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11話 シュガー

 部屋の棚に並べ終えた日本の田園風景のミニチュアに、俺は見とれていた。

 合掌造りの家屋の前には黄金の実りを向かえた一面の稲穂が頭を垂れ、その上で鳥獣戯画のカエルたちが踊っている。

 実にシュールで素晴らしい。

 百円や二百円のガチャガチャの集合体とは思えない見事な出来である。


 家の呼び鈴が鳴った。

 時刻は午後八時。

 この時刻の訪問者は決まっている。

 その訪問者は合鍵で玄関を開け、小走りに階段を上ってくる。


「お客さんですよ」


 ジエリが部屋に飛び込んで来た。


「どうせ、あのオバちゃんだろ」


 俺がため息混じりに言うと、彼女は頷いた。


「そうですけど、それが何か問題ですか?」

「問題ではないが……」


 そう、問題ではないが迷惑ではあった。相談屋の隣に住むオバちゃんは、特別な悩みがあって相談屋に足を運んでいるのではない。

 ただ世間話、あるいは愚痴を言える相手を求めているだけなのだ。

 一度や二度ならいいが、こう毎日だとさすがにウンザリとする。ジエリからの一万円の報酬がなければ追い出しているところだ。


「それなら行きますよ」


 ジエリはこちらの心情など無視して、右手で俺の頭を抱え込み、残った左手で宙に大きな円を描く。

 空間が切り取られ、次元の狭間に続く穴が開く。

 光さえも飲み込む暗黒の穴だ。

 俺には次元の狭間を認識することはできない。その中に入ってしまえば、俺は溶けたチョコレートのように形を失い、意識は消え失せる。


 そして気づけば、こうして異世界の相談屋でオバちゃんと対峙しているのである。

 オバちゃんはグルグルと捻ってまとめた強い天然パーマの髪を、肩から胸に垂らしていた。その髪形はいつもより乱れているように思えた。


「待ってたわよ、相談屋の坊や。ほら」


 オバちゃんは手に持っていた鍋を俺の前に差し出した。

 鍋の中には、ブドウ酒の甘さと、スパイス交じりの鹿肉の匂いが香り立つシチューが一杯に入っていた。


「いつもすいません。ありがたく頂きます」


 俺は鍋をジエリに渡す。

 彼女は嬉々として受け取る。これを食べるのは彼女の役目だ。


「二人とも、もっと食べて太らないとね」


 ほほほ、とオバちゃんは笑ったが、その笑顔はいつもの歯を剥き出しにする豪快なものではなく、寂しげだった。

 何より俺が気になったのは、彼女の目の周りが腫れ、薄っすらと青くなっていることだった。


「目はどうされたんですか?」

「これね、昨日、ちょっと仕事道具を落としちまってね。本当にドジだよねえ」


 オバちゃんは、薄い影の中に沈んだような微笑を浮かべた。

 彼女の仕事は仕立屋。もっとも最近は直しの方が多いらしい。

 道具を目元に落とすこともあるだろうが、そうは思えなかった。


 誰かに殴られた跡。

 だとすれば誰に?


 オバちゃんは二十歳になる息子と二人暮らし。旦那は石工職人で各地を転々としていて、年に数度しか帰って来ない。

 普通なら、親父の職を継ぐために息子は付いて行くのではないだろうか。それとも仕立屋になるつもりか。


 息子の話を彼女はほとんどしない。それ以外のことはペラペラと話すのに。


「それで、昨日来た鍛冶屋の奥さんの話なんだけど」


 話し始めたオバちゃんを俺は片手を上げて制した。


「今日は、ちょっと違う話をしませんか?」

「あら、どんな話」

「あなたの家庭の話です」


 途端に彼女の目が泳ぎ始めた。

 どうやら当りだな。


「ここは相談屋です。何か気になることがあるなら言ってください。手助けできる、とは断言できませんが、気持ちを吐露するだけで問題が解決する時もあります」


 オバちゃんはしばらく躊躇った。落ち着きなく手足を動かし、そして観念したのか、長いため息をついて正面を向いた。


「息子が働かなくて。家から一歩も出ようとしないし、かといって何かするわけでもなく、毎日、家でゴロゴロと。昨日、少し忙しかったもんだから、手伝ってと言っただけで暴れだして」


 ニートだ。

 しかも引きこもりで家庭内暴力。

 世界が変われど、人間が抱える問題はそう変わるものではない。


「いつも暴れる感じですか」

「初めてだわね。昨日は私も忙しくて気が立っていて、ちょっと強く言い過ぎたのかも」

「それで結局、何も手伝わなかったんですね」

「ええ」

「息子さんの体格は?」

「あなたと同じくらいよ。それがどうかして?」


 ふむ、と俺は言って、それには答えなかった。

 息子をどうにかするのは正直難しい。精神疾患を抱えている可能性も十分にありえるからだ。この世界で治療するのは厳しいだろう。

 となれば、せめてオバちゃんだけは救わなくては。一度、力で母親をねじ伏せたのなら、次もそう出るに決まっている。


「オバちゃん、息子さんに足りないものがあります」


 どういうこと、とオバちゃんは聞く。


「敵です」

「テキ?」


 彼女は呆気に取られた様子で俺の言葉を繰り返した。


「男は常に敵を求めているんです。本来、息子さんが最初に戦うべき相手は父親。父親を倒し、乗り越えて子どもは成長していきます。しかし残念ながら父親は不在。息子さんは敵を見出せずに失意の中にあるのです」

