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愚カナ獣ハ死ヌノミカ?

 

彼は一番最初に生まれた。大きく強く美しく、そして誰よりも…――

すぐそこに死はある。

死から始まる彼の旅。その序章――

 

  

  

―― ハラへったなァ…



 目の前がひどく霞む。胃が内側から削り取られているかの様に痛む。


 一度目はのたうち回って無様な姿を晒し、二度目が来ることに心底恐怖した。なんとかその場を凌いでも、波の様に押し寄せる。それから幾度か乗り越えた「飢え」。回数が増す毎に飢餓感は強まるが、いつしか常時彼に付きまとうそれ等に慣れすら感じていた。それでも、意識すらせぬ間にも減りゆく体力。だが、今回でそれも最後になりそうだと、彼は千々に乱れる思考の端で思った。


 乾いた荒野を掴む四肢は、骨と皮ばかりでみすぼらしい。まだ成獣にもなっていないのに肋骨が浮き出、毛並みはパサつき、まるで老い衰えたかの様に一歩進むのにも体力を使っていると分かる足取りだ。視線は下を向き、背を丸めながら歩いている。乾いた風が砂塵を巻き上げるなか、極限の飢えに晒され、彼は落ち窪んだ眼窩にギラギラとした濁りを宿した瞳で周囲を見回した。


―― ミズ…ミズのニオイだ…


 飢えにより過敏になっていた鼻が微かな匂いを感じ取る。気付いた瞬間に彼はよたよたと駆け出していた。


 そこにはこのサバンナに君臨する肉食獣種の威厳も何もない。死にかけた貧相な獣が一匹いるだけだ。



 「彼は一番最初に生まれた獣だった」

 「彼は大きかった」

 「彼は強かった」

 「彼は賢かった」

 「彼は美しかった」

 『そして、彼はとてもとてもやさしい獣だった』



 生まれた先が違えば、彼は誰もに望まれる人生を歩めただろうに。この世界で優しさなど致命的な弱点でしかなかった。彼は甘かった。間違えたのだ。

 弟妹に食料を譲るべきではなかった。父を倒して地位を奪い、父を殺すか放逐するべきだった。殺され、日々与えられる肉に何かを感じるべきではなかった。

 自分の身すらままならない者が他者を気遣うなど烏滸がましい。


 彼は、ただのこの世界での理屈を解せなかった愚かな獣でしかなかった。


 弱い獣の末路など決まっている。


 彼は無意識の内に悟り始めていた。





 大河へと辿り着く。周囲への警戒もせず、ひたすら目の前を流れる濁った茶色い水へと顔を近付け、舌を使って必死に水を飲んでいく。

 無我夢中で水を飲んでいくが、いくら飲んでも乾いた喉は潤わない。ガッフッとエヅいて先程飲んだ水を吐いたことで、彼は自分が飲みすぎていたことに気付いた。

 

 気付いた途端に、もう水など見たくもないという思いが湧く。飲んでいた間はただただ喉を通りゆく冷えた温度に歓喜し、腹が満たされてゆくという幸福感に包まれていたが、所詮まやかしであると気付いた途端に飢餓感が彼を襲う。

 水面に近づけていた顔を離し、体を起こした時にチャプンとなる腹の音が煩わしい。

 それでも幾分か冷静になった思考が、彼に周囲への観察を促した。彼はそれに従い、のろのろと周囲へ視線をやる。


 周囲には水を求めてやって来た数多の草食動物の群れの姿が見えた。

 彼を警戒しているのだろう。少し離れた所で、天を突く角をたずさえた滑らかな毛皮の草食動物の群れが、時折ピクピクと耳をこちらに向け彼の様子を伺いながら水を飲んでいる。      

 子供の姿は親に隠れていて見えない。

 それでも、この瞬間は彼にとって絶好のチャンスであるかもしれなかった。なぜなら残り僅かな体力を使わずして、これ程間近にまで獲物に接近出来ているのだから。およそ数秒でたどり着く距離。食い入る様に見ていると、大人達の隙間から子供の姿がチラと見えた。

 コクコクと水を飲む時に上下するやわらかな喉元。貧相な彼とは違う、瑞々しく張りのある肌。ちいさな体を支えるか細い四肢。そこに己の爪牙を突き立て、口内を、身体中を、あたたかな血潮で満たすことが出来たなら――…

