鮟鱇と冬の海(三十と一夜の短篇第7回)
鮟鱇と冬の海
仕事一筋でがむしゃらに生きてきた。
だから、それを無くしたら私には何にも残らない。
入社して十年、念願だった大きなプロジェクトを任され、私がチームリーダーとなり仕事を進めた。男なんかには負けられない、そんな意識があったのだろう。男性社員のミスを糾弾する様な場面も少なからずあり、周りから良くは思われていないのは知っていたが、まさかそこまで恨まれていたとは思わなかった。
ある日、出社すると上司から呼び出しがあり、談合を主導した嫌疑をかけられているとの事、自宅謹慎を命じられる。
数ヶ月に及ぶ謹慎、いくら弁明をしたくとも、そんな機会は与えられずにそのまま懲戒処分されるかと思っていたが一転、何のお咎めも無く支店への配属移転の辞令が下りた。
大して親しいわけでも無い同期から聞きだした話はお粗末で、チームメンバーだった男性社員が私を陥れようとした社内メールがことの発端だったそうだ。
問題のメールが出回り、社内で調査委が動き出したが男性社員の自作自演と判明し、私への嫌がらせをしたかったと悪びれもしないその男をクビにして一件落着。ただ私の処遇については意見が分かれる所だったと言う。
つまり、ただの被害者とするか、部下の管理が出来ない無能の烙印を押すか。
結局のところ、面倒になった私を追っ払うことに着地点を見いだしたそうだ。
その話を聞いた時に張り詰めた何かが切れた。
もういい。
「鉄じゃないよ、チタンの女。辛うじて女にカテゴライズ」
そう陰口を叩かれていたのを知ってた。
自分でもそれには共感していたが、意外にチタン製の女は脆かった様だ。
退職願を出せばあっさり受理された。
家族も友達も無く、社会のコミュニティから爪弾きにされ、川に浮かぶ泡の様な人生だ。
傷つかない訳がないじゃないか。
たった一つの拠り所さえ奪われて。
見上げれば、透き通る空気の向こうに淡い色の青空が広がっている。
「そうだ、海に行こう」
傷付いた女は、日本海を目指すものよ。
寂れた駅のロータリーには人の姿もまばらで、タクシーすらも見当たらない。
ガラガラとキャリーケースを引きバス停でバスを待つ。
顔の半分近くを隠す大きな丸いサングラス、耳には揺れる大きなピアス、口元は真っ赤な口紅でショート丈のトレンチコート。
あからさまに強めな格好。
私の戦闘服。
何にも負けない私でいたかった。
けど、痛いわね。
客観的に眺めると、かなりダサいわ。
肩パットが山盛り入れば、30年前のファッション誌に登場しそうな出で立ち。
「あのー、ここんバスは⚪︎×総合病院に行きますかね?」
全体的にプルプルと小刻みに揺れる小柄なおばあちゃんが私を見上げて言った。
「……ええ、行きますよ。あと1時間したらバスが来る予定です」
時刻表と、駅舎の壁に掛かった大きな丸い文字盤の古びた時計を確認しながらそう言うと、おばあちゃんは口の中でつぶやく様にありがとう、と言ってベンチに腰掛けた。
私もそれに倣ってベンチに座る。
腕時計はしてない。外したのだ。
時間はある。
「うみ、だ。」
何年ぶりだろう、いつが最後の記憶だったろう。
潮風が髪を舞い上げる。
バスはまばらな乗客を降ろしながら、山を越え谷を越え進み、終点まで乗っていたのは私だけだった。あのおばあちゃんも途中で降りた。
降りがけに私の手に飴ちゃんを乗せて。
おばあちゃんに貰った黒飴を、口の中でコロコロ転がしながら歩く。
テトラポットが延々続く海岸線、防波堤の上を歩いてみる。ぐるりと辺りを見回したが人の姿は無い。平日の日中用もなく海岸をうろつく人間などいないのだろう。
