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忘れたふりの隣で ~マリーがいた季節~   作者: サファイロス


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7/12

第7話 記憶の温度

 夜の部屋には、静かな紅茶の香りが満ちていた。

 マリーはテーブルの上にペンダントを置き、

 その青い石をじっと見つめていた。

 窓の外では春の雨がやんで、

 街灯が濡れた路面に金色の帯を落としている。


 俺はカップを手にしたまま、言葉を探していた。

 マリーが何も言わない夜は、いつもより長く感じる。

 時間が止まっているようで、どこか怖かった。


「……マリー?」

「優」

 ゆっくりと顔を上げたマリーの瞳が、

 どこか“終わり”を見つめているように見えた。


「わたし、全部――思い出しました」

 その声は穏やかで、どこか祈りのようだった。


 心臓が一度だけ、痛いほど鳴る。

 “全部、思い出した”?

 あまりに突然で、言葉が追いつかない。


「……ほんとに?」

「ええ。Je me souviens de tout.」

 マリーは微笑んだ。

 その笑顔が、泣き出す寸前のように見えたのは気のせいだろうか。


「あなたと初めて会った空港のことも。

 モノレールの窓越しに見た春の光も。

 観覧車も……

 そして――この家で、笑いあった時間も」


 マリーはカップを両手で包みながら、

 そのまま言葉を続けた。



 沈黙が、部屋を包んだ。

 テーブルの上で、マリーの手がそっとペンダントに伸びる。

 青い石が、夜の光を受けて淡く瞬いた。

 彼女の指先が震え、光が胸元を照らす。

 まるで、長いあいだ封じていた記憶が、

 静かに呼吸を始めたようだった。



「記憶を失ったふりをしていたことも、

 本当はもう、隠せません」


 俺の手が止まった。

 耳の奥で、血の音が鳴る。


「……“ふり”って、どういうこと?」

「ごめんなさい。あなたのためだったの。

 あなたの記憶が戻るように――“きっかけ”を作りたかった」


 マリーは静かに視線を落とす。

 長い沈黙。

 時計の針が、遠くで小さく音を刻む。


「……俺の記憶?」

「ええ。あなたが“忘れていた”のは、私のことじゃない。

 ――事故の夜、自分が“どんな約束をしたか”なんです。」


 その言葉の意味を、すぐには理解できなかった。

 頭の奥で、何かが割れるような音がした。

 遠くの映像がフラッシュのように走る。

 ――倒れた自分。泣きながら名前を呼ぶ声。

 その声は、マリーだった。


「……やめて。無理に思い出さないで」

 マリーの声が震える。

 目の前の彼女が涙をこぼしそうに見える。

「あなたは、もう十分頑張ったの。だから、これ以上は……」


「……全部、知ってたの?」

「うん」

「俺のことも、事故のことも……?」

「ええ。全部」


 マリーは微笑んだ。

 その微笑みは、あまりにも優しくて、残酷だった。


「でもね、優。

 記憶って、“戻ること”が目的じゃないの。

 “誰と今を生きているか”を確かめるためにあるの」


 その言葉に、胸の奥が熱くなった。

 目を伏せると、涙が落ちる音がした。

 マリーの手が、そっと俺の頬に触れる。

 指先が温かくて、でもどこか遠くの温度のようだった。


「あなたは優しい人。

 だから、真実を知ったらきっと壊れてしまう。

 それが怖くて……わたし、嘘をついた」


「マリー……」

 言葉が詰まる。

 息を吸い込むたび、胸が締めつけられる。


「ありがとう。――本当に、ありがとう」

 マリーは笑った。

 涙を堪えながら、微笑む顔が美しかった。


「どうして、そんな顔をするんだよ」

「これが最後だから」

「最後……?」

「明日の朝、出発します」


 アールグレイの香りがふわりと漂った。

 その香りが、あの日と同じ――出会ったときの、あの春の香りだった。


「あなたの記憶が戻るその日まで、わたしは――」

 マリーは一瞬、目を閉じ、静かに囁いた。

「――Je t’attendrai. (わたしは待っています)」


 紅茶の表面に、マリーの涙が一滴落ちた。

 波紋が広がり、やがて静かに消えていった。


 その夜、眠れなかった。

 机の上には、マリーのペンダントが光を宿していた。

 青い石の中に映る小さな灯りは、

 まるで記憶の奥に残った“彼女のぬくもり”のように、

 静かに揺れていた。



 夢の中で、雨の匂いがした。

 倒れた自分の手を握りしめ、泣きながら名を呼ぶ彼女の声。

 “お願い、優……目を開けて……”

 その声に応えるように、心の奥で何かが光を放った。

 目を覚ましたとき、

 アールグレイの香りが部屋いっぱいに満ちていた。

 ――それが、俺とマリーを繋ぐ最後の記憶だった。


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