。
「…姉者、喜んでくれるのは嬉しいが、独り占めは褒められないぞ?」
「へ?………っ!?、ぃ、いやっ、そんな気は──」
「はいはい、判っているわよ
春蘭、私にも抱かせて頂戴」
「はいっ、どうぞっ!」
顔を赤くしながら、栄を華琳に差し出す春蘭。
「いや、春蘭の娘じゃないからな?」と。
思わず言いたくなってしまうのは仕方が無い。
誰も──秋蘭でさえ、口には出さないけどね。
生まれたばかりの栄はというと大人しいもので。
ただそれは栄が精神的に図太いという訳ではなく。
皆が子供──赤ん坊の扱い方が判ってきている為。
何しろ、抱き方一つで反応は違うからな。
俺も昔は苦労したものです。
華琳達みたいに、はっきりとした自我が有る年齢に達している幼子とは接し方も違う。
──と言うかね、赤ん坊の頃から五歳位までは常に接し方には要注意だったりするんです。
その時期は多感であり、子供自身も千変万化。
だから、「こうすれば間違い無い!」と言い切れる絶対の正解や方法というのは無いんですよ。
その為、その頃は親は勿論、周囲も気が抜けない。
その大変さを、愛おしく感じられるなら。
どんな苦労も全てが楽しくなってくる。
そう思えないなら、こう考えてみればいい。
今、しっかりと自分が向き合わなければ、この子の将来は大きく歪んでしまうかもしれない、と。
そう考えれば、如何に責任重大な時期か判る筈。
それでも判らないなら。
或いは、「そうしたいけど出来無い」と言うなら。
自分の親を思い浮かべればいい。
自分が親に対して、どう思っていたのか。
どういう事を望んでいたのか。
それを思い出せば、少しは気持ちも変わるだろう。
──とは言え、物欲等が絡む事はNG。
それは単に甘やかすだけになるからな。
何かを買い与えるにしても、それは報酬や御褒美の成果を伴った形で、というのが望ましい。
社会に出れば、労働の対価として給料が出る。
それを子供の頃から知っておく事の意味は大きい。
犯罪に手を染めない為の自制心を培えるから。
…まあ、それでも後々の生活環境や人間関係如何で道を踏み外す事は珍しくもないんだけどな。
甘い誘惑、外道への一歩は常に側に有るもの。
それを見分けられるか否かで人生は違ってくる。
騙されたり、利用されたりすれば被害者だが。
そうなる時、少なからず心には隙が有るから。
難しい事だが、結局は自分次第だろう。
夏侯淵side──
こう言うと誤解されてしまうかもしれないが。
出産し終えると、身体が軽くなった様に感じる。
まあ、当然と言えば当然なのだろうがな。
何しろ、数ヶ月も赤ん坊一人分の重みが御腹の中に入っていたのだから。
ただ、不思議なもので。
御腹の中から、腕の中へと抱く場所が変わるだけで母親となった実感が一気に強くなる。
重みや温もりは勿論だが、まだ全く染まっていない無垢な生命の匂い、その息吹きが。
私が母親なのだと、強く意識させてくれる。
だから、なのだろう。
この子の為になら、どんな苦労も厭わない。
必要なら、命さえ投げ出せると言い切れる。
勿論、我が子を悲しませる様な真似はしないが。
飽く迄も、必要となれば、の話。
決して、命を安売りするつもりはない。
…まだまだ忍様の御寵愛も頂き子も成したいしな。
まあ、それはそれとして。
私の産んだ娘の栄は忍様にとっては長女になる。
そう、忍様の最初の娘を産んだ訳だ。
その事実は私自身に言い表し様の無い歓喜を齎す。
…優越感、という訳ではない。
ただ…充足感、と言えばいいのか。
普通ではない、特別な…特殊な歓喜ではある。
恐らくは、白蓮も似た感じだったのだろうな。
忍様の最初の子を産んだのだから。
尤も、既に二人目を望んでしまうのだが。
栄よ、赦してくれ。
同じ女として、御前も軈て判る……筈だ。
いや、無責任な事は言えないが………むぅ…。
こればっかりは、その時が来なければ判らぬな。
「秋蘭、気分や体調はどうだ?」
「はい、問題有りません
忍様も付いていて下さいますから」
「俺が居ても悪くなる時は悪くなるからな
少しでも違和感や不調・不快感を感じたら我慢せず直ぐに言えよ?」
「はい、判っています」
心配し過ぎなようだが、仕方が無い。
以前──とは言え、まだ出逢って間も無い頃だが。
少しばかり無理をして体調を崩した事が有った。
その時、忍様から随分と怒られたからな。
唯一、姉者が怒られず、私が怒られた事。
それだけに、この件に関しては私も強く言えない。
…いや、だからこそ言えもするのだがな。
忍様を怒らせた、という事で説得力が有るからな。
あまり誇れる事ではないが。
「…春蘭には悪いが、皆の子供との接し方を見ても取り敢えずは大丈夫そうで安心した」
「それは私も同じです
姉者に悪気は無いのですが…」
「ああ、判ってる
それだけに困り所では有ったからな」
そう苦笑する忍様の苦労は私が一番理解出来る。
本当に…姉者絡みの事は大変だからな。
それでも、それが姉者らしさであり、良さ。
何より、忍様に出逢って変わったからな。
勿論、それは私も同じなのだが。
本当に…大変な人を愛しているものだな。
──side out