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12話 歌姫

 アイドル = 政治家を目指すよりも厳しい戦いを乗り越えなくてはいけない。

 一両編成の汽車の乗客は俺と沢木の二人だけ。

 いつも通りの朝だ。

 沢木は俺の座席の前に来て、吊革に両手を通してぶら下がる。髪の右半分が寝癖で逆立っている。


「どうした、その腕」


 沢木は三角巾で吊った俺の左腕を見ながら言った。


「ちょっと捻った」

「酷いのか?」

「ちょっとだよ」


 俺は突き放すようにして、あまり触れられたくない話題を打ち切った。

 腕立て伏せをして肉離れを起こしたとは、情けなくて口にできない。


 さらに言えば、ジエリの作った朝食の味噌汁だか、おしるこだか分からない代物を飲み干して、非常に具合が悪かった。

 飲むんじゃなかった。吐き気がする。おかげで見ていたはずの「今日のハンペンたん」の内容も覚えていない。

 まあ、学校に行けば、すぐに女子たちの会話から分かるだろう。


「そうか。でさ、困ったことがあってさ」


 聞き飽きたセリフを沢木が口にする。


「どうした?」

「実は」と彼は誰もいない車内を見渡して警戒した。「どうも俺に気のある女がいるんだ」


 安心しろ、気のせいだ。


「誰だよ。俺の知っている奴か」

「村岡だよ」

「誰だって?」


 村岡と聞こえたが、幻聴に違いない。


「だから村岡だって。あいつ、最近、ちょくちょく俺と目が合うんだよ。合ったら合ったで、恥ずかしそうに目を逸らすし。絶対に俺に気があるんだって」


 おそらく、それは一見して頭空っぽで、実際に頭空っぽの沢木の意外な過去話を村岡に聞かせたせいだ。


「困るよなあ。村岡は可愛いけど、俺とは種類が違うというか、付き合ったとしてもやっていける自信がない」


 ずいぶんと気が早い沢木は、到底、起こりそうもない未来に思いをはせて唸った。

 好きかどうかは別にして、村岡が沢木を気にしているのは本当だろう。


 俺は思い直した。


 世の中には起こりようもないことが起きる。現に俺が異世界で相談屋を開いているのが、その一例だ。

 沢木と村岡が本当に上手く行く可能性だってある。何となく腑に落ちないが、それは彼女にとって悪いことではないかもしれない。


「それで諦めるのか」

「諦めるというか、気後れってやつかな。俺と村岡の間にはさ、越えられない壁みたいなのを感じるんだ」

「壁ねえ。重要なのは、やっぱり気持ちだよ。一途な気持ちってのは、大抵の壁なんて壊せるもんだ。俺の叔父さんの話なんだけど」

「お前に叔父さんなんていたっけ?」

「いるよ」


 いないけど。


「その叔父さんが何だって」

「叔父の高校時代の話さ。叔父は野球部で、いつも日が暮れるまで練習に明け暮れていた。辛い練習。特に一年の叔父にはシゴキって言ってもいいものだった。ある夏の日、彼はもう限界だと退部する意思を固めた」

「お前の叔父さん、根性ないんだな」


 鼻で笑いながら沢木が言う。


「誰だって挫ける時はあるさ。そう、まさに挫けた時に聞こえてきた夕暮れの空に響くソプラノの歌声。綺麗な声だった。運動部の掛け声、吹奏楽部が打ち鳴らす不協和音。その中に埋もれながらも奏でられる歌声。日本語じゃないから意味も分からない。でも、狂気にも似た恍惚とした歓喜が体の中心を貫いて叔父を満たした」


「スゲエな、その歌。何て曲だったんだ」

「イゾデルの愛の死だ」

「何それ、暗そうな曲だな」

「オペラだよ。許されない恋に落ちた姫様が、恋人の死を前にして歌うんだ」


 俺は沢木の感想がどんなものか、スマホで動画サイトから検索して曲を聞かせた。

 車内に響くオペラの一曲。


「なんか怖いぞ」


 それが沢木の総評だった。


「お前にはそうかもな。でも叔父には違った。目を閉じて耳を済ませるだけで心が癒された。練習の苦しみも辛さも忘れられた。動機は不純かもしれないが、その歌声を聴くために野球部に残った。部屋に佇む一人の少女。長い真っ直ぐな黒髪、穏やかな表情でいながら、揺るがない芯の通った真っ直ぐな瞳を持った少女。まだ見ぬ歌姫に、そんな想像を巡らせた。気づけば叔父はレギュラーを得るまでになっていた。だけど自分をそこまでにしてくれた歌姫の正体は分からずじまいだった」


