87話 蓮遊び滴る朝露
“伝統”というのは大切にするべきもの。
そう言われて、「いや、もう要らない」と返す人は滅多に居ないと思う。
それは国や肌の色、性別や年齢を問わず。
多くの人々が伝統を重んじ、大切だと考える。
──が、現実にはどうだろうか。
若者は昔から続く風習や行事を重んじ、受け継ぎ、大切にしているだろうか?。
「勿論、ちゃんと継承しています」と、胸を張って答える事が出来る若者は何れ程居る事だろう。
多くの若者は「面倒臭い」「時代遅れ」「退屈」と文句ばかり言っているのではないか?。
そして、きちんと考えた事は有るだろうか。
何故、その伝統や行事が行われているのか。
どういった経緯で、それが伝えられているのか。
技術の進歩で社会の有り様は変わっている。
便利な世の中では様々な情報を簡単に得られる。
それに比べ、昔の人々の得られる情報量は乏しい。
だが、その中で伝承されているという事はだ。
意味の無い事な訳が無い。
誰もが無責任に面白半分で適当な情報を発信出来る現代社会とは違い、正しい情報だけが残る時代。
その中で、現代にまで残っているという事は。
其処に有る情報というのは、無価値な訳が無い。
無意味である筈が無いと言える。
古くは石碑や石塔といった形で、各地に残る情報。
それらは先人達や御先祖達が未来の子孫や人々へと遺してくれている貴重な情報。
それを受け取るか、無視するか。
それだけで、時に生死を分ける事も有る。
ただ、全てが全て、良い事という訳でもない。
“悪慣習”とも言うべき事も、伝統や行事といった言葉を隠れ蓑にして行われている事も有る。
政治や経済、権力等に付きものの賄賂や買収。
こういった悪慣習は淘汰されるべきなのに、社会は徹底して潰すという事をしない。
それを遣る輩が、上に居る為だが。
民衆が抗議し、潰す様に働き掛けない限り、連中は誤魔化しながら何時までも続けていくだけ。
決して、自ら正すという事はしないものである。
その一方で、誤って潰された伝統も有る。
嘗ては「教わるな、見て盗め、考えて学べ」と。
職人の技術は弟子入りし、長い下積みを重ねながら身に付けていく、というのが当たり前だったもの。
勿論、それには自主性を鍛えるという意味も有り、理解力を養うという効果も有る。
ただ、そういう遣り方は時代に合わないとされて、消えていってしまった。
しかし、こうして成長した人の方が、その仕事への向き合う姿勢や真摯さは全体に上回る。
教科書を読む様に、上辺だけの技術を身に付けても職人としてのプロ意識や責任感は育まれない。
それらは時間を経て、積み重ねて養われるもの。
だからこそ、間違った淘汰だと思ってしまう。
効率重視、コストカット。
優れた人材育成より、それなりの人材大量生産。
利益追求ばかりを考え、人の心を無視する社会。
だが、それを肯定している筈の人々が、事有る毎に人権だの自由だのと主張する滑稽さ。
自らが肯定し、立っている場所を見て貰いたい。
「貴方の唱える異議は貴方自身への物ですが?」と突き付けられ、納得させられる答えを返せるのか。
返せる訳が無い。
矛盾の上に立ち、聞く価値も無い破綻を喋る。
そんな壊れた機械の様な存在でしかないのだから。
何事も否定する事は簡単だ。
しかし、その前に先ず、理解する事が必要不可欠。
その上で、本当に否定すべきは何なのか。
その全てなのか、或いは一部の事なのか。
その見極めをした上で、否定は成されるべき。
簡単に言える否定は誰にでも言える薄っぺらさ。
誰にも言えない否定にこそ、真意が有る。
そう考えてから、何事も捉えてみて欲しいものだ。
「…これは孫尚香の件で確信を持たれたか…」
「そうですね、御兄様
如何に孫策に潔さが有ろうとも流石に潔過ぎます」
そう華琳と二人で話しながら見下ろしているのは、先日、孫尚香を運んで行った砦。
其処には「籠城する気など微塵も無いわ!」とでも胸を張って言い切る様に布陣している孫家軍。
ただまあ、孫策の気性を知っている俺からしたら、寧ろ、「殺り合わないのって損じゃない」と笑顔で楽しそうに剣を振るう姿しか思い浮かばないが。
それは飽く迄も、可能性の話でしかない。
現実には、其処までは振り切れてはいない。
…そういう部分が無いとも言えないけどね。
まあ、それはそれとして。
普通に考えれば、流石に孫策でも遣らない事だ。
だが、こうして現実には遣っているという事は。
そうする理由が無ければ矛盾する。
──と言うか、今の状況では遣らない事ですから。
だから、どう考えても孫策達は気付いたという事。
気付いた上で、自ら此方等の用意した舞台に上がるという決断をし、実行しているのだから。
豪胆と言うか、大胆不敵と言うか。
そんなチープな表現しか出来無いのが悩ましい。