風に舞い上げられる髪を片手で抑えながら、歩き続ける。
足元は、カツカツと硬質な音を立てた。防波堤のコンクリと海にハイヒールは無いな。
「こんにちは」
突然声をかけられた。
振り返ると、男の子が防波堤に腰掛けて足をぶらぶらさせている。
男の子と言っても幼い子供という訳ではない。大人と子供の境界線が曖昧になる年の頃、高校生位に見える男の子だった。ニコニコと笑みを浮かべながら私を見上げている。
けれど、さっき歩いて来た時には誰もいなかったではないか。何しろ防波堤の上だ、直線上に身を隠す様な場所はどこにもないし、ましてや人一人を見落としたりするものか。
何だか気味が悪い。
「僕、鮟鱇の精です」
いきなり何を言い出すのやら。最近の高校生はアラサーをからかって遊ぶのか。
ムッとした私に笑顔を向ける自称鮟鱇の精。
「お姉さん、ダメですよ。海に飛び込んだりしちゃあ」
冗談じゃない。この季節にそんな事する訳ないだろう。海水浴などとうに季節外れ、まだ日中は暖かいが朝晩は大分冷え込む今日この頃。
きっと頭のおかしなちょっとかわいそうな子だと思い、関わり合いになるのはごめんだと足早にそこを去ろうとした。
「あのっ!ダメですよ!生きていればいい事ありますよ、だから……」
「何それ」
思わず足を止め振り返る。足元でヒールが鳴った。
そんなに私は弱ってる様に見えるのだろうか。身形が見すぼらしいとか、酷く草臥れている様に見えているのだろうか。いや、そんなはずは無い。こんなに周りを威嚇する勢いの強目のファッションで、全身を包んでいるというのだから。
しかし、目の前の男の子には、私は海に投身自殺しに来た様に見えるらしい、という事に衝撃を受ける。
「ダメですよ。海に入っちゃ。お姉さんみたいな人は引っ張られます」
あくまで穏やかな口調。しかし、どこか不気味さが漂う『引っ張られる』と言う言葉に、声をなくし目の前の青年をまじまじと見る。
細い細い糸目はアーチ型を描き、口角は僅かに上がっている。ボサボサの髪は柔らかそうな茶色で、おそらく地毛だろう。手足は今時の若者らしく、すらりと長い。ただその細さは際立っており、手足は言うに及ばずシャツの袖がパタパタと風になびいている。
「あ、ごめんなさい悪い意味じゃないです。あの、お姉さんが、可愛いから」
可愛いから『引っ張られる』と言いたかった様だが、いい年をした女、十代から見れば紛れも無いおばさんに可愛いだなんて、嫌味にしか聞こえない。大人を揶揄う物ではない。そう言いかけてやめた。
可愛いなんて言われたのは何年ぶりだろう。社交辞令の追蹤にしても、もうそんな事を私に言う人間などいないのだ。
「……そ、う……かな」
「うん。かわいい。」
糸目をさらに細めて鮟鱇の精は笑った。
健康的なその笑顔に、自分の中に巣くう黒いドロドロとした何かが、少し、ほんの少し減った様な気がした。
もう雪の降る季節だと言うのに鮟鱇の精は半袖のTシャツを着て、相変わらず防波堤に腰掛け足をぶらぶらさせながら、ボンヤリと冬の海を眺めていた。
私はだぶだぶしたトレーナーにダウンジャケットを着て、スキニージーンズに足元はスニーカー。気楽な格好だ。
「お姉さん、こんにちは」
「こんにちは。ねぇ、これ食べる?」
差し出したのは焼き芋。さっき焼き芋カーを捕まえ、買ったばかりのアツアツだ。
「わぁ!ありがとう。僕焼き芋って食べてみたかったの」
大きな芋を紙袋から取り出し半分に割った。二本買っても良かったのだが、鮟鱇の精が芋を食べなかったら私が二本の芋を食べなくてはならない。それはいくら何でもキツイだろうと言う判断だった。
