蛍
帝都、東京の本郷に黒猫屋という宿屋がある。カストリ雑誌所属の三文小説家から、今や稀代の若手作家ともてはやされるようになった濱崎達雄も、ここを締め切り前の定宿にしている。もっとも、編集部によって軟禁されているというのが正解ではあるが。
涼やかな風が吹く宵闇の中、濱崎は中庭に出た。大学時代に呑み始めた煙草が、三十路を迎える今も一番の娯楽となっている。どこかの部屋のラジオから、「大正14年、7月3日のニュースをお知らせします」という声が漏れ聞こえる中、煙草に火を点ける。
ふうと煙を吐くと、音を立てて、中庭に面した一部屋の障子が開いた。障子の向こうから、憂いある美女が顔を出して来た。晶子という祇園の芸妓である。芥川賞作家、川俣歳之の長年の愛人として、文壇で知らぬ者はない。
「蛍かおもたら、濱崎先生やったん」
花札柄の浴衣をゆるりと着こなしている晶子を見て、濱崎は思わず息を呑んだ。
(美しい)
大作家の愛人を奪い取る勇気はない。しかし美しいものは美しい。ただ想うくらいなら赦されるだろうと、そう思いながらいつも晶子を見ている。
年の程は濱崎よりほんの1つ上に過ぎないが、玄人の女特有の落ち着きが、晶子をより大人の女に見せている。
「晶子さん、いらしてたんですね」
「川俣先生に呼ばれてな。しばらくぼんやりしてたら、蛍火が見えたもんやから」
濱崎が煙を吐き出す。
「そんな短命に終わるつもりはありませんよ」
「せやな、天下の濱崎先生を、そない儚いもんに喩えたらあかんな」
晶子の褒め言葉がむず痒く、苦笑した。晶子は、濱崎が手挟んだ煙草を見て、
「なあ、うちにも、一本頂戴」
と、微笑んだ。
濱崎の答えを待たずに中庭に降りる晶子の下駄の音がカラコロと近付く。煙草を口にした晶子にマッチの火を近づけようとすると、晶子の顔が濱崎の手元に近付いた。思わず鼓動が高鳴る。
煙草の煙をくゆらせながら、晶子が濱崎に問いかける。
「濱崎先生も、缶詰中?」
「まあ、そんなところです」
「濱崎先生の小説、あと3回で終わりって書いてあったけど、なんや全然終わる気配が見えへんね」
「嫌いなんですよ、終わりが来るのが」
「若いんやなあ」
濱崎を子供扱いするような口ぶりに、一つしか違わないくせに、と、苛立ちを覚える。それなのに思わず、慣れた風に煙を吐く晶子の横顔に見惚れてしまう。
「……濱崎先生は、奥様いはるん?」
「家庭があったら、文学なんぞにかまけてはいられませんよ。川俣先生くらいになれば別ですが。……と、失礼」
晶子が深く長い、溜息に似た煙を吐く。
「お子さんが産まれるんやて、川俣先生」
濱崎は驚いた。もう長いこと、川俣歳之は、愛人の晶子と暮らしているということは文壇の常識だったからだ。濱崎の知る編集者も、晶子の家に川俣の原稿を取りに行っていた。それでも、独身の濱崎にはよくわからない、川俣夫婦なりの絆があると言うことなのだろうか。
「予定日は二週間後。あと二週間で、うちと川俣先生は終いや。……短い命。まるで、蛍みたいやろ」
涙を堪えて笑う晶子が震えるほど綺麗で、思わず、目を逸らす。腕を掴んで引き寄せたい気持ちを言葉に変えて、晶子を包み込もうと思った。
「知ってますか。成長した蛍は命ある二週間、水しか口にしないんです。あらゆる喜びを捨ててただ、全生命を賭けた恋をするんです。あんなに純粋な恋を、僕は他に知らない」
晶子の瞳から一筋の涙がこぼれ落ちるのが見えた。晶子はそれを隠すように両手で顔を覆い、背を向け、涙混じりに呟いた。
「うち、濱崎先生のこと好きになったら良かったなあ」
晶子が言い終わった拍子に、室内から晶子を呼ぶ川俣の声が響いて来た。
「晶子?晶子?」
「川俣先生や!ほな」
晶子は慌てて煙草を踏み消し、濱崎には見せない笑顔で室内に走り去って行く。濱崎はただ、その後ろ姿を見つめていた。
壁にもたれて煙草を吸う濱崎の表情はどこか幸せそうでもある。その足元で、晶子が捨てた煙草の火が消え切らずに灯っていた。




