18話 相談屋 動物園に行く
夜更けに降り出した雪は積もることもなく、日の出と共に姿を消し、一転して小春日和といった陽気に包まれた晩秋の朝。
二日連続の寝不足で迎えた朝。
俺は深夜まで祖父の本棚を漁って探し物をしていたのである。村岡を解放するために必要な物が、そこにあると信じて。
体のバランスが定まらない、ふわふわとした足取りで洗面台に立つ。
いつも通りに寝癖で立ち上がった髪を無駄と知りつつ整え、ヨレヨレのズボンに毛玉が大量についたセーターに着替える。
ファッションなどには興味もなく、今まで気にも留めなかった自分の衣装が、今日はひどく悲惨なものに思えた。
しかし、タンスに収められた服は似たり寄ったりのすれ具合か、より一層ひどいかである。
選択肢はない。
昼頃には無用になるだろうが、薄手のコートを羽織って俺は家を出て駅に向かう。
目的地は村岡の家だ。
彼女に俺が家に行くことは伝えていない。アポなしだ。
もし村岡が不在であれば、それまでだと俺は考えていた。
汽車に揺られること三十分。
ほどなくして見えてくるのは、町の中心部に建て直された、壁が全面ガラス張りの真新しい駅。
俺は汽車を降りてホームに溢れる人波を掻き分けて外に出る。
村岡の家に行ったのは一度だけだったが、迷わずに辿り着いた。
ゆっくりと右手を持ち上げて、腫れ物にでも触るようにしてインターホンを押した。
スピーカーから呼び出し音が響く。
相手が応対に出るまでのわずかな時間に、俺の心拍数は急激に増した。
どうして、こんなにも緊張しているのか自分にも分からない。
「はい」と、村岡の起伏のない、たった一言で不愛想と分かる声がスピーカーから吐き出される。
「え、ええっと、俺だけど」
これじゃあ、なりすまし詐欺ではないか。
村岡からの反応はなかった。
そりゃそうだと思いながら、もう一度、インターホンを押そうとした時、玄関のドアが勢いよく開いた。
「なにやってんの?」
長い黒髪を後ろで粗雑にまとめ、青色のシャツにハーフパンツ姿の村岡が、コロコロと飴を口の中で転がしながら顔を出した。
ここ北国では、外は極寒でも家の中は常夏だ。暖房で暑いぐらいに暖められた部屋の中で、半袖半ズボンでアイスを食するのが恒例である。
「いや、なんだ、今日、時間あるか?」
たどたどしく俺は言葉を紡ぐ。
「なんで」
「動物園に行かないか?」
それを聞いた村岡は無言のまま、俺をジットリとした視線で見つめた。それから唐突にドアを閉めた。
さて、どうしたものか、と俺は玄関前に佇みながら思案した。
イエスかノーか、村岡の態度からは読み取れなかった。
ここで待つべきか、待たざるべきか、それが問題だ。
結局、俺は待った。そう長い時間ではない。十五分か二十分だ。
再びドアが開き、グレーのコートを着た村岡が出て来る。特別、着飾った様子もない、学校の時と変わらない少し着崩れした格好だった。
俺たちは駅へと並んで歩く。
会話はまるでない。
真っ先にジエリのことを問い詰められるかと思っていた俺には、まだ沈黙のほうがマシだった。
村岡からは先日のような怒気は感じられなかった。
だからと言って安心はできない。
彼女の崩れることのない、鉄壁の無表情の中に何が隠されているか分かったものではないのだ。
駅で動物園行きの汽車に乗る。
まだ早い時間にも関わらず車内は込み合っていた。
他の乗客も俺たちと目的地が同じらしく、到着を知らせるアナウンスが車内に流れると一緒になって降りた。
動物園は郊外の山の上にあった。
一度は廃園さえも検討された寂れた動物園は、今では毎年のように新しい施設が作られ、海外からの観光客が訪れるまでにリニューアルされていた。
家族連れやら彼氏彼女連れやらに紛れながら、俺と村岡は動物園に続く長く真っすぐな坂道を上る。
「最近、動物園に行ったことあるか?」
俺が聞くと、村岡は首を傾げた。
「ああ、小学生の遠足以来かなあ」
「じゃあ、俺と一緒だ」
「何で急に動物園なわけ?」
「ほら、猿山の猿を眺めてる傲慢で蒙昧な奴を鑑賞してやろうかと思ってさ。共感しあえる相手がいないと面白くないだろ」
