馬も鹿も賢い
白い雲が穏やかに流れて行く青い空。
のんびりと陽光に目蓋を閉じ、微睡みに沈みたい。
そう、何もかも忘れて。
「御兄様、添い寝は何人程必要ですか?」
「──さあ、仕事だ仕事、忙しいなぁ~」
華琳の一言に現実逃避を止め、即姿勢を正す。
…は?、「添い寝して貰えばいいだろ?」だと?。
ホホォ…それは、この徐子瓏に対する挑発だな?。
良いだろう、その喧嘩買ったあっ!。
華琳っ!、兵を準備させよっ!、戦じゃあアッ!!。
「畏まりました、御兄様、取り敢えず、百万程」
「──ァ、いや、冗談だからね?、冗談だよ?」
「はい、勿論、判っています、御兄様」
そう言って清廉な聖女の様に微笑む我が愛妹。
いやいや、貴女…絶対に殺る気だったでしょ?。
覇王様のオーラが滅茶苦茶出てましたよ?。
「取り敢えず、百万程」って辺りが具体的だし!。
──って言うか、領地が増えた分、集められない訳じゃあないから、余計に笑えないんでっ!。
そして、「無邪気な子供が最も残酷で冷徹」という意見が存在している様に。
屈託無く微笑む美少女・美女の思い切りの良さも。
軽く背筋に悪寒が奔るレベルの畏怖対象です。
…え?、「読心に関しては無視か!」ですって?。
いやいや、もう本当に今更ですからね。
流石に気にしても無駄な事は気にしません。
寧ろ、それで伝わるなら便利な位ですから。
愛しているぞ、華琳。
「──っ!?、も、もぉっ…御兄様っ…私もです…」
──と、不意打ちで愛を念に込めれば照れる華琳。
困った様に怒りながらも、とても嬉しそうに笑む。
愛を、想いを伝えるって、大事な事ですよ?。
世の中の男性の皆さん、遣ってますか?。
俺は意外と遣ってるんですよ、これでもね。
──と言うかですね、仕方無いでしょう、これは。
人間、嫌な事が有れば眼も、顔も、意識も、心まで背けてしまいたくなるものですからね。
現実逃避もしますって。
…まあ、それでも現実は変わりませんけどね。
「ほら、イチャついてないで、仕事仕事」
「自分が華琳の立場だったら?」
「取り敢えず、三回程シてからね」
悪阻を越え、仕事復帰している咲夜の注意する姿に定番化している問いを投げ掛けると具体的な回答を考える事無く打ち返してくる。
間違い無く狙ったピッチャー返しですね。
完全に配球もコースも球種まで読まれましたか。
俺っちの完敗っすね…じゃないな、うん。
「…まあ、袁紹が動いた事は仕方が無いとしても、よくもまあ、それだけの徴兵が出来たな?
幾ら袁家が名家で財力が有って言ってても、それは袁家全体での話だからな…
袁紹が個人で──袁術も含めたとしても、徴兵には簡単には応じないとは思うが…
“遼西郡を獲った後の重用”辺りで釣ったか?」
「流石は御兄様、御明察の通りの様です」
「それ、御明察も何も他に無いでしょ…」
小さく呟く咲夜の呆れた様子を、華琳が睨む。
別に「一々私の揚げ足を取らないでくれる?」的な威嚇をしている訳ではない。
客観的に見れば、そう見えてしまうだろうが。
実際には「ちょっと、私の御兄様への好感度稼ぎを邪魔しないでくれない?」だ。
つまり、どうでもいい事だって訳です。
本人は至って真面目なんですけどね~。
それは兎も角として。
遼西郡への侵攻に、領民の総数の四割以上の三万も徴兵をしているという事実だ。
はっきり言って、袁紹の──新昌県の未来は無い。
それはまあ?、絶対に成功しないとは言わない。
宅に侵攻して来たなら、成功に成功しないが。
袁紹でも遼西郡の全ては難しくても半分……いや、三分の一までなら獲れる可能性は有る。
欲張らなければ、だけどな。
袁紹の性格的には、遣らかしそうだけど。
「華琳、袁硅に動きは?」
「今の所は有りません
先の二人の縁談の不成立が影響している様で、袁家内部での信頼・発言力が落ちている為、立て直しに尽力中です
全て、御兄様の狙い通りに、ですが」
「それを袁紹が、ひっくり返してくれてるけどな」
袁家は決して一枚岩ではない。
董家とは真逆で一族の数の多さが勢力の強味だ。
だが、それ故に内部分裂や対立は日常茶飯事。
昨日までは味方をしていた者が今日は敵に。
その逆も然りで。
そんな事が有り触れているのが袁家の実態だ。
その袁家の中で近年最も力を持っていたのが袁硅。
政的な対抗馬を見付ける事ですら難しい程にだ。
其処で、先の袁紹達の縁談を潰した上で利用して、袁硅の評価を落とし、政治力を削いでいた。
「そんな面倒臭い事をせずに一思いに潰せよ」等と思う事かもしれない。
だが、その面倒臭い遣り方が後々に繋がる訳で。
面倒でも仕方が無いんです。
