地球代表に俺はなる
「やるからには七十億分の十一を目指そう」
いきなりそんな言葉をかけられた。
たぶん、そのときの僕は意味が汲み取れず狐につままれたような顔をしていたのだと思う。
頭上の雲の合間から太陽が覗き、あたり一面が急速に色づき始めた。
校庭の向こうには小奇麗な植え込みに彩られた正門があり、そこを通り抜けて帰っていく生徒たちが見える。
なだらかな坂へと続く中庭を右手奥に進んで行くと体育館があって、懸命に部活動に励む生徒たちの掛け声や足音が聞こえる。
まだ少し肌寒い春の陽気の中、僕はクラスメイトに頼まれた放課後の用事を済ませて体育館の傍らを通り過ぎているところだった。
そのとき向こうからハカセが駆け寄ってきた。そしてだしぬけに言ったのがその、七十億分の十一だった。
「お、おう。ハカセ……突然何なんだよ、七十億って……」
ハカセこと、中村博士は僕と同じこの春ケ丘高校に入学したばかりの同い年の一年生だ。
背の高い彼はサッカーボールを小脇に抱えていおり、今日に限って何故かブレザーのボタンをきっちり留めている。
彼は頬を上気させながら目を輝かせて近づくとそのまま詰め寄るように僕の顔を覗き込んだ。
「だからさあ、ヒロシ。やるんだろ? サッカー。さっき聞いてみたらさ、俺の担任の池上先生が顧問をやってもいいと言ってるんだよ」
僕は川村浩。この中村とは小学校が一緒で、ずっと同じサッカーチームに入っていた。彼とはそれ以来の付き合いになる。
とはいっても、彼と接点があったのは小学校を卒業するまでで、中学校に上がった後の三年間は全くの音信不通だった。
時が過ぎて、この春ケ丘高校の入学式で彼と久しぶりに再会したのであるが、実のところ、僕は彼のことをすっかり忘れていた。
聞けば数か月前まで親の都合で海外に行っていたのだという。
小学校時代、チームでは皆お互いのことを苗字ではなく名前で呼び合っていたのだが、僕らの名前はたまたま同じ『ヒロシ』だった。
いつだったか、誰かが中村のことを『ハカセ』と呼んだ。それがきっかけで彼はハカセというあだ名で呼ばれはじめた。
そもそも中村と川村でもまぎらわしかったし。当の中村もそう呼ばれることがまんざらでもないらしく、結局それが定着してしまった。
そんな僕らがいたサッカーチームは、基本的に親たちのボランティアで運営される、どこにでもあるような手作りのチームだった。
プロのコーチがいたり屋内設備が整ったような恵まれた環境ではなかったけれど、人数が少ないので全員でプレーできる楽しさがあった。
練習は小学校のグランドで週二回、それと休日に試合があれば出かける。それ以外は自主練する子もいれば他のことをしている子もいた。
だからこそチーム内にはそれなりの温度差があったのは致し方ないことだったのだろう。
もう一歩で勝てないことが多かったのも今なら何となく、分かる。
やがて中学校に上がるとサッカーをやめてしまう子や違う部活に流れる子がいたりで、僕らのチームは見事バラバラになってしまった。
僕もそう。進学した中学校にはサッカー部が無かったので部活動の選択肢からサッカーが消えた。
それで僕は中学では陸上部に入った。そこで三年、いや正確には受験を差っ引いた二年と少し陸上を続けた。
夏が終わり、それからの半年を受験勉強に打ち込んで新設のここ春ケ丘高校に入ったのだが、やっぱりこの高校にもサッカー部が無かった。
「ヒロシは陸上やってたのか。まあ、いいね。うん」
近況を報告する中でハカセは僕がサッカーを続けていなかったことをたいして残念がる様子もなかった。
だからさ、またサッカーを始めようぜ、と彼は楽しそうに言った。
何が『だから』なのかよく分からなかったが、彼の提案に僕はまんざらでもなかった。
「ところで、ハカセは三年間どこにいたの?」
