16話 相談屋の相談屋(一)
放課後、掃除当番という面倒な仕事を終えて教室から出ると、廊下で待っていた村岡に呼び止められた。
「ちょっといい?」
「あんまり時間は……」
俺は最後まで言葉を続けられなかった。
最初に、村岡が欠かさず口にしている飴を舐めていない時点で、普段と違うことに気づくべきだったのだ。
彼女が何やら怒っていて、俺はうろたえた。
お決まりの日本人形のような無表情を維持したまま、俺を真っ直ぐに見つめる一見すれば無気力に思える伏し目がちの瞳の中に、静かな怒りを潜ませていた。
彼女の家で話し込んでいなければ容易に見逃してしまいかねない、陰にひっそり潜む怒りだ。もしかすると、彼女自身さえも自覚してないのかもしれない。
今度はギックリ腰で入院した祖母の見舞いの後、ガチャガチャに勤しむつもりだったが、どうやら予定は変更になりそうだ。
俺と村岡は誰もいない教室に戻る。
そして俺は教室の隅に追い詰められ、尋問よろしく彼女は口を開く。
「沢木に何か言った?」
その何かはすぐに思い当たった。
一ヶ月ほど前に沢木から受けた相談だ。
村岡に告白してしまえと、けしかけた件である。
彼の目的が果たされる可能性はほとんどないし、村岡も大して気にも留めないだろうと考えていたが当てが外れたようだ。
「迷惑だったか?」
「ああ、毎日のように話しかけてきて煩わしい。どうでもいいけど」
やっぱり、どうでもいいのか。
「じゃあ、何をそんなに怒っているんだ」
「あれ? 私、全然、怒ってないけど。あんたが沢木に何を言ったのか聞きたいだけなんだけど」
さて、ここで俺が次に取れる行動は、あまり多くない。と言うか二つだ。
なにしろ、相手は嘘を見抜いてしまう驚異で脅威の女である。嘘で言い包めることはできない。
無言で立ち去るか、本当のことを話すか。
前者はあまりにも無責任だ。
「お前が沢木をいつも見ているって、あいつが言うからさ。俺はてっきり、前に沢木の話をしたから気になっているのかと思って、ちょっと焚きつけたんだよ」
「あいつなんて見てない」
「沢木じゃなければ、何を見ていたんだ」
村岡は答えない。飴を頬張っている時の癖なのか、舌が頬の内側をなぞる。
なるほど、少しずつだが、こいつが分かって来た。
嘘を見抜ける彼女は嘘をつけない。
何も見ていない、とでも言えばいいものを。
「あんたは私と沢木が付き合えばいいと思ったわけ?」
俺の質問に答えないまま、村岡は言った。
「そうなるとは思っていなかったさ。でも、世の中には信じられないことが起きるだろ。お前には、そういう刺激が必要かなと思っただけだよ」
村岡は目をそらして、俺の脇を足早に過ぎて教室を出て行った。
何も言い返してこないところに、彼女の怒りの度合いが見て取れた。
午後四時、早くも翳り始めた秋の終わりの太陽に照らされた教室に、俺は一人で取り残される。
どうするべきか悩んだ。
村岡が怒っている理由が思い当たらない。彼女自身にも理解できないのだから、俺には到底、無理な話だ。
しかし俺が原因だとすれば、このまま放って置くわけにもいかない。
俺は教室を出て、誰もいない廊下の端まで歩みを進めていた村岡を大声で呼び止める。
彼女は振り向きもせずにピタリと足を止める。
俺はその背中に話しかけた。
「俺はただ、お前のためになればいいと思っただけなんだ」
村岡は俺の声なんぞは聞こえなかったように再び歩き始め、角を曲がって視界から消えた。
本当に何がなんだか分からない。
しかし、どうやら、ひどい失敗をしたらしいことだけは把握できた。
男の俺には女の、それも奇特な女の心の中なんて理解できない。
誰か教えてくれる人はいないだろうか?
祖母では歳を取りすぎているし、何より身内に話す内容ではない。
近くにいて、話しやすくて、できればすぐに忘れてしまうぐらいのバカな奴がいい。
そんな奴は……。
いた。
問題は、あいつが女だと、それ以前に人間なのかさえも判然としないことだが、聞くだけ聞いてみようか。
俺は大した期待も持たずに家路に着いた。