「でも」とオバちゃんは反論する。「前に父親と一緒に石工の仕事をしている時期もあったのよ」

「なるほど、彼は敗北したのです。そこから立ち直れずにいる。はい上がるには、やはり敵が必要です。しかし、貴方では相手にならない。ちょっとした力を見せつけるだけで引き下がる貴方には」

「私に息子を殴れとでも言うの」


 オバちゃんは不服そうに言った。


「違います。力は使うためにあるのではありません。それを使わせないためにあるんです。しかし、現状では殴る必要も出てくるかもしれません。偉大なるボクサー、シュガー・レイ・ロビンソンもこう言っています。肘でいいから目に入れろ、と。理不尽な暴力に対しては反則をしてでも勝たなくてはいけない。そうしなければ暴力はエスカレートしますから」


「理不尽な暴力って、たった一度だけよ。息子が私に手を上げたのは」


「二度目があります。貴方は強くならなくてはいけない。息子をねじ伏せられるぐらいに。これは二人のためです。息子さんは貴方を敵だと認識すれば、勝利に向けて努力を始めるでしょう。貴方に勝つことが目標になるはずです。そして、いずれ敵を求めて外に出ますよ。だから、オバちゃんは、電灯のヒモパンチと腕立て腹筋背筋三十回三セットを日課にしてください。今日は時間的な余裕はあります?」

「仕事も片付いたし、それなりには」


 オバちゃんは口ごもりながら答えた。どうも、俺の提案に乗り気ではないらしい。


「ジエリ」


 急に呼ばれたジエリは「え、何?」と慌てた。


「オバちゃんと一緒に町を走ってこい。体力づくりだ」

「ええ、どうして私」

「仕事だ。世界を救うための大切な」

「あなたが走ればいいじゃないですか」

「俺の仕事時間は十分。最初にそう決めただろ。もうすぐ時間だ」


 ほら、とジエリの肩を掴んで前に押しやった。


「走ると気持ちが良くなりますよ」


 俺は、ジエリに手を引かれて戸惑い気味のオバちゃんを手を振って送り出した。

 とりあえず、オバちゃんには息子に負けないだけの力をつけて貰おう。それでダメなら別な手を考えればいい。


 力か、と俺は思い、右腕を折り曲げて力こぶを作る。それに触るとフニャフニャだった。

 俺にはガチャガチャを回せるだけの力があればいいが、さすがにこれは情けない。

 俺は床にうつ伏せになって腕立て伏せを始める。

 ジエリが帰って来るまで、どうせ暇なのだ。


 で、彼女が爽やかな汗を拭きながら帰ってきた時、俺は左腕を押さえて脂汗を流しながら床を転がっていた。


「何やっているんですか?」

「う、腕がブチっていった」


 ジエリが俺の左腕を取り、何かに納得して頷く。


「肉離れじゃないですかね」


 情けない。

 俺はジエリに付き添われながら元の世界へと戻る。


「救急車を呼んでくれ」

「意味ないですよ」俺の苦しみに満ちた懇願をジエリはあっさり拒否した。「肉離れは、放って置くしかありません。病院に行っても、せいぜい無駄に湿布をくれるだけです。あんなものは何の役にも立ちませんからね、はははは」


 ジエリは嬉しそうだった。多分、走らされたことを恨んでいるのだ。腹ただしい奴だ。


「お前が添い寝でもしてくれたら、直りそうな気がする」

「はあ、子どもですか、あなたは」


 呆れながらもジエリは俺をヒョイと持ち上げてベッドに寝かすと、俺の隣で横になろうとした。

 慌てたのは俺の方だった。


「ストップ。やっぱりいい」

「なんですか、急に。訳の分からない人ですね」


 ジエリはポニーテールを振り回しながら怒鳴った。


「ああ、悪かった。もう寝るわ」

「私は下でテレビでも見ていますから、何かあったら大声で呼んでください。本当に手間のかかる奴ですね」


 ドスドスと床を鳴らしながら去っていくジエリの背中を見つめながら、俺はこいつが人間かどうかも分からない、正体不明の存在なのだと思い出していた。


 朝はあっという間にやってきた。

 目が覚めて左腕をかばいながら一階に下りると、何やらいい匂いが鼻腔をくすぐった。

 台所に立つ、エプロン姿のジエリの背中が見えた。


「何やっているんだ、おまえ」


 俺は唖然としながら言った。


「やっとお目覚めですか。見れば分かるでしょ。朝食を作っているんですよ。ほら、座ってください」


 お前に料理が作れたのか!


「お前に料理が作れたのか」


 思考が勝手に口から漏れた。


「失礼ですね。私は世界中の料理に精通しているんですよ」


 俺は食卓について、並べられていく二人分の朝食を黙って眺めた。

 湯気が立つ眩い白いご飯に味噌汁、ハムエッグにポテトサラダ。


「ほら、早く食べて学校に行ってください」

「お前は俺の母親か」


 憎まれ口を叩いては見たものの、多分、全然、そんな風には聞こえなかっただろう。

 ここ二ヶ月間、俺は一人で食事を作り、それを食べた。

 こうして二人で食べるのは久しぶりだ。そして、それは悪い気はしない。


 味噌汁が甘いことを除けば、だが……。

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