僕の問いかけにハカセは急に真剣な表情になった。
「世界って、広いんだよ。ヒロシ、いま世界の人口ってどれくらいか知ってる?」
質問に質問で返されてしまったが、ハカセの真剣な表情に臆してしまい僕は恐る恐る、七十億人ぐらいかな、と正解を探るように答えた。
「だいたいそんなところだよね。とてつもない人数だよね、七十億って。俺たちはその中のほんのわずかな人間しか知らない」
いろんな国の、いろんな場所で、いろんな人々が俺らの知らない出来事を今日もたくさん起こしている。これって凄くないか? と彼は言う。
たしかに世界は広い。想像もできないほどたくさんの人々がいて、日々様々な出来事が起こっているっていうのは僕にもわかる。
ただ僕は、その中で彼がどこにいてどう過ごしてきたのかを知りたかっただけなのに……。
「それでさ、サッカーはひとチーム十一人同士が戦う。厳密には交代要員を入れるともっと多いけれども、ピッチで戦うのは十一人だ」
唐突に、ハカセから当たり前すぎる知識を披露され、僕は戸惑いながらもその通りだねと真顔で返した。
「俺らも小学校の頃は一緒に戦ったよね。小学校の時は八人制だったから厳密には違うけど、交代要員を入れればだいたい十一人で戦った」
「そうとも。だいたい十一人で、合ってる」僕は真剣な表情のまま適当に流した。
それからハカセは昔を懐かしむような顔つきでしばらく何かを考えていた。一息つくと目を輝かせながら僕に向き直る。
「俺らはね、まずこれからサッカー部の無いこの春高で一番初めにサッカーを始めるんだ。俺が一番でヒロシは二番、いやお前が一番でもいい」
別にその順番はどうでもいいような気がするが、言い出しっぺのハカセが一番であることに特に異存も無い。何なら背番号の決定も任せよう。
「君とまたサッカーができると思うと嬉しいよ。今、優先すべきはあと九人の部員確保だね」僕はごくシンプルに当然のことを言ってみた。
ハカセはにこやかに頷いた。
「それと、部活動と認められて公式戦で戦うためには顧問の先生がいる。これは池チーがやってくれるそうだから早速クリアだね」
そうか、さっきまで職員室にいたからブレザーのボタンをきっちり留めていたのだろう。
そのくせ、入学早々自分の担任の先生を愛称で呼ぶとはハカセも相変わらずだ。僕は変わっていない彼のその性格を微笑ましく感じた。
「ヒロシ、早速だがこの春高サッカー部の一員として何か目標はあるか?」
ハカセの問いかけに僕は少し面食らった。またサッカーができて嬉しいのはあるけれど、いきなり目標と言われてもいまいちピンとこない。
そういう君はあるのかよ、と精いっぱいの強がりで今度は僕が質問返しをしてみる。
彼は待ってましたとばかりに話し始めた。
「俺はまずこのチームのレギュラーになる。そして他校との公式戦を勝ち抜いて県大会に出る。県大会を優勝したら全国大会に出て日本一を目指す」
なかなかの大口を叩くやつだ。でも間違ってはいない。やる以上はそこを目指して当たり前だな、どれほど困難か想像したこともないけど。
「そしていずれはプロを含めた上手いやつらの一人として日本代表に選ばれて世界大会を戦い、ワールドカップで優勝する」
ま、まあ全国大会で競うレベルになれば日本代表の候補ぐらいには、でもいくら将来のこととはいえそんな実力やチャンスはあるのだろうか。
「さらにプロとして強豪のクラブチームに所属してクラブワールドカップでも優勝する」
ああ、このあいだ日本で決勝戦が行われてたな。しかし各国代表のエースが集まっているようなとんでもないメンバーだったぞ……。
「そして各クラブからの選抜メンバーとして俺は最強メンバーの一人になる。七十億人の中から選ばれた十一人の地球代表選手が俺の目標だ」
え? なにこいつ。酔ってる?