いや、もどかしいかな?。
まあ、要は自分の語彙力の低さが、ですけどね。
「けどまあ、これはこれで、有りと言えば有りか」
「孫策達も下にまでは話していないでしょうから、戦うとなれば「短期決戦で」という意向を兵士達に示した上で臨んでいる可能性が高いですから本気で向かってくるでしょう」
「御互いに経験を積む為には良い条件だな」
「はい、御兄様」
出来れば、孫策達にもバレずに事を運びたかったがバレてしまったものは仕方が無い。
その事に対して彼是と文句を言おうが愚痴ろうが、起きてしまった事は覆らないし、遣り直せない。
ゲームの遣り直しとは違うのだから。
だから現実を、事実を受け入れるしかない。
受け入れた上で、良くする為に何をするべきか。
どうするべきかを考え、行動する事が重要。
それは何事に対しても通じる姿勢だと言える。
地味だけど意外と難しく、けれど大事なんですよ。
──で、今の状況なんですが。
例の砦は領境にあり、粗真正面が南を向いており、砦の前は開けた平地となっている。
その為、南から進軍する宅を迎え撃つ事が出来る。
…まあ、それを考慮して、この砦に誘導したんだし上手く活用してくれないと困る。
──と言うか、期待外れは勘弁して欲しい。
砦の正面には山が有り、その両脇──東西には南に繋がる道が有る。
西側は道幅が広く進み易いが大きく回り込む。
東側は道幅が狭く険しいが西側に比べ、三分の一の移動距離で進める。
状況により、選択の為の条件は異なるのは当然。
──では、現状でなら何方等を選ぶのか。
何方等か、ではなくて。
両方で進みますけどね。
西側の道を進むと砦に着き、その前を横切らないと北東に伸びる右北平郡へ入る道には進めない。
東側は砦を無視して進もうと思えば進める。
勿論、砦が空か、相手が無視してくれたらですが。
だから基本的に戦闘は避けられません。
そんな場所で、宅は東西の道を出た所に布陣。
対する孫家軍は、砦の正面と、念の為に北東の道を塞ぐ格好で布陣している。
北東側の部隊は実質的には遊軍扱いだろうな。
状況を見て、宅の東側の部隊に当ててくる可能性が高いだろう。
因みに、今、俺と華琳が居るのは砦の正面の山。
見晴らしが良いので、もしかしたら孫策達の中には気付いた者も居るかもしれない。
気付いたからと言って何も変わりませんけどね。
西側に布陣している宅の部隊は本隊。
詠が指揮し、華琳が補佐をする。
軍将には愛紗と凪を配しているが、基本的には詠の指揮に従う様に言ってあるので自重する……筈。
凪は兎も角、愛紗が頑張り過ぎないかが心配です。
率いる兵数は三千。
東側に布陣する部隊の兵数は半分の千五百。
指揮は稟が行い、軍将には梨芹と恋。
それから、今回は俺も直に参戦する。
孫策・孫権の相手だけは俺が遣らないとな。
俺自身が二人に対して示さなくてはならない。
「これが御前達の夫となる男の力だ」と。
…まあ、孫策は其処まで遣らなくても大丈夫だが、それで孫権だけを相手にすると後が面倒臭い。
「ちょっと!、どうして妹には貴男自身が行って、私には軍将だったのよっ!、狡いじゃない!」とか絶対に言うだろうからな~…。
しかも、それで手合わせをしても納得はしない。
「だってほら、今はもう無理でしょっ!、どんなに口では「本気だ」って言っても違うじゃない!」と拗ねるのが目に見えているし、ずっと根に持つ。
どんなに愛し合い、子供を何人成そうとも。
それはそれ、これはこれ。
孫策の性格的に絶対に生涯言い続ける。
そういう事態に為らない様に、という事。
閨の中でま愚痴られたくはないからなぁ…。
「それはそれで御兄様の御好みでは?」
「……それは、どういう意味でだ?」
「従順なだけよりは、我が儘な方が、という事です
御兄様は私達に対して支配的では有りません
寧ろ、自主性や積極性を求められますので
孫策や孫権の様に噛み付く位が好ましいと」
「………」
愛妹の分析が的確過ぎて返す言葉が出ない件。
いや、別にね、反抗的な相手を屈服させるのが好みとかいう訳じゃ有りませんよ?。
それはまあ、所謂“くっ殺”展開は好きですが。
それは凌辱する意味でではなくて、相手の価値観を含めて真っ向から撃ち破りたいからです。
………アレ?、結果的には一緒なのか?。
…いやいや、そんな事は無い筈、うん、無い無い。
「因みに、単純な屈服とは違い、御兄様の遣り方で陥落した場合、二度と御兄様から離れられません」
「言い切ったな…」
「はい、私自身が誰よりも知っていますので」
「……華琳を屈服させた覚えはないけど?」
「御兄様、私は幼い頃から一度も御兄様には勝てた覚えが有りません
それは十分に屈服させられているのも同然です」
「あー……まあ、そう言われれば確かにな…
……ん?、と言う事は、愛紗や梨芹も?」