…まあ、代郡では大規模粛清を遣りましたけどね。
アレは、単純に腐ってるから排除しただけです。
袁家みたいに複雑に根を張っている訳でもないし、引っこ抜けば終わる雑草みたいな感じですかね。
だから、躊躇無く殺れたんですよ。
ええ、誤字じゃなくて。
でも、袁家が相手だと遣るのは難しい訳です。
決して袁家全体が腐敗している訳ではないですし。
──かと言って、清廉潔白な訳でも有りません。
だから面倒臭くても、ややこしくても。
それなりに、丁寧な作業が求められる訳です。
「…隠密には袁家、特に袁硅周辺を厳重警戒を
郡境には騎馬を中心に編成して詰める様に通達
数は…取り敢えず千も居れば十分だろうな」
「その情報を漏洩させる訳ですね?」
「此方は此方で忙しくなるからな
袁硅達には暫くの間、踊ってて貰おう」
「畏まりました」
そう言って一礼する華琳。
俺と一緒に不敵な笑みを浮かべ、目を細める。
咲夜が傍で「似た者兄妹ね…」と。
小さくボヤいているが気にしない。
華琳が退室し、咲夜と二人きりになる。
………いや、致しませんよ?。
さっきのは飽く迄も“たられば”の話ですから。
「──で、今回の件、どう思った?」
「……ちょっと、タイミングが良過ぎるわよね
宅にとっても悪くはないタイミングだけど…
現実での袁紹の印象からすると…ねぇ…」
「いや本当にな…そうなんだよなぁ…」
そう言ってから、二人して溜め息を吐く。
──と言うか、吐かずには居られなかった。
“原作”のキャラクターとは違う。
それは、俺自身も、咲夜自身も理解している事だ。
どんなに類似点が有ろうとも。
現実に存在し、生きている彼女達は、キャラクター以上に複雑で、深みと厚みを持った人間だ。
決して、上辺だけを見て判断してはいけない。
その最たる存在が、ある意味では袁紹と袁術。
…まあ、袁術に関しては原作でも余地が有る様には感じられていたからな。
そういう意味では、其処までではないと言える。
しかし、袁紹はヤバい。
何がヤバいって…手遅れ感が半端無いっす。
いや本当にね、マジで。
それが、だ。
そんな「何しても無理だろ?」な印象の袁紹が。
現実では、かなり正面だった訳ですよ。
当然、その報告を聞いて、俺と咲夜は一度だけだが直に袁紹を見に行った位です。
「………え?、アレ、マジで袁紹?」と。
「…見た目だけの影武者じゃないわよね?」と。
我が目を疑いましたからね、本当に。
それ位の衝撃だったんですよ、現実の袁紹って。
だから、余計に今回の件は腑に落ちない。
…いや、確かに袁紹らしくは有るんだけど。
それはほら、原作の袁紹なら、だから。
「…関わってると思うか?」
「……思いたくはないけれど…不自然過ぎるしね…
抑、二人の周辺って睨みを利かせてたわよね?」
「ああ、少なくとも本人や関係者じゃないな
隠密から見ても、急変していれば、解る
だから、袁紹自身って可能性は限り無く低い…
そうなってくると、マーク外の人物な訳だが…
ただ、袁紹を動かせる人物だ
そうは居ないし、しかし、決して少なくもない」
「現状では情報不足だし…絞り切れないわね…」
「──と言うか、見当が付かないな
直に見れば解るんだろうけど…」
「誘ってる可能性も有る、か…
確かに迂闊には動き辛いわよね、今の私達は」
そう咲夜が言った所で、静かに見合う。
そう、数ヶ月前だったら俺達は更に動き難かった。
その時には動かず、今になって、動きを見せた。
「袁紹って、そういう者だよな?」と。
原作を主軸として考えれば、可笑しくはない。
だが、現実を主軸とした場合には──可笑しい。
怪しいを通り越して、笑ってしまう位に。
事実を曲解して、推理小説張りのトリックを考えて勝手に迷宮の奥に迷い込んでしまっている様に。
それは非常に危険な思考を余儀無くされる。
しかし、そう思わせる事が狙いなら。
動かない、という決断が致命的なミスにも繋がる。
だから、何もしない訳にはいかない。
何かしらの備えは、最低限必要な事だ。
「……正直な話ね、隠密の監視の目を潜り抜けて、袁紹を動かせると思う?
貴男自身を基準にして、考えてみて」
「……………それは…まあ、出来無くはないな」
「具体的には?」
「氣は決して万能って訳じゃあない
ただ、催眠術みたいな使い方も出来無くはない
勿論、洗脳するレベルともなれば直ぐに解る
宅の隠密の技量なら、見逃す訳が無い位にだ」
「それなら、その線は無いのかしら…」
「いや、完全には否定は出来無い」
「──と言うと?」
「離れた場所から、ある程度の思考誘導をする
それだったら、隠密には先ず気付かれないだろう」
「…………それ、貴男なら、よね?
