選ばれる者たち
大阪の朝は、もうすでに暑さの極みに達していた。
時間は午前十時。それなのに刺すような熱気が空から降っている。
新今宮の駅を出るとまるでオーブンの近くに立っているようだった。
交差点の向こうには段ボールで作られた即席の看板が並んでいる。
《世界は滅ぶ》
《地球沸騰化》
《あいりん総合センター取り壊し反対》
それらを横目に見ながら、ユウキはスパワールドの建物へと向かう。
夏休みということもあり、入場口にはすでに長蛇の列ができていた。
冷房の効いた館内に入るだけでも試練だ。
やがて館内に入り、着替えを済ませ、岩盤浴ゾーンへ向かう。
《世界の大岩盤浴》――その一角、美容に特化しているというイスラエルゾーン。
床とベッドは、すべて白色の岩塩で組まれている。
あたたかく発光するその塩は、ほんのりと身体の芯までぬくもりを伝えてくる。
七色に変化する照明が壁に沿ってきらめき、虹色の空間をつくりだしていた。
やさしいアロマの香りが漂い、呼吸するだけで身体の緊張が溶けていくようだった。
ユウキは、まるで死海に浮かんでいるような浮遊感を味わいながら、静かに目を閉じた。
しばし夢の中にいるような時が流れる。
そのとき、隣の岩塩ベッドから会話が聞こえてきた。
金のブレスレットを身につけた女性たちの声が響く。
「グリーンランドよ。アメリカが土地を買い占めてるって話、聞いた?」
「聞いたわよ。もう何年も前から。地球沸騰化で本土が使い物にならなくなるって見越してね」
「兵庫のA島もそう。あそこに、いま各地の名士たちが集まってるの。あとは、山口のS島」
「ええ、知ってる。関係者しか知らない話だけど、裏でかなり進んでるらしいわ」
「地下シェルターね。もうすぐ定員に達するって聞いたわよ。あとは"特別枠"ね」
「特別枠?」
「"文化人枠"ね。漫画家とか、小説家とか、映画監督とか。エリートたちだけじゃ退屈を紛らわすものは作れないってわけ。あと、今は"超能力者"なんかも集めてるらしいわ。これが本当に大変みたい」
「超能力者? あなたそれ本気?」
「病院を経営してる親戚が言ってたわ。精神科の患者で"予知夢"を見てる人間を精査してるって」
ユウキは思わず耳を澄ませた。言葉の端々が妙に引っかかる。
「……あの、すみません」
思わず声をかけていた。金のネイルが施された手が、ゆっくりとこちらに向けられる。
「なあに? あなた」
「わたし、たぶん……予知夢みたいなもの、見たかもしれません。もしかして、世界が太陽のせいで滅んでしまう夢じゃないですか?」
数秒の静寂ののち、女性たちは互いに目を見交わし、そして――頷いた。
「すぐに上がってちょうだい。あなたに会わせたい人がいるの」
「えっ……」
「特別な子には、特別なご縁があるものよ。お風呂じゃあなんだから、フードゾーンへ行きましょう」
腋から汗がつたうのを感じながら、ユウキは岩盤の上から身体を起こす。
――何が起こっているのかはわからない。けれど確かに、世界が動いている。
この出会いは偶然ではない。
これは、たぶん……新しい章の扉だ。
フードゾーンへ向かうと、そこにはまた別の空気があった。
小綺麗な服を着た金持ち風の中年たちが談笑している。その中に、ひときわ目を引く若い男の姿があった。
アイスブルーのシャツに白いスラックス、メディア慣れした整った顔立ち。
目が合った瞬間、ユウキは息を呑む。
(……あの人、ネットニュースで見たことある……!)
男の名は、新田エイジ。
いま人気急上昇中の若手お笑い芸人であり、バラエティでもドラマでも引っ張りだこだという。
「君がその“子”か。ここじゃ話しにくいから――屋上まで来てくれるかな」
彼が優しく微笑んだ。今まで嗅いだことがない、上質なフレグランスのにおいがする。
「有料だけど、ラグジュアリーテラスってのがあってさ。君と話したいって人が待ってる」
ユウキは、迷った。
けれど、心の中にあった不安を振り切るように、うなずいた。
(これも……運命、なのかもしれない)
そのときだった。
「待て」
男の声が後ろから響いた。
ユウキが振り向くと、そこに――仮名乞児がいた。
笠も杖も持っていない。髪は乱れ、髭は伸び放題、法衣はくたびれて汗臭く、まるで場違いだった。
「なんだ。君たち、知り合い?」と、金持ちのひとりの中年男性が顔をしかめる。
ユウキは答えに詰まった。
そのとき、仮名乞児が言った。
「ユウキ。いま君の前には“正解の扉”と“不正解の扉”がある。どちらを選ぶ?」
(この人……ストーカー? 何を言ってるの……?)
思わずバジュラに手を伸ばす。
そういえば、森口先生が言っていた。
知性のある人間は、選択を間違わない。
ユウキは、ゆっくりと振り返って金持ちたちに言った。
「この人……知り合いです」
数秒の沈黙が流れた。金持ちたちは困惑しながらも、それ以上は詮索しなかった。
ユウキは仮名乞児の隣に立ち、彼とともに人の輪から離れていった。