 一瞬で涎が口端から溢れ出し、滴り落ちる。鳴る喉につられ、一歩、群れの方へと踏み出した。

 しかし、彼等は一度身動ぎするもその場を動きはしない。

 その様子を見て彼は現状を理解する。


―― 逃げる価値すらないのカァ…


 普通は群れでの狩りが当たり前である獣の種族。たった1頭の死に掛けの獣では、襲い掛かるのは無謀に近かった。


 最後の希望にすら思えていた機会も目の前をするりと通り過ぎるのみ。


 立ち上がることさえ億劫になった彼は、ただ何も考えずその群れを眺めた。


 すると突然事態が動く。


 先程まで流れていた停滞感を打ち破る、緊迫した空気。頭を高く上げ、しきりに耳を動かして周囲を警戒し始める群れ。


 彼もその様子を見て、やっと周囲を警戒し始める。


 それは終わってみれば一瞬の出来事であった。


 突如、群れが彼に向かってやって来る。先頭に出ることとなった先程まで睨み合っていた数頭が、彼を避けるために急な方向転換をした。それに巻き込まれ、後続の動きに支障が出る。


 轟音、土煙。獲物が大挙して押し寄せるという経験したことのない事態。動けずにいた彼の周りだけを避け、濁流のように群れが通り過ぎゆく。風が過ぎ去り、土煙が晴れる。


 呆気に取られつつも、最高のチャンスを不意にしたことだけは理解してしまった。


 呆然と群れが過ぎ去った方向を眺めていると、後ろでジャリッという微かな音が耳に入る。


 振り向くと、あの時眺めていた一際美しい毛並みの子供が、身体から血を流して蹲っていた。


 漂う芳醇な香り。目の前には彼でさえやすやすと刈り取れる哀れな獲物が一匹。


―― アァ…ウマそうだなァ…


 急かす腹、白熱する思考。最高の機会。視線は獲物から離れない。荒い呼吸の彼とは違う、ひどく落ち着いた視線が何故か目に入った。透明な目。


 瞬間、周囲を取り囲まれる。


 咄嗟に獲物を渡すまいと、子供の傍に近寄った。


「おい、それも私等の獲物だよッ! さっさと寄越しなッッ!!」

「こんな所で死にたくはないだろう?」

「横取りとは、雄の癖に堕ちたものだねぇ」


 同種の雌グループが、周囲をぐるぐると周りながら絶えず吠え威嚇する。彼の思考を苛立ち、恐怖、飢餓感…様々なものが邪魔してくる。だが、それでも彼は冷静な思考を心掛けた。戦ったところで、死期が早まるだけだ。


「指揮者を出せ。リーダーだ、分かるだろう?」

「なんでアンタ如きにッ!! いいからさっさと寄越せ!!」


 だが、幾ら呼び掛けても吠えてくる雌等に向けて苛立ちが募る。

 そこでふと思考が辿り着いた。



 何故彼女等は襲い掛かって来ないのか。

 なぜ彼女等は呼び掛けるだけなのか。



 ―――― 簡単だ



 雄が怖いのだ。



 グルるゴガアアアアアアぁァァァッッッッッ!!!!!!!!!!



 気付けば取り囲む雌等に吠えていた。瞬間、目の前の雌は飛びのき、他は尻尾を股の間に入れるか、歯を剥き今にも飛び掛かろうとしている。トサリという音が後ろでし、微かな臭気が鼻を付いた。


 殺伐とし始めた空気の中、1頭の流麗な雌が飛び退いた雌の後ろから悠然と歩いて来る。群れの指揮者の登場だろう、と血走った目をそちらに向けると見覚えのある顔がやって来たことに気付いた。

 途端に、興奮して何も考えなくなり始めていた思考が、驚きや羞恥心によりサッと冷静になる。


「…随分な御挨拶ね」

「…」

「生きているとは思わなかったわ」

「…群れを抜けていたんだな」

「ええ。そして、この群れの指揮者に成り上がった。そういうあなたは…」


 話を続けようとすると途端に周囲の雌等が騒めき始め、「早く食い殺そう」と彼女に提案し始める。すると、彼女は雌等に向けて殺意の篭った咆哮を浴びせた。


「黙りなさいッッ!! それでも精鋭なのッ?」


「…なぁ、こいつを貰ってもいいか」

「あなたも調子に乗らないで。それは私達の獲物よ」

「…俺もある意味狩りに参加した…そうだよなぁ?」

「…。そんな形でも知恵は回るようね。けど、私達と戦って生き残れるとでも?」

「おいおい、あんなに大量に獲れているんだ。そっちこそ、無駄に怪我をしたくないだろう? なんてったって文字通り”死に物狂い”の獣だ」

「……。いいわよ」


 チラリと、彼女の後ろで横たわる大量の生き物だったモノたちの屍を見つつの提案は、なんとか受け入れられたようだ。未だ周囲で地面を引っ掻き回し、歯を噛み鳴らす雌等。言葉を操れる程の精鋭がこれ程の数居たのだ。あの屍達を運ぶ者達がたとえ一般の獣でも、逃げ出すことさえ不可能だっただろう。