「おそらく太陽系にはサッカーを理解してプレーできる種族は地球人以外いないだろうから、暫定的には太陽系代表となるね」
そう言ってハカセは笑った。どこまでが本気か分からないけれど、彼が言っていた七十億分の十一とはこういうことだったのか。
「銀河系のどこかの星にサッカーをやる宇宙人が他にいるかもしれない。もし実現すれば彼らと宇宙最強をかけたカップ戦をやってみたいね」
ハカセの大きすぎる目標に僕は愛想笑いするしかなかった。
彼は日本代表としてワールドカップに出て優勝して世界屈指のプレーヤーとしても認められると言う。妄想にも程があろう。
もう高校生なのにまだ中二感覚が抜け切れていないのだろうかと僕は疑うけれど、でも、夢は大きいほど良いじゃないか、とも思う。
実現する気のない夢は妄想でしかないが、それが自分なりに少しでも近づける夢であれば。それはそれで立派な目標だと言えなくもない。
目指すその場所がどれほど遠くて高い所でも、結局たどり着けない場所だったにしても、そこを目指してみるのも面白いかな。
世界の人口およそ七十億人。その半分が女性だとしても、女子で僕よりサッカーが上手い人なんてたくさんいる。
年齢差だってそうだ。僕より年下でももっと上手い子はたくさんいるし、年寄りには負けないなんて今の僕にはとても言えたものじゃない。
羨ましい、と僕は思う。ハカセは明確な夢を持っている、ただ妄想に取りつかれているだけなのかも知れないけれど。
でも口に出して言えるほどには、持っている。
そんな彼と一緒にいて、僕は僕で何かを持たなくてはならない。そんな気持ちにさせられる。
世界の中の日本の、たまたま通うことになったこの春高で、僕はまたサッカーを始める。
これから部員が何人集まるかわからないけれど、この部のスタメンだって七十億分の十一しか枠がない。
そうだ、これが僕の夢の第一歩だ。
「ところでハカセは三年間、海外のどこにいたの?」
僕はまた同じ質問を彼に投げかけてみた。
ハカセは腕を組みしばらく考え込んでいたが、ようやく考えがまとまったのか静かに口を開いた。
「……ヒロシ、これから俺が言うことは誰にも話さず秘密にしておいてくれるかな」
「……分かった。いや、まだ聞いてないから良く分からない。でも秘密は守るよ」
「……」
「……」
ハカセの真っ直ぐな瞳に向き合って、僕は何としてもその秘密を守ろうと心に誓った。彼の瞳にはそう考えるに十分な真摯さがあった。
見つめる僕に彼は相好を崩し、まあどっちでもいいんだけどね。そもそも信じるか信じないかというのが先だから。と言って笑った。
「……あるところにね、出ていくのは自由なんだけど入るには許可が必要で、迎え入れてもらえない限り見つけることすらできない不思議な町があるんだよ」
「え? ナゾナゾ?」
「いやいや、親の仕事の都合で俺らが行っていたのがその町だったって話」
ようやく僕の知りたかったことに答えてくれようとしているみたいだが、全然話が見えない。
「つまり……許可がないと入れないっていうのはとても厳重な管理下に置かれてるってことだよね? でも見つけられないってどういうこと?」
「俺にも良く分からないけどそうなっているのは事実だ。南米の田舎にある小さな町なんだけど……で、そこには宇宙人がいるんだ」
「え? あははは……えっ?」この素っ頓狂な声は僕だ。
ハカセは両手の平を地面に向けて落ち着くようにジェスチャーした。いたずらっぽく笑い一呼吸置く。そしてまた続けた。
「世界に急激な変化をもたらさないように、徐々に交流を深めていく。そのために宇宙人が造った町なんだよ」
僕は少し呆けたように彼を見た。いや、結構な阿呆面もしくは猜疑心丸出しの小物面だったかもしれない。
何にせよ、宇宙人の町なんていう話は簡単には受け入れ難い。
「で、でも。出るのが自由なら、出て行った人みんながそのことを言いふらすんじゃないか。少なくとも僕はそんな噂話すら聞いたことがないよ」