ジエリの言葉を借りて俺は答える。
お世辞にも良い趣味だとは言えなかったが、確かにそれは面白そうだった。
もっとも、村岡が求めていた答えとは違うだろうが。
「それは理由の半分か、三分の一でしょ」
さすがはジエリを震わせただけのことはある。こちらの考えを簡単に見通す。
「俺はお前の魂を奪うためなら、なんだってするんだよ」
俺は投げやりになって答えた。
「おお、こわ。さすが悪魔」
もちろん村岡はみじんも怖がっていない。
ようやく動物園の入口が見えてくる。
誘った手前、窓口で村岡の分まで入園料を払おうとすると、横合いからスッと千円札が差し込まれた。
「自分の分は自分で払うから」
「そうか」
と俺はすぐに受け入れた。これでガチャガチャ十回分の費用が浮いた。
久しぶりの動物園に足を踏み入れる。
動物が醸し出す独特の匂い。心地いい代物ではないが不快ではない。
「どこから行く気?」
「順番に回ろうか」
入口近くの、ペンギンたちが雪に見立てた白塗りのコンクリートの上を、ヨチヨチと歩いている施設を俺は指さす。
施設には水中トンネルがあり、水の中を泳ぐペンギンを真下から覗くことができた。
その姿はまさに魚雷。
ペンギン魚雷である。
翼を羽ばたかせて水中を飛ぶように泳ぐ様子は、地上での彼らからは想像できない程に力強かった。
しばしの間、俺も村岡も頭上を行き交う光景に見入った。
そして後ろから迫る人の列に押され、名残を惜しみながら施設を後にする。
それから先は、許された時間まで可能な限り動物園を堪能するために、移動は足早になった。
俺の終電の関係で、夕方には動物園を出なくてはいけなかったのだ。
食堂が混む前に早めの昼食を、村岡が遠慮なくラーメンを豪快にすするのを上目にしながら取った。
瞬く間に日は傾き始める。
一通り観覧し尽くし、目的の猿山を眺める来園者を観察するのにも飽きた俺たちは、人工的に作られた小山を闊歩するオオカミを正面にして、ベンチに腰掛けた。
「さすがに少し疲れたかな」
「あれ? あんた、もうそんなにお爺ちゃんだっけ」
「俺が爺さんなら、お前は婆さんだな」
「まあ、その内なるだろうけど」
会話はそこで途切れた。
周囲でざわつく人群れの世界から切り離されたように、俺たちの間に沈黙が流れる。
それを破ったのは村岡だった。
「まだ答えてもらってないんだけどさ、どうして私を誘ったのか」
ここからが本番だ、と俺は内心で呟く。
「休日に誘うには口実が必要だろ。動物園は思い付きだ。お前となるべく早めに話しておこうと思ってな。沢木の件は俺の考えが足りなかった。謝るよ」
「別にもう、どうでもいい」
あっさりと彼女は言ってのけたが、その「どうでもいい」は、やや普段と違うものに思えた。
「どうでもよくない。俺はお前を悩ましているものを、何とかしてやろうと思ったんだよ。そのきっかけになればいいなと」
「前も言ったけど、別に私は何にも悩んでないけど」
他人のことは分かっても、本当に自分のことは分からない奴だな。
「悩むのを止めるくらいに悩んでいたんじゃないか。俺の爺さんは変な趣味の持ち主で、世界各国のこれまた妙な本を集めていたんだが」
「急にお爺ちゃんの話?」
「いや、じじいの話じゃない。爺さんが集めていた本に、各国の寓話集みたいなのがあったんだ。まあ与太話なんだが、オオカミ少年を知っているだろ?」
「オオカミが来るって嘘を繰り返して、大人を騙した羊飼いの童話でしょ」
「そう、本当にオオカミが襲って来ても誰も信じてくれずに最後には喰われる、まさに因果応報を絵に描いたような物語さ。寓話集には、オオカミ少年のアレンジが載っていて、お前に聞かせようかと思ってさ」
「私を婆さんだって言ったと思ったら、今度は子ども扱いするんだ」
不満を口にする時も村岡は表情一つ変えない。
しかし、自分の太ももを台にして頬杖をつき、顔をこちらに向けて彼女は俺が話し始めるのを待った。
祖父の本棚から、ようやく見つけた物語の冒頭を俺は正確に思い出す。
「あるところに正直者の羊飼いの少年がいました」