第二話 「神おろしの少女」
相手の動きに感じるものがあり、センはハチに言う。
「いったん退くぞ」
センは後ろへ飛び退き、異形の精霊と距離を大きく開ける。
「どないしたんや」
「見てみろ。あのバケモノ、見た目ほど狂暴じゃないかもしれない」
センに言われ、ハチは異形の精霊を見る。異形の精霊も彼らのほうを見ていた。
そう。見ているだけで、追撃する様子はなかった。
「ほんまや。ウチらを殺すんやのうて、先に進ませへんようにしとるだけなんかな」
「たぶんな。だが俺たちは先へ行かなくちゃならない。結局、あいつを倒すしかないんだ。ハチ、結界を構築してくれ。一気に決着をつける」
センはハチを降ろし、懐から霊符を取り出す。すると、異形の精霊の腹に亀裂が入り、大きな口が現れ、声を発するように開いた。ハチはとっさに耳をふさぐ。
しかし何も聞こえない。
「なんや、何がしたいんや」
不思議がるハチのすぐそばで、センはうめき声をもらしながら地面に膝をついた。
「セン! どないしたんや」
「うかつだった。こいつを出したのが、まずかったか……」
センは霊符を握りしめる。異形の精霊は腹の口を開けたまま、センとハチのもとへ迫ってきた。退ける対象ではなく、排除すべき脅威と認識したのかもしれない。
センは「ハチ」と絞り出すように声を出し、目線を送る。
「やるしか、ないみたいやな」
ハチはセンの手を握り、目を閉じる。センは立ち上がり、異形の精霊を見すえ、呼吸を整えるように息を吐いた。
「いくぞ」
そう言った時、彼の言葉をかき消すような勢いで風が吹き抜けた。
風は空の果てを目指すように舞い上がり、思わずセンは空を見上げた。
空には、太陽が二つ見えた。
バカな、とセンは目を疑う。
太陽は一つだけだ。二つあるわけがない。本物は一つだけだ。
しかし、二つの太陽のうちどれが本物なのか、センには判断できなかった。
間もなく、空に見える光の一方が爆発したように強烈な閃光を放った。視界は一瞬で光におおわれ、センはとっさに目を閉じる。しかし意味はなかった。よほど強烈な光らしく、まぶたの裏にはひとかけらの闇もなかった。
「もう大丈夫です」
光の中で、センは声を聞いた。それは少女の声だった。
その声は、歌の一節を歌うように言葉を紡ぐ。
人が願うは花の命
花が願うは世界の瞳
血も肉も魂も
歌え踊れ花の散るまで
神言だ、とセンが気づいた時、彼は強大な霊力の存在を感じた。
何が起こっているかを確かめようと、センは目を開く。不思議なことに、光を直視しても痛みは感じなかった。彼が目にしたものは、天高く突き上がる光の柱だった。柱の中にいる異形の精霊は、光にかき消されるように姿形を失っていく。
光の柱の正面には、祭器らしき槍をかかげている人物がいた。
やがて異形の精霊は完全に姿を消し、光の柱も消えた。
「ご安心ください。精霊は無事に浄化されました。お怪我は……なさそうですね。よかった」
かかげていた祭器の槍をおろし、安堵の笑みを浮かべるその人の姿を見て、センの混乱はさらに大きくなった。
そこにいたのは、センよりいくらか年上に見える女性だった。
彼女が見せた笑顔には、不思議と幼子のそれに近い愛らしさがうかがえる。
いや、それよりもだ。彼女の姿は異様の一言に尽きた。
まず目に留まったのは、黄金色の長い髪だった。見た瞬間になめらかな手触りを感じさせるほどに美しいが、問題はその頭だ。彼女の頭からは大きな獣の耳が生えていた。狐か狼を思わせる耳は髪と同じ黄金色の毛につつまれ、時々小さく動いている。まさかと思い、センは腰のあたりへ目をむける。やはり彼女の腰からは、髪や耳と同じ毛色の尻尾が生えていた。
彼女の服装も異様だった。神官装束らしきものをまとっているが、一回り小さいもので明らかに身の丈に合っていない。子ども用のものを大人が無理矢理身に着けているという感じだ。胸のあたりははだけていて、黒い生地の肌着が胸や肩、二の腕にぴったりと密着し、女性らしい繊細な体の輪郭を浮き上がらせている。窮屈そうに腰回りを締めつけている袴の裾は膝頭あたりまでしかなく、ほどよく引き締まった両脚がのぞいていた。
センは改めて彼女の顔を見る。成人の女性らしく整った顔立ちをしているが、表情は幼さや柔らかさを感じさせた。金色に輝く瞳にはくもりがなく、意志の強さを宿している。