 顔見知りでなければ。獲物が肉の少ない子供でなければ。提案の意味を理解せず、また犠牲を厭わない相手であれば。彼女が群れを上手く収めていなければ。彼女の中の天秤でさえぎりぎりであった。一つ間違えれば即座に「死」という綱渡りを、無事に渡り終えたという達成感に安堵していると、俯けていた彼女が顔を上げる。嫌に無表情であることが気になった。


「ただし…」


 カチリと一つ歯を鳴らす。風が不意に止む。彼女から押し寄せる圧迫感に、雌等も自分も、無意識に筋肉を強ばらせた。ただ彼女の口が開いていくのを見る。視線は俺から外れない。


 一瞬出来た無音の時間。言葉は声を張り上げていないのに静かに響いた。


 彼に衝撃を伴って


「その獲物を今ここで喰い殺しなさい。条件はそれだけよ。簡単でしょう?」


「……」

「まさか、出来ないとでも?」

「いや、食事時をジロジロ見られる趣味がないだけだ」

「時間の無駄よ。早くなさい」


 急かす彼女から体ごと反転して視線を逸らす。視界に映るのは気絶した子供が1頭のみ。


―― 簡単なことだ。あの時想像し、叶わなかったことが現実となる。牙を喰い込ませ、暴れる子供を押さえつけながら、噛み締めるように咀嚼する。


 胃液が出ているのか、ひどく胃が痛む。血や臭気を意識すると、鼻に付いて離れない。


 呼吸が荒ぶる。過ぎるのは何の目か?


 瞬間駆け出す。グルるウオアアアアッッッッ!!!!


 哀れな生贄に飛び掛り、吼えて、噛み千切る。口内に溢れ出す熱い血潮。


 それを確かめる間も無く、向き直り彼女達に向かって吼え猛る。


「疾く去れッッッ!!!」


 ピピッと顔に飛び散った血を舐め、彼女は目を細めた。口元が微かに動く。


「無様ね」


 一言だけ聞こえる様に言うと、背を向け、群れを引き連れながら悠々と去って行った。


 後ろ姿が見えなくなるまで見送った後、立っていられずその場にへたり込む。


 後ろでビクリと子供の体が跳ねた。


「…起きたか。そう怯えるな、獲って喰うつもりもない。あぁ、言葉は分からぬか。感謝する必要もない。どうせ殺しても吐いて無駄にするだけだからな」

「…」

「無様か…確かにその通りだな。ハハッ、喋りづらい。お前の美しい毛皮を汚してしまったことは詫びよう。そのままだと群れに戻れまい。川にでも入ったらどうだ。送れそうにないが、それぐらいの間はもつだろう」




 酷く静かな心地であった。相変わらず腹は減っているが、それでも何故か笑える程に気分がよい。噛み千切った舌の痛みも気にならない。死に掛けの最後の灯火だろうか。

 機嫌良くゴロゴロと喉を鳴らしては血を吐き出していると、子供と目が合う。既に何処かへ行ったものと思っていたので、少し驚いた。


「どうした? 川に入る気になったのか?」


 鼻先を川と子供とで行ったり来たりさせていると、子供は川へと向かい始めた。

 言葉が通じている訳ではないだろうが、大した子供だと感心しつつ、最期の仕事だと力を振り絞って立ち上がる。

 川の岸部に横たわり、子供が水の中へ入るのをぼんやりと眺めていた。浅い所でピョンピョンと元気に跳ねている。

 しばらくして身体を沈めたいとでも思ったのか、少し奥へと行く。


「あまり、遠くへは行くなよ」


 言葉を放つや否や、子供の姿が急に消えた。次いで出て来た時には、悲痛な鳴き声を上げ、溺れまいと必死に藻掻いている。


 咄嗟に川へと飛び込んだ。


「何をしているッッ!!」


 飛び込んだ勢いのまま、一気に子供の元へと近寄ろうとする。しかし、それは子供により遮られた。キュウウウゥッッ!!と鳴き、藻掻きつつも首を振っている様に見える。

 訳が分からず立ち止まると、子供のすぐ傍から水飛沫が上がった。


―― 大顎鰐《グランテ・シン=ダイル》だとッッ!!??