「僕ねぇ、いつも病院の窓から見てたの。焼き芋〜石焼き芋!って言うおじさんの声が聞こえると、急いで窓から大きい声で、お芋下さーい!って叫んだけど、いっつも通り過ぎて行っちゃって」
この薄い体から出る大きな声ではたかが知れてるだろう。
「あなた病院から脱走して来てるの?」
「違う。鮟鱇の精になる前の僕のことだよ」
私はこの男の子の言う事を半ば信じかけていた。真冬にTシャツ、いつでも防波堤に腰掛けている様は、やはり人では無いのかも知れないと思う。
「鮟鱇の精の割に人間っぽいわね」
「うん。僕ねぇ、神様にいっぱいお願いしたんだ。僕のお母さんの夢を叶えてあげて下さいって。そしたら僕ここに居たの」
よく分からない。
が、彼を理解しようとは思わない。不思議なことだらけできっと無理だ。ただ受け止める、それだけでいいのではないかと思う。
「お母さんの夢?」
「僕が大きくなったらどんな大人に成るのかな、楽しみだなって。でも前の僕はそれを見せてあげられなくて、小さいまま死んじゃった」
ちょっとだけ眉尻を下げ、困った様な顔をして笑う鮟鱇の精は、確かに小さな子供みたいで、つい頭を撫でてしまった。
私の指に触れる見た目通りの柔らかな髪の感触が、彼の存在を証明しているような気がする。
「でもね、僕すぐ分かったんだ。お姉さんが僕の願いを叶えてくれる人だって」
くすぐったそうにしながら笑顔を見せる鮟鱇の精は、糸目を更に細めて夢見る様に続ける。それは熱に浮かされた熱病患者の様で、少し怖い。
「鮟鱇は暗闇の世界でたった一人の雌に会うために産まれてくるんだよ。鋭い嗅覚で運命の相手を探すんだ。広い広い深海を彷徨い同種の雌に出会うってすごい確率だと思わない?」
「私は見つけられなかったな。今まで一人で生きてきたし、一人でいるのも慣れっこだよ」
真っ直ぐな視線に気づかないフリをして、雪に烟る冬の海を眺める私。
「でも僕は見つけた」
陽光の届かない深海はまるで宇宙空間の様、暗闇を仄かに照らす鮟鱇の頼り無さげな提灯の灯りは、広大な空間に対し余りに弱々しい。
だと言うのに私にとっては熱くてならない。白く輝く太陽にも変わるほどに。
鮟鱇の放つ熱に私はグズグズに溶かされそうだ。チタンの融点は何度だろうか。チタンの女も溶かされる熱量に白旗をあげざるを得ない。
私は初めて鮟鱇の手を握った。少し冷たい指先は、焼き芋でベタついていた。
「手、ベタベタだね。手洗いたいでしょ、うちに……くる?」
人との距離を計りかねる私にはいささか荷が重く、さらっと言えたか心配だ。
人を自分の部屋に呼ぶなど常ならば絶対にやらない事だが、何しろ相手は鮟鱇の精。ハードルが下がった気がする。
鮟鱇の精を連れて防波堤を歩く。はたから見たら私達はどんな風に見えるのかな。繋いだ手に力が入る。
海に通いたくて、海岸脇にあるマンスリーマンションを借りたのは秋口で、もうすっかり自分の帰る場所として馴染んだ部屋の鍵を開けた。
「お帰りなさい」
鮟鱇がそう言って微笑んだ。
ああ、いいな。
今なら認める事が出来る。私は寂しがりやで、甘えん坊で、どうしようもなく弱い人間だと。今までの強がっていた私が滑稽なほどに、まるで正反対な本質を隠し持っていた。
「ただいま」
バタンとドアの閉まる音を聞きながら、私は背後から抱き竦められた。
いいじゃないか、鮟鱇だって構わない。
もう私は一人じゃ立っていられない。
目の前にある温もりに手を伸ばさずにはいられない。
鮟鱇の精に向き直ると、焼き芋がこびりついた指先をそっと口に含んだ。
甘い。焼き芋の甘さか何なのか、分からないけど、染み渡る甘味に身体の奥が震える。もっともっとと、貪欲に欲する自分の身体に怯えながら彼を見つめれば、私以上に切羽詰まった顔で切なげに見つめ返した。