整った顔立ち、女性らしい肉体、身の丈に合わない神官装束、獣の耳と尻尾。
「痴女だ」
センは目の前の人物を、その一言で表現した。
「チジョ? それって、なんのことですか?」
彼女は首をかしげる。その声は成人ではなく少女の声で、センをますます困惑させた。
「頭のおかしい、危ない女のことだ」
「なっ、失礼なことを言わないで下さい! 私は頭がおかしくともないし、危ない女でもありません!」
彼女は祭器の槍を突き立て、センと向きあう。
「私の名はシトリ。ユヅルハを守護する神官です。危険な精霊の気配を感じたので、社から参上しました。私が来なければあなた方はどうなっていたことかです。いえいえ、べつにほめてほしいわけではありません。神官として当然のことをしたまでですから。ただ、自分で言うのもなんですが、私はほめられればほめられるほど成長する気質なんです。ですので、よくやったとほめていただければそれはもう大変うれしいことでして」
「あのー、シトリ、さん? ちょっとええかな?」
「はい。なんでしょうか」
「さっきの精霊とウチらが戦った時にできてもうた霊災がまだ浄化できてへんねんけど、よかったらかたづけるん手伝ってくれへんかな?」
ハチに言われ、シトリは広がり続けている黒い霧の存在にようやく気づいた。
「あ、あ、本当だ。大変! 早く、浄化しない、と……」
言葉が途中で途切れ、シトリはその場にふらりと倒れる。
「おい、どうした」
「大丈夫かいな」
センたちが駆け寄ろうとした時、シトリの体は淡い光を発した。ほどなくして光は消えたが、その場に倒れているシトリの姿を見て、センとハチは言葉を失った。
そこにいたのは十歳くらいの子どもだった。体を丸めて、気持ちよさそうに寝息を立てている。耳と尻尾はなく、神官装束はちょうど身の丈に合っていた。髪は頬にかかる程度まで短くなっており、色も透き通るような白色に変わっていた。
「なんなんだ。何がどうなってるんだよ、これ」
「セン、あれはなんやろか」
ハチが指さした先には、仔犬程度の大きさの獣がいた。狐と狼の中間というような姿で、黄金色のふわふわした毛に覆われている。体毛の色は、最初に見たシトリの髪の色と同じに見えた。獣は無表情のまま、金色に輝く瞳をセンとハチに向けている。
「自称神官の女と一緒にいるってことは、あれがユヅルハの神霊ってことになるのか。けど、妙だな。あいつからは何の力も気配も感じないぞ。ハチ、お前はどうだ?」
「ウチもや。ただ、あえて何も感じさせないようにしとるって可能性もあるで」
「不気味な奴だな……しかし、さっきのあいつの姿から考えれば、あの霊獣と一体化していたと考えるのが自然だ。つまりこいつは、『神おろし』をしてたってことだ」
「いやさすがにそれはないやろ。あんな子どもが神おろしなんて、できるはずないで」
「事実として、こいつは大人の姿で俺たちの前に現れ、異形の精霊を浄化したんだ。まあ、目を覚ましてからじっくり聞けばどういうことかはわかるだろう」
センとハチが話している間、金色の獣は霊災をじわじわと広げている黒い霧のそばへ行き、無言のまま彼らのほうへ目を向ける。
「俺たちになんとかしろって言いたいらしいな」
「目は口程に物を言うからなあ」
ハチは霊符を取り出し、黒い霧を取り囲むように四方八方へ次々と霊符を飛ばして結界を構築し、黒い霧を封じ込めた。センはシトリのそばに転がっている祭器の槍を拾い上げる。すると槍は光の粒子となって飛散し、シトリの右手の甲に浮かぶ聖紋へ吸い込まれた。センはシトリの聖紋を注意深く見る。それは、皇都の紋章を簡略化したようなつくりのものだった。
あるいは、皇都がその聖紋を複雑にして自分たちの紋章としたのかもしれない。
「正式な神官ではないにしても、それ相応の実力はあるってことか」
センはシトリを背負い、金色の獣へ目を向ける。
獣はセンと目を合わせると、ついてこい、というふうに背を向けて歩きはじめた。
「社まで案内するってことか」
「なあ、セン。その子やけど、やっぱり……」
「俺たちがやることにかわりはない。仕事を終わらせて、稼いだ金でうまいメシを食う。それだけだ」
センは金色の獣の後を追って歩き出した。