 見えた姿に驚く。大河に住む捕食者。歴戦の傷が刻まれた濃茶の鱗。


 だが、立ち止まったのは一瞬


「ハァナァセェェェェッッッッ!!!!!!!!!!!!」


 現れた姿に飛び掛かる。気付いた敵は、それでも牙を子供から離さない。むしろ沈めにかかっている。血が川を赤く染め始めた。

 ならばと顔を川に突き入れ、子供の足に噛み付いているその目元目掛けて我武者羅に牙を突き立てる。


 鱗に弾かれたが、流石に牙を離したその隙に子供を陸の方へと押しやった。


「行ケ!! 振り返るなッッ!!」


「そうわァいかねェなァァーー」

「お前、言葉!!」


 右前足に牙が喰い込んだ。 灼熱が駆け抜ける。グルガァぁッッ!!と当たりを付けて噛み付くも、既に姿はない。

 視線を彷徨わし、子供の方へ向かう姿を見つける。子供はまだ浅瀬から岸部へと上がるところだ。


 後ろから駆け出し、子供を引き摺り落とそうとしているその尾先を噛み、無理やり川へと引き戻す。叩きつける様に暴れる尾。これだけは離すまいと、何も考えずに顎へと力を込めて踏ん張る。


 ゴリッという音がした。


 尾を振り回して暴れ、岸に上がった子供を睨む敵。何故か子供は少し離れたところで立ち止まり、荒い息を吐きつつ彼を見てから姿を消した。


 しばらく浅瀬でザパザパと水を撥ねさせて荒ぶっていた敵が、ゆっくりと振り向く。


「ナァー、ナンで逃ガしたンだァーー?? お前の獲物ダろゥーー?」

「横取りされるのは、ゲホッ…、性に合わんからな」

「フーーん? まアー、食いでがナイしィマズイけどォー、尾先分は苦シメテやルヨォーー」

「大人しく喰われるとでも?」


 強がりを言ったが、実際は立っているのもやっとであった。緩やかな流れにさえ、踏ん張らなければ押し流される。このまま流れに任せて逃げるという手も考えたが、川の中で逃げられる自信はなかった。それに、この場を凌いだとてどうする。死体喰らいのハイエナや禿鷲供に食べられるかどうかの違いしかない。


 瞳が濁る。力が抜ける。口の中も、右前足も、胃の中も、ぶつけられた全身がいたい。いたい。いたい。おなかが空いて堪らない。


 勝機を確信しているのだろう、最早面倒そうに敵が近付いて来る。



―― おれはしぬのか?       

―― ハラヘッタ


 大顎が開けられ、最早身動きすら出来ない身体に牙が突き刺さる。


―― こんなところでしぬのか?   

―― ニクガクイタイ


 思わずよろめき倒れる彼に、敵が上から乗し掛かり、さらに深く牙を突き立てる。


―― オレハコンナエモノ二クワレルノカ? 

―― エモノハドッチダ?


 


 ルゥゥゥオオオオオオオオオオオオオオオッッッッッッ!!!!!!!!!!!!!!


 


「なッ二ィッッ!!??」


 瞳に力が篭る。腹の底から力が湧く。獲物ならいるじゃないか。肉が食えない訳じゃない。獲物が食えない訳じゃない。ただ、弱者を食えなかっただけだ。なら話は簡単だった…なあ、そうだろう?


 態勢が悪かったが、虚をつき、なんとか牙から抜け出す。水辺は不利だ。瞬時に判断し、鰐の頭を踏んで陸地へと跳ぶ。


 どこにそんな力があったのか。かつてない程クリアな思考で、ひたすら陸地に上がってきた敵を観察した。


「オマエなンだァーー?? ニゲルのかァァ」

「いや、喰う。獲物は、オマエだ」

「ハァーー?? ナラ掛かっテこいヨォ!!」

「ふん。水がないとただのデカイトカゲだもんなぁ?」

「アあ!? 死に損ないがぁ!!!」


 格下と思っていた奴に挑発され、見事に水辺から離れてくれた。といっても策があるという訳ではなく、ただ水辺よりはマシというだけだ。向こうもそれが分かっているからだろう。言動はあれだが、あの若さで言葉を解し、鱗に付いた傷が強さを物語る。



