スヴァルティエ
深夜二時。
女性専用リクライニングスペースには、深海のように静かな時間が流れていた。
ユウキはふかふかのチェアに身を沈め、ブランケットに包まれて夢のなかをたゆたっていた。
――その意識の深奥で、誰かに肩をとんとんと叩かれる感触があった。
「ごめんなさいね。気持ちよさそうに眠っていたのに、起こしてしまって」
目を開けると、そこにはあの裕福な女性たちがいた。顔にはどこか演技がかった笑顔が貼りついている。
「あの男の人……本当に知り合いなの?」
「え、あ……はい」
ユウキは寝起きの頭で、なんとか言葉を返す。
「今夜ね、ちょっと面白い“会合”があるの。よかったら、あなたもご一緒にどうかしら?」
「……会合?」
「ラグジュアリーテラスってご存知? 有料ゾーンの。深夜は人が少ないから、こういう“お話”には最適なのよ」
――ユウキは黙った。
すると別のマダムが、柔らかな声でつけ加える。
「しつこく誘ってごめんなさいね。でも……あなた、きっと“聞いていい人”だと思ったの」
その言葉は、まるで“選別”の通告のようだった。
ユウキはインフォメーション脇の個室トイレに身を隠し、スマホを開いて榊間にメッセージを送った。
榊間がやってきた。
すべてを伝えると、数十秒の沈黙のあと、決心して言った。
「……行こう」
「えっ、でも……怖くないですか?」
「俺は君の守護者だ」
その言葉に、ユウキは思わず胸の奥が熱くなるのを感じた。
ふたりはマダムたちに案内され、最上階行きのエレベーターに乗る。
本来なら営業時間外のはずのプールゾーン――。
静まり返った最上階。照明は落とされ、広大なプールは昼間の喧騒が嘘のようだ。
「こちらを」
スーツを着た係員がユウキたちに奇妙な鳥の仮面を差し出す。
顔全体を覆う赤い面。黒い嘴は異様に長い。――それは朱鷺。
参加者たちはそれぞれ、その仮面を顔に当てている。
「面白いでしょ」
マダムが仮面のまま微笑む。
照明がゆるやかに灯る。
視線の先、壇上には二人の男の姿があった。その2人は仮面をかぶらず、素顔だった。
一人は、光沢のあるスーツを着た若き実業家――新田エイジ。
そしてもう一人は、五十代と思しきスーツ姿の男。眼鏡越しの視線は鋭く、全ての空間を支配しているようだった。
「……“サー”よ」
マダムが囁く。
次の瞬間、男が口を開いた。
「――気候変動は、演出された終末ではない。我々の敵は地球でもなければ、人類でもない。太陽だ」
その言葉に、ユウキは隣の榊間を見た。
彼は無言のまま、じっと壇上を見つめている。
(太陽……。榊間さんが言ってたとおりだ)
サーの声が、闇を滑るように続く。
「SDGs。カーボンニュートラル。あれらは一部の真実を知る者が意図的に流布した偽の概念だ。
この惑星が迎えているのは、“人為的な終末”ではなく、“不可逆の沸騰化”。
仮に全人類が明日から一切電気を使わず、呼吸を止めたところで、何も変わらない。
……このことを知る者は、世界でもわずかだ。
彼らは“プレッパーズ”と呼ばれ、既に各地にシェルターを建設している。
しかし、それらは持続可能な社会を築くには不十分。
五十年ももたぬ」
急にスケールの大きな話をされて息を呑むユウキ。
サーは指を立てて言った。
「だからこそ、我々は創る。新しい国を。この終末の先に、選ばれた者だけが行ける国を。その名は――スヴァルティエ」
仮面の群れから、静かな拍手が湧いた。
ユウキの中に、得体の知れないものが根を張り始めていた。
――この世界は、もう普通じゃない。
いや、最初から普通ではなかったのかもしれない。