「はい、勿論です
特に愛紗に関しては御兄様も御判りでは?」
「本人には絶対に言うなよ?」
「御兄様の御愉しみを奪う真似は致しません」
そうドヤ顔をする華琳の頭を撫で、キスする。
本当に出来た愛妹であり、愛妻です。
──で、さっきの愛紗の話なんですけど。
華琳や梨芹は求め求められの中でも対等ですが。
愛紗は基本的に求められる事に比重が傾いてます。
世話好きなのも、そういう性質の現れですが。
それが閨の中では更に顕著に出ます。
男女関係で「求められる」というと、大体の場合がSとMの関係性をイメージするかと思う。
それが間違いとは言わない。
極論を言えば、必ず何方等かがSでMなのだから。
ただ、それが不変という訳ではなく。
行為の最中でも入れ替わるという事。
男が覆い被さっていてもSとは限らず。
女性が攻められていてもMだとも限らない。
男女関係とは奥の深いものである。
──いや、そういう事ではない。
そういう事だけど、そうじゃない。
普段の愛紗は世話焼きで、しっかり者なんですが。
実は意外と…いや、かなりのM気質でね。
はっきり言うと、ちょっと強引に迫る位が好み。
あ、押しに弱いという訳では有りませんからね?。
飽く迄も俺との関係では、の話なので。
其処は誤解しないで下さい。
俺に求められる──食べられる。
その感覚が、愛紗には物凄く充足感を与える様で。
それを初めての頃から感じていた俺は愛紗に対して意地悪に見える位に強引に行く事が多いんですよ。
本人が悦んでますし、幸せそうなので尚更にね。
華琳は勿論として、同性から見ても同じ様に見えるという事は本人以外の共通認識なんでしょうね。
まあ、華琳ではないけど、態々指摘したりする事は絶対にしないでしょうけどね。
だって、愛紗の自尊心が立ち直れなくなるので。
無意識だからこそ、本人も素直に幸福感に浸れて、享受していられる訳ですからね。
自分に置き換えたら、それを奪う真似は出来無い。
それを判っているでしょうから。
ただまあ、開戦を目前にして話したり考えたりする様な事じゃないんですけど。
ちょっとした話題になっただけですから。
文醜side──
アタイは強い。
その武力は五指に入る強さだ!。
──と言っても孫家の中では、という話で。
軍将という立場には有るけど、難しい事は無理。
武にしても主である雪蓮様の方が強いし、幼馴染みでもある星の方が上だ。
蓮華様とは良い勝負だけど…其処は相性の問題。
蓮華様の性格的に真っ向勝負を仕掛けてくるから、得意な力技でもアタイが押し切れる。
それでも勝ち負けは五分五分だからな~…。
まあ、そんな訳で、アタイは周囲──文武官や兵が思ってる程には強くない。
そして、それを強く意識させられたのが先日の事。
アタイも自ら「力技が得意だ」って言えるからさ、それなりには、力自慢ではある。
ただ、それも所詮は狭い範囲の中での話なんだと。
そう思い知らずには居られなかった。
賊徒を相手に、派手に弾き飛ばしたり、思いっ切り叩き付けたり、打ち上げたりした事は有る。
「へへっ、楽勝だぜ~」と。
余裕で笑いながら、それ位は出来る。
けど、殺さずには遣れる気がしない。
死んでも構わないなら、幾らでも遣れる。
でも、死なない様には──無理。
仮に、遣り方を教わったとしても出来無いと思う。
いやまあ、聞いてみないと判らないけどさ。
普通に考えたら、出来る気がしない。
そんな人間離れした技を、目の当たりにした。
アレを見て価値観が変わらないのは余程の自信家か何も考えない究極の馬鹿だと思う。
そして、そんな巫山戯た真似が出来る人物を。
アタイ達は相手にする、というのが今の状況。
…絶対にさ、正気の沙汰じゃないよな?。
恐怖で使い物に為らなくなった連中が山程出たのに戦わないといけないんだぜ?。
本当、理解出来無いよなぁ…。
でも、そんな半端無くヤバい状況なのに、ワクワクしてる自分が居るから笑うしかない。
客観的に見て、「御前さ、どうかしてるだろ?」と言わずには居られないと思うのにだ。
まあ、アタイも何処か可笑しいのかもな。
「安心しろ、それは御主だけではない」
「そっか~………って、アタイ、喋ってたか?」
「いいや、だが、そんなに嬉しそうに笑っていては気付くなという方が難しいと思うぞ?」
「…雪蓮様みたいに?」
「いや、アレとは違うな」
「何だよ、焦ったぁ…それなら良かったな」
星の言葉に焦ったが、否定されて安堵する。
雪蓮様は強いが、雪蓮様のアレはヤバい。
正直、アタイが男なら雪蓮様を嫁にはしない。
あんなぶっ飛んだ嫁は嫌過ぎる。
アタイ自身、嫁に貰われ易いとは思わないけど。
雪蓮様よりは正面だとは思う。
そういう意味だと、雪蓮様に気に入られた徐恕って可哀想な男かもしれないな。
──side out