前編
若し、毒林檎の生る樹の枝に蝙蝠が一匹、下って居たのならば、其れは私です。水中に一滴、墨が落ち、淡く滲み広がるが如く、貴方の心を不安が苛むのであれば、其の影は私です。然し私は、もう、私ではありません。
森の入口に古惚けた道標が在る。木板に墨で『ユウトピア』と書かれていた。其れを眺め乍ら私は、口紅を塗り直し、スカアトを翻して暗部へと進んだ。一歩一歩、ピンヒイルが泥に呑込まれた。歪な樹肌の頭上では、一本足の烏が、ガアガアと濁った声で鳴いている。
獣道が途切れた頃、結っていたゴムが茨で切られ、生れてから十二年間伸ばした髪が、乱れた。私は、茂みで戯れていた、未だ幼い狐に道を尋ねた、
「私、夜明け迄しか時間が無いの」
「良いなぁ。僕も行きたいけど、御母さんが駄目って云うんだ」
「貴方には、未だ早いもの」
「だよなぁ。……南西に向うと着くよ」
「幼いのに、しっかりしているのね」私は、狐の頭を撫でて、御礼にキャンディをポケットから出して手渡し、感謝を伝えた。
私は、川に架かる橋を渡った。詰り、北東に向えば良い。甘いキャンディを、酷く喜んだ狐は幼いが故に、嘘が未だ下手であった。また会いましょうね。
執拗に蔦が、私の足に絡み附いたので、下ばかり見て歩いていた。ふと顔を上げると、真紅の薔薇が綺麗に咲いている。然し、近附いてよく見たら、首を捩じ切られた裸の人間であった。切口から、火山の火口の様に、湯気が上っている。時間は、そう経っていないわ。恐らく、蛇が眼球を、熊が其の他全部を、食べたのでしょう。残った身体はフラフラと彷徨って、蜘蛛の糸に捕えられた。蜘蛛は大喜びで、人間を糸でグルグルと巻き、ミイラみたいな見た目にし、
「此れで百年は、食べ物に困らないゾ」と言った。
私は人差指を頬に当て訊いた、
「でも、腐らないかしら?」
「大丈夫だよ、オイラの吐く糸は凄いのサ。でも、もう糸を吐く必要も、無くなったネ」と言って、鼻の下を摩った。
「良かったわ、御目出度う」
「そうだ、最後に君にオイラの糸を、プレゼントしてあげるヨ。屹度、此の先、役に立つ筈サ」
蜘蛛は鞠、位の大きさの、糸を出して私にくれた。
「どうも有難う」
嬉しくて私は、スキップをして駆けた。
寒くも無いのに作り物みたいな銀色の雪が降出し、暫く蔦かと思っていた物は、白蛇様であった。
「御免なさい。若しかしたら何度か、踏んでしまっていたかもしれないわ」
「氣にするな。然し小娘よ、何処へ向っている?」
私の小さな胸が、少し冷えた。其れは矢張、あの場所へ行く事への、後ろめたさから来ているに違いなかった。
「白蛇様、何故そんな事を、訊くのですか?」私の声は震え、まるで駄目だった。
「何処へ行くのかは、私には隠せない。何処へ行くのか、私は知っている。説教をしたい訳では無い。危険を承知で行くのか? 覚悟が有るのかを、訊いているのだ」
私は、失礼を承知で走去ろうとした。途端、私は井戸に吸込まれた。雪で全てが白くなっていたので、私は氣附か無いでいたのだ。私は落ち乍ら、自業自得だと自分に言聞かせ、諦めようと必死であった。「御免ね、ママ」そう囁いた私は、小脇に抱えた蜘蛛の糸を思い出した。「そうだ私、諦めたらいけない。……覚悟は、有るわ!」私は糸を手に絡め、鞠の様な糸を地上に向け全力で投げた。時間が止った様に、堕ちる身体は止り、フワリと浮上って行った。
地上に戻ると、雪なんて降っていなかった。其れは厳しくも優しい、有難い忠告であった。落ち乍ら投げた糸が地上迄、届く筈も無く、糸だと思っていたのは、白蛇様だったのかもしれない。
歩き乍ら、私は少し、あの日を思い出していた。




