表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
忘れたふりの隣で ~マリーがいた季節~   作者: サファイロス


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

10/12

おまけ ビターエンド

――あの日から、三年が過ぎていた

 春のパリは、いつも少し曖昧だ。

 雲の合間に差す陽射しが、街を金色に染める。

 カフェのテラスには新しい季節の空気が満ちていて、

 その香りは、少しだけアールグレイに似ていた。


 私は今日も、いつものように店で紅茶を淹れていた。

 観光客の笑い声。

 グラスの音。

 そして、湯気の向こうに漂う記憶のかけら。


 “優”。


 その名前を、口の中で静かに転がす。

 時間が経っても、言葉の響きだけで胸が少し熱くなる。


 午後、カウンターに立っていると、

 ドアのベルが小さく鳴った。


 振り返ると、そこにいたのは――彼だった。


 白いシャツに、少し無精ひげ。

 見慣れた目の奥に、もう“迷い”はなかった。


 まるで、長い旅の終着点に辿りついた人のような顔。


「……ご注文は?」

 それしか言えなかった。

 けれど、彼は少し笑って答えた。


「アールグレイを、一杯。」


 心臓が痛いほどに跳ねた。

 それでも、笑えた。

 ――あの人は、変わらない。


 紅茶を淹れながら、私は聞いた。

「どうして、フランスに?」


 彼は少しだけ視線を落とし、

 静かに、でも確かな声で言った。


「姉が昔、留学してた場所なんだ。

 僕も、ここで少し絵を描いてみたくて。

 ――彼女の、見ていた風景を知りたくなった。」


 その言葉に、私は息をのんだ。

 “姉”――でも、本当は分かっていた。

 それが、彼自身の“けじめ”であることを。


 彼は“私”を探しに来たのではない。

 自分の人生を取り戻すために来たのだ。


 だから、私はもう何も言わなかった。

 ただ、静かに紅茶を差し出す。


「……いい香りだね」

「ええ。少し濃いかもしれませんけど」

「いや、これがいい。……前より、ずっと温かい気がする」


 その言葉を聞いた瞬間、

 胸の奥がじんと熱くなった。


 前より温かい――

 それは、たぶんお互いが、もう“過去に縋っていない”から。


 目を合わせる。

 そこには、あの頃とは違う二人がいた。

 過去を抱いたまま、それでも未来を向く二人。


 外の通りでは、マロニエの花びらが舞っていた。

 春風がカフェのドアを揺らし、

 アールグレイの香りが外へ流れていく。


「マリー」

「はい」

「君の国の春は、優しいね」

「ええ。……冬を越えた分だけ、やさしくなるんです」


 言葉が、風に溶けていく。

 もう、沈黙が怖くなかった。


 別れ際、彼がカップを置き、

 わずかに笑った。


「……ありがとう。

 この香り、たぶん一生忘れない。」


 それだけ言って、店を出ていった。

 ドアが閉まる音。

 静寂の中に、残る香り。


 ――彼はもう、“思い出の中”の人じゃなかった。

 今を生きている人だった。


 あとで、常連の学生から聞いた。

 彼はパリの美術学校で短期研修をしていて、

 姉の作品をもとにした個展を準備しているらしい。

 テーマは――「記憶の温度」。


 そのタイトルを聞いて、涙が出そうになった。

 きっと、彼はあの春の記憶を、

 “悲しみ”ではなく“作品”に変えようとしているのだ。


 夜。

 閉店後の店に残った香りの中で、

 私は青いペンダントを取り出した。


 窓の外では、セーヌの水面がきらめいている。

 その光の向こうに、彼のアトリエがあるのだろう。


Je t’attendrai… encore une fois.

――もう一度だけ、待っています。


 でも、今度の“待つ”は、

 彼の幸せを信じる“待つ”だ。


 過去に縋るためじゃない。

 未来の彼を、静かに見守るため。


 アールグレイの香りが、夜風に溶けていく。

 私はその香りを胸に吸い込み、

 静かに、目を閉じた。


 春のパリの空は、優しい灰色。

 もう、泣くことはなかった。

 ただ、心の中で――

 あの人の笑顔を、やさしく思い出した。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