「探さなかったのか?」

「探さなかった」

「どうして。俺なら探すけど」


 沢木は苛立って言った。


「お前と同じだ。気後れしたんだよ。音楽室から聴こえているのは分かっていた。でも行く気にはなれなかった。会ってどうするんだ? 君のおかげで励まされて、レギュラーを獲得できましたって言って何になる。叔父の気持ちは恋愛感情というよりかは崇拝に近いものだった。季節はあっという間に過ぎた。卒業、進学、中退、就職。辛いことはあっても、彼女の歌声一つで元気になれた。だけど時間ってやつは残酷さ。あれほど鮮烈に脳裏に刻まれていた歌声は次第に過ぎ去り、追われるだけの日々に押し潰されて、思い出すのも難しくなっていた。就職先で仕事に馴染めずにいた叔父は、孤独と徒労に悩まされていたんだ。自分を救ってくれた歌を必死になって頭の中をかき回して探したが、その欠片も見つけ出せない。後悔した。こんなことになるなら、彼女に会いに行けばよかったって」


「そんな後悔はしたくないな」


 もっともだ。


「叔父は、とうとう会社を無断欠勤した。気力もなく、当てもなく、ふらふらと町を歩いた。溢れ出すような人混みで埋まった街で彼は一人だった。追い求めるのは一人の少女の歌声。だけど聞こえるのは耳障りな騒音だけ。そのはずだった。聞こえたんだ、あの歌声が。幻聴かと思ったが、それは確かに聞こえた。記憶は鮮明に戻ってくる。間違いない、高校時代と変わらない、透き通ったソプラノの声だ。叔父は堪らずに走り出した。人を掻き分けながら。次第に人群れは薄くなり、叔父は古ぼけたライブハウスの地下へと続く狭い階段の前に立っていた。歌声はその階段の先から聞こえる。叔父は引き込まれるように階段を下りた」


「感動の初対面か」


 沢木は期待した様子で言ったが、俺は静かに目を伏せる。


「初対面ではあったけど、感動的ではなかった。チケット代を払って、まばらなライブ会場に入った叔父が見たのは、舞台の端で歌う彼女だった。イメージ通りの長い黒髪の綺麗な子だ。だけど、その目は違った。まるで鏡を見ているようだった。自分と同じ目をしている。彼女も自分も生きながらに死んでいる。理由はすぐに分かった。彼女は九人いるアイドルグループの一番端、つまりはもっとも人気のないメンバーだった」


「歌が上手いんだろ、その子。おかしいだろ」


 沢木は抗議した。


「それは違う。アイドルは歌が下手な方がいいんだ。なまじ上手いと、むしろ駄目。つうか、歌なんてどうでもいいんだよ。叔父は許せなかった。彼女がこんな場所に立っているのが。それ以上に高校時代の自分が。もし、その時に会っていれば、こんな道を歩ませはしなかった。今の彼女はとても見ていられない。消え去りそうな姿なんて。だけど、まだ遅くはない。だってそうだろ、彼女に出会えた。叔父の一途に求める気持ちが、ここへと導いたんだ。今度は自分が彼女を救って見せる。叔父は決意した。そして本当に救い出したんだ。沢木、気後れなんて後悔を残すだけだ。叔父に勇気があれば、もっと早くに幸せになれたはず。駄目で元々だと思って、やるだけやってみろ」


 俺がたたみ込んで言うと、沢木は決心したらしく目をギラつかせた。


「そうだよな、俺が村岡の気持ちに応えてやらないで、誰がやるんだって話だよな。俺、あいつを幸せにするわ」


 ずいぶんと想像が飛躍してきたが、まあ、こいつが納得したならいいか。

 村岡には迷惑な話だろうか、と俺は思ったが、あいつなら「どうでもいいけど」で終わらせるだろう。


「まあ、頑張れや」


 沢木は力強く頷く。

 それから俺に聞いてきた。


「それで、叔父さんはどうなったんだ」

「何の話だ?」

「だからさっきの続きだよ。叔父さんと歌姫はどうなったんだよ」


 沢木が足で床を踏み鳴らして俺を急かす。


「ああ、それか。叔父は給料をはたいてCDを買いまくって、歌姫に投票してセンターにしたんだよ。歌姫はメジャーの道を駆け上がって、街には彼女の歌声が溢れ、音楽プレーヤーを再生すれば、いつでも彼女の声を聴けるようになった。おかげ様で、仕事にも精が出るってわけさ」

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