私の頭が湧いてなければ、子供相手に何をしているんだと、青少年保護育成条例に違反するじゃないかと、踏み止まる事が或いは出来たかもしれない。
でも、もうだめだ。
薄い唇が私の首筋に触れたから。
優しく吸いつく柔らかさに、涙が一粒溢れた。
「泣いてるの?」
私はただ彼の薄い体を抱きしめる。
同じく私を抱きしめる細い腕に、私は例えようもない充足感を得ていた。
がむしゃらに働いて何かを手に入れたくて、足掻いた私が真に欲していた物は、結局のところ
私を抱いてくれる暖かい腕だったのだ。
あれは夢だったのだろうか。
そう思う時もある。
鮟鱇の精は、抱き合って眠る私の胸に顔を埋めたまま、私の身体に同化した。トロトロ溶けて文字通り私とひとつになったのだ。
不思議と怖くはなかった。
もうずっと一緒に居られると思えば嬉しかったし、彼は笑った様ないい顔で私の胸に張り付いていた。
何度も話しかけて見たが返事が返って来ることはなく、黙って、ちょっと笑ったまま私に張り付いている。まるで幼い子供が母親に甘えているみたいで、そんな風に思えば愛おしくて、返事は無くとも話しかけたり頭を撫でたり、私達は幸せの中にいた。
それなのに彼の身体は一カ月もしないうちに私の中に吸収されてしまった。
だんだん輪郭が崩れて平べったくなっていく鮟鱇の精、私は取り乱し海に向かって走る。また彼に会えるのではないかと淡い期待を抱き、冬の海に向かい合う。空には月が出ていて、ほんのり明るい夜だった。彼はあの日のように防波堤に腰掛けて、足をぶらつかせながら暗い海を眺めているような気がして、私は駆け出した。
ごうごうと畝る波がテトラポットに砕け、飛沫がかかるけど気にならない。それより夜の海の暗さと、波の轟の中、私は沢山の人の気配を感じた。
海から伸びる何十もの白い腕。自分に向かって伸ばされる腕は、私の足に巻きついてあの暗い場所に引きずり込もうとしている。
「引っ張られる」とはこの事だったか、鮟鱇の言葉が蘇る。でも、行き着く先が彼の元であるのなら、それも良いのかもしれない。
私の思考を読んだ様に白い腕は一斉に私の足に、腰に、腕に巻きついてきた。自分の意思とは関係無く、一歩、また一歩と海に向かって進んで行く。防波堤の端ギリギリに立った時、突然私の身体が光を放った。瞼の裏まで焼け付く様な圧倒的な光の前に、白い腕は恐れをなしたように私を離し海の波間に消えて行った。
発光は一瞬で終わり、辺りはまた月明かりのみ。
あのとき、鮟鱇の深海を照らす光があの白い腕を退け、私を助けてくれたのだと、私はそう思う。そうであれば、彼はまだ私と共に在るのだ。
それに、また一人ぼっちになったと損失に絶望する暇もなく忙しくなったのは、彼なりの気遣いかもしれない。
「ねぇ、あなたの夢が叶うよ。やっぱり鮟鱇の嗅覚って凄いわね」
僅かに膨らんだ下腹部を撫でながら、私は話しかける。
先日、病院からの帰りに通り掛った保育園。
子供達の声に惹かれ、フェンス越しに子供達の遊ぶ様子を眺めていた。
砂場で遊ぶ子、ブランコを漕ぐ子、追いかけっこをする子、エネルギーに満ち溢れている空間に自然と私にも笑みが浮かぶ。
子供達を見守る保育士と思しき女の人の横顔を見た時、私は鮟鱇の精の言葉が正しかった事を知った。
落ち着いたらまた仕事をしなくてはならない。
そしたら子供はここの保育園に預かってもらおう。きっと鮟鱇の精にそっくりの保育士さんが、子供の世話をしてくれるに違いない。
薄紅色の可憐な花びらが未だ冷たさの残る春の風に舞い散り、世界をパステルカラーに彩った。
おしまい