私達の技量で考えた場合には……何れ位なの?」
「華琳でも無理だな」
「──っ!?、ちょっと…それって…」
「ああ、だが、心配は要らない
もし仮に、そうだったもしても…
それは飽く迄も誘導の域を出ない
洗脳の様な強固さはないから、簡単に曲がる」
「……………でも、忍?、彼女、単純よ?」
「…………………………………それを、言うな…」
そう、催眠術がそうである様に。
単純な者に程、思考誘導も掛け易い。
袁紹は決して馬鹿ではない。
だが、とぉ~~~~…ってもっ!、単純だ。
恐らく、原作では脳禁筆頭だった夏侯惇よりも。
現実の袁紹は、劉備よりも御人好しだ。
だがそれも仕方が無い事。
彼女は名門袁家の御令嬢として産まれ育った。
それも末端ではなく、袁家の中枢部の家柄にだ。
そう、彼女は名実共に本物の御嬢様である。
超が付く程の、「蝶よ、花よ」な御嬢様なんです。
ええ、口下手な春蘭や不器用な凪でさえ騙せます。
……いや、恋だって遣り方次第では出来る…筈。
つまり、それだけ、乗せられ易いんですよ。
「絞り込む所か、範囲が広がった気がするわ…」
「言うな…それ以上、何も言うんじゃないっ…
この話は、ただただ虚しいだけだ…
誰も幸せにはなれず、傷付き、痛みを刻むだけだ」
「「そうね…」──って、言いたい所だけど…
要するに、現実逃避してるだけじゃないの」
「だから「言うな」って言ったんだよ」
そう、考えるだけ時間の無駄。
取り敢えず、必要最低限の備えだけはして置く。
それ以外は全部、出た目次第だからな。
勿論、特に深い理由は無くて。
本当に、偶々の袁紹の思い付きという線も有る。
…個人的な希望を言えば、そうで有って欲しい。
いや、寧ろ、「そうだったら良いなぁ…」か。
咲夜と無言のまま見詰め合い──項垂れる。
溜め息を吐くだけでは足りない。
それだけでは俺達の気苦労は表現など出来無い。
政治というのは気苦労の塊だが。
筋の通らない案件が一番堪える。
投げ出して──否、宇宙の彼方に発射し。
ブラックホールに喰わせたい。
other side──
鍬を振り、土を耕し、種を蒔く。
私達が生きていく上で、“食べる”事は不可欠。
だけど、自然の恵みだけじゃあ、全然足りない。
だから、私達“人間”は、自分達の手で作り出す。
“農作”という技術を確立し、広め、繁栄した。
つまり、人間の根幹は食欲であり、至高は農耕。
農家を笑う者は飢餓に泣く。
農耕を軽んじる者は餓死に怯える。
農作物を尊ばない者は、軈て誰からも見捨てられ、最後は後悔と孤独の中で死ぬ事だろう。
──という風に、私は考えています。
いや、だってね、本当に大事な事なんだよ?。
生きるって大変だし、簡単じゃないんだから。
その為にも、食べる事は欠かせないもん。
「ふぅ~…これで今日は終わりかな?」
耕し終わったばかりの周囲を見回して、一満足。
自分自身の頑張りの成果を目の当たりにして頷く。
“開墾”って言うだけなら簡単なんだけど。
実際に遣るとなると、本っ………~っ当ーにっ!。
大変なんですよね、これが。
だから、誰も遣りたがりはしない。
勿論、高い給金を出したりすれば働く人は居る。
でも、一人二人じゃあ、埒が開かないもん。
それなりの広さを開墾しようとすれば百人は必要。
だけど、そんなに人を雇う御金は有りません。
「だから、皆で頑張って遣りましょう!」って。
そう言った所で、実際に遣る気になる人は居ない。
世の中、そんなに遣る気に満ちてはいないから。
でも、遣らないと何も変わらない。
荒れた地面も、草木に埋もれた地面も。
放って置いても、状況は悪くなっていくだけ。
それだったら、私だけでも構わない。
自分一人でも構わないから、遣ってみよう。
実際に遣ってみてから、それから色々考えよう。
そう思って、実際に遣り始めてから、早一ヶ月。
最初の頃は毎日毎日身体が痛かったっけ。
それでも、一日も休まずに続けた。
そうすると可笑しなもので、段々と楽になる。
身体が慣れて、遣り方も判って、楽しくなる。
昨日よりも少しでも広く、多く。
耕せた地面が増える事が、素直に嬉しくて。
「嗚呼、私の遣ってる事って無駄じゃないな」って実感出来る様になるから。
今では止め時が判らなくなっちゃってます。
ただ、汗を拭い、見回して、空を仰いで思う。
目蓋を閉じれば、近い未来の景色が浮かぶ様に。
「何を植えようか」「何を育てようか」と。
それを考えるだけでも楽しくて。
その先の収穫を迎えた時が更に楽しみで。
もう、口元のニヤニヤが堪えられない。
「──姉上、大変だっ!」
「──御姉様、一大事ですっ!」
──と、私を現実へと引き戻す声が響く。
空を仰いでいた顔を向けると張り合う様に御互いに肩を打付け合いながら走ってくる義妹達。
「仲が良いなぁ~」と思っていた私は。
二人の言葉で、笑顔を失う事を知らない。
この日常の終わりを。
──side out