―― ああ、今の俺よりも圧倒的な強者だ…



 口角が上がる。開始の咆哮を上げ、向かって来る敵を迎え撃つ。まずは突進を避け、脇腹を攻撃しようと身構えた瞬間、直前で敵が立ち止まり、反転して尾を振り回した。

 無防備に横腹に喰らい、思わず苦痛の声が漏れる。吹き飛ばされて地面を転がれば、視界の中に、此方に来る敵の姿が映った。

 引き絞られた意識が解を出す。

 大口を開けたそこへ、立ち上がって飛び込み、喉の奥まで右前足を突き入れた。反射的に閉じられる口。途端に何十もの針を突き刺す痛みが腕を通して伝わる。痛みを噛み殺し、さらに奥へ奥へ。


 すると、敵が首を大きく横へ振り回し、身体ごと回転し始めた。


―― 耐えると腕を持っていかれるッッ!!


 一緒に身体を回転させる。千切られるくらいならッッ――――転がりつつも敵が息を乱し始めた瞬間にさらに奥へと突き入れ、顔面へと噛み付く。


「シィネェヨォォォーーーーーーーーー!!!!!!!!!!!!」


 くぐもりつつも聞こえる声を無視し、ただひたすらに奥へ奥へ――腕を、牙を、差し込んでいく。


 霞む意識。点滅する視界。痛みは臨界を超えてゆく。喰うクウ喰らうクウ喰う…………口内に溢れゆく血肉がウマイ。甘美な味。もっともっともっと寄越せェェゃぁぁぁあああああああ


 「ひッやッ、もうヨセッッ!!」


 ぞプリという音がし、牙が硬い骨を噛み砕いてその中身へと突き立った。弾かれたように目玉が飛び出る。


 だが、そのことすら気にならずにひたすら喰らい喰らい喰らい、奥へと腕を突き立てた。


―― あぁ、美味い、美味いなぁ…


 血の一滴、鱗の一欠、骨の一片すら自身の舌から身体中を巡る甘美な刺激となる。


 転がっていた目玉を拾い、口に含んでぷつりと潰した。


―― ああ、…うまいなぁ





 そして甘美な肉を骨ごと噛み砕き、全て腹へと収めた瞬間、まるで糸が切れたかのように自身の身体を支えられなくなり、その場に倒れた。



 満たされた幸福感。やりきった達成感。これで終わりかという呆気なさを感じた諦め。


 もう指一本動かせず、ぼんやりと横たわりながら空を眺める。


 燃え尽きた心地だ。真っ白な思考に、ふと子供の姿が過ぎった。無事に生き残れるだろうか。彼女達に見つからないといいが。

 そこまで考え、彼女の言葉を思い出して深く同意する。強者しか喰えないとは、なんとも難儀なものだ。




 彼のやさしさが甘さに変わった瞬間。彼のやさしさが傲慢に変わった瞬間。


 そして、彼の糧を得る道が見つかった瞬間だった。


 彼は悟った。自分は根っこが変われないことを。

 彼は悟った。かつてのやさしいだけだった獣が死んだことを。




 それでも、もう遅かった。




 彼は静かに目を閉じた。後は灯火の終焉を待つのみ…


 その時、突然空から声が降り注いだ。男でも女でも子供でも大人でもどれでもあってどれでもない、まるで機械のようでいながら透明な声



 【***より 称号:愚者の邁進 が与えられました】


 【自動的に体力を回復させます】



 何がなんだか分からず目を白黒させていると、いつの間にか右前足の傷が治り始めていくことに気付く。


 「なっ、なにが?」


 舌の痛みも、噛み砕く時に傷つけた口内の傷もない。思わず起き上がり、全身を確認した。一番重症であった右前足と、無防備に噛み付かれた胸の傷以外は綺麗に治っている。ただ残っていると言っても、千切れそうであったものが裂傷のみとなっているのだ。

 理解が及ばず思わずその場でくるくると歩き回っていると、途端にお腹が空いてきた。


―― まさか、先程まで腹一杯であったのに…


 思わず自身の腹の辺りを眺めていると、キュウゥという何処か聞き覚えのある鳴き声が耳に入る


 その方向を見ると、枯れた一本の木の下にあの子供の姿が。


 思わずお腹が鳴ってしまうが、なんとか咳払いで誤魔化して子供の元へと四肢を動かした。


 












 そう、これが、愚かな獣の旅の始まりであった



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