そんな反論にハカセは答える。彼曰く。その話を聞いて野次馬が訪れる、でも誰も町を見つけられない。証明できない。そうか、なるほど。
「でさ、その宇宙人たちはサッカーが好きでね。彼らを交えてよく試合をやったりするんだけれど、人間対宇宙人だとどうしても勝てないんだ」
普段は人間と宇宙人の混合チームで遊んでいるらしいが、本気の試合ともなればスタメンは宇宙人中心で人間は数合わせの補欠要員らしい……。
「宇宙人はとてもいい奴らなんだけど、人間を対等に見ていないふしもあるし、現実に俺らはサッカーですら奴らに勝ったことがない」
「なんというかその、それはとてもくやしいね」僕も素直にそう思った。
人間が見る限り、身体能力に絶望的な差は見受けられないのだという。たしかに優秀ではあるが、絶対に勝てない理由にはならないという。
でも勝てない。それが知能的なものなのか、技術的なものなのか組織的なものなのか、はっきりとは分からないのだが、勝てないらしいのだ。
「だから勝ちたい。いや絶対に勝つ! 地球を代表して奴らには負けられない。そうだろ? でもこれ秘密な。約束だぜ?」
秘密にしておきたいのは宇宙人のことなのか、それとも人類の誇りをかけて彼らを打倒してやろうという決意なのか。
それを聞くのは無粋ってものなのだろう。
その答えは彼と一緒にサッカーをやりながら見つけていけばいい。
「とりあえずワンバウンドリフティングやろうぜ」
ハカセは明るく笑うと抱えていたボールを僕のほうへ軽く蹴った。地面に落ちて弾んだボールを僕も軽く蹴り返した。
これまでも時々ボールを蹴って遊んではいたけれど、練習めいたことをやるのは久しぶりだ。
小学生のチームだった頃、試合の合間に暇つぶしにやっていた遊びだよな、これ。
難易度でいうと、極めて低い。肩慣らしならぬ足慣らしだ。
ボールを蹴るうちに色々な思いがよぎる。あの頃と比べて、僕はどのあたりまで来たのだろう。どこまで行きたいのだろう。
「そういえばハカセ、その宇宙人ってどんな姿してるの?」
「大して変わらないよ」
「え、人間と同じ姿?」
「同じだな。強いて言えば、肌の色が青いところかな」
「……」それは大した差だと思うのだが僕が間違っているのだろうか。
「ところでヒロシ、お前は好きな子いる?」
ハカセがボールを蹴りながら聞いてきた。
だんだん勘を取り戻してきて、お互いにノーバウンドでボールを蹴り始めていた。
「いや、別に。まだ知らない子ばっかりで分かんないよ」
ボールを蹴り返す。
「そうか、こっちのクラスはいまいちかな」
彼は少し強く蹴り上げてボールが高く上がった。
「それは残念……いやいや失礼だろ。そんなこと言っては」
僕はそれをダイレクトに受けようとしたが、目測を誤ってしまい、地面に当たって勢いよく跳ねたボールが顔面にぶつかった。
「はは、だいぶなまってないかい?」
「うるせー。お前に当たるはずの罰が間違ってこっちに来たんだ」
ボールが当たった瞬間に走った閃光の余韻と、じわじわと広がってくる痺れるような痛み。何てことはないが少し恥ずかしくて俯く。
遠くで甲高くて無邪気な笑い声がした。三人の女子が僕のほうを指さして笑っている。
「女子がウケてるぞ。サッカーやってて良かったろ?」
僕は笑いながらハカセを軽く睨んだ。良かったと思う。陸上でもそうだったけど、何かをやれば誰かが見てくれる。
欲を言えばそれが罵声や嘲笑ではなくて、声援であればなおさら。
ゲームやら漫画やら音楽やら、どれも楽しいし、やりたいことは一杯あるけれど。僕が僕でいられるもの。僕が一番だと言えるもの。
今はこれかな。明日は違うかもしれない。でも明日も明後日も好きでいられるように頑張ろう。
通りすがりの三人の観客に軽く手を振って、僕はハカセに向かって思い切り高くボールを蹴り上げた。