新世界
リュックひとつを背負い、ユウキは千手院橋のバス停でバスを待っていた。
リュックには、学生カバンから付け替えたバジュラが揺れている。旅の御守りのつもりだった。
そのときだった。
背後から、金属音――杖を突く音が響いた。
反射的に振り返ると、白い影が立っていた。思わず悲鳴がこぼれそうになる。
白衣をまとい、菅笠をかぶり、錫杖を手にした男。巡礼の姿をした仮名乞児だった。
男は口を開いた。
「お前を、護りに来た」
「……えっ、どうして……?」
ユウキの声は震えていた。
仮名乞児は、ただ静かに、凪いだ声で言った。
「不動明王のごとく」
白衣の裾が風にたなびく。
ユウキが言葉を探していると、その空気を裂くように、別の気配が割って入ってきた。
「おい、ちょっといいかな」
低く張った声に目を向けると、2人の警官が近づいてきていた。高野山の駐在所から出張ってきたのだろう。
ひとりは細身でメガネをかけた男。軽薄そうな笑みを浮かべどこか飄々としている。
もうひとりは真逆の風体だった。丸太のような首に、クマじみた巨体。まるで柔道着の上に制服を着ているかのような、圧のある肩回り。
「おにいさん、ちょっと署まで来てくれる?」
メガネの警官が声をかける。片手にはスマートフォンを一回り大きくしたようなタブレットを構えていた。
仮名乞児は、憮然として答えた。
「断る」
「……なんで?」
「もうすぐバスが来る」
メガネの警官が顔をしかめた。
巨漢の警官が無言で手を伸ばし仮名乞児の白衣の袖を掴んだ。
「引っ張るな!」
仮名乞児の声が路上に響き空気が一気にざわついた。
周囲の観光客たちが足を止める。白人の観光客が英語で何かを言いながら笑う。
そこへ、バスが到着した。
運転手も、バスの乗客たちも、騒ぎに怪訝そうな目を向けている。
ユウキは、一瞬迷った末に、ステップに足をかけた。
けれど、気がかりは消えない。乗車の直前、彼女はもう一度振り返った。
仮名乞児は警官と揉み合っている。
バスのドアが閉まり、車体がゆっくりと動き出す。
ユウキは窓越しにその光景を見つめた。
杖を奪ったメガネの警官が、何かを怒鳴っている。仮名乞児の背中には、『南無大師遍照金剛』、『同行二人』と書かれている。
バスは交差点を曲がり、仮名乞児の姿は見えなくなった。
◇
バスは杉林の山道を、右へ左へと蛇行しながらケーブルカーのある駅に向かう。車酔いしやすい人なら、注意が必要なほどのカーブの連続だ。
やがて、高野山駅に到着する。
ユウキは小さな改札を抜け、赤いボックス型のケーブルカーに乗る。
車両は急斜面に沿って、ゆっくりと下降していく。
数分後、極楽橋駅に着いた。その駅は、どこか――高野山という“異界”と、下界の“娑婆”を分ける境界のようにも思えた。
ホームには、ワインレッドに白いラインが入った特急こうやが停まっていた。
ユウキは中ほどの車両に乗り込み、窓際の席に腰を下ろす。リュックは足元。バジュラが控えめに揺れた。
やがて列車は静かに走り出した。
車窓はしばらく緑満窓前の景色が続く。やがて谷間を流れる清流や、〈富有柿〉の看板が流れていく。
ユウキはリュックから一冊の本を取り出した。
ミヒャエル・エンデの『モモ』。読書感想文のために選んだ一冊だ。
――一時間半の旅路。スマホを開くのは、時間泥棒に魂を明け渡すようなものだ。
やがて列車はなんば駅に到着し、乗り換えて新今宮駅へ。
ホームに降り立った瞬間、空気の質が変わった。
大阪のそれは、高野山の澄んだものとは正反対だった。猥雑で不潔な嫌気が主成分。そして、コンクリートに染みついた尿のような臭い――。
東口から外に出たそのとき、ユウキの目に、一台のバスが飛び込んできた。
どこか懐かしい、遊園地の送迎車のような丸みを帯びた車体。赤、青、白の三色が陽に照って輝いていた。
車体の側面には、見覚えのあるロゴが書かれていた。
――《たこ焼きはっちゃん号》。
心臓が跳ねる。
(夢で見た……!)
反射的に駆け出していた。
だが、バスは大きな交差点を曲がり、建物の影に消えてしまった。
――見失った。
肩で息をしながら、ユウキは足を止めた。
(たしかに、あれだった……気がする)
追いかけた足取りのまま、しばらくその場に立ち尽くしていたが、やがて諦めてその日の予定を切り替えることにした。
まだ陽は高い。午前中に高野山を発ってきたのだ。
ユウキはミナミの街をぶらつくことにした。
雑貨屋や古着屋が立ち並ぶアメリカ村。キラキラしたショーウィンドウ、甘い香りのクレープ屋、ティーン向けの小さなブティック。
そのままなんば方面へ。いかにも都会然とした大きな映画館に吸い寄せられ、ちょうど上映のタイミングが合っていたこともあり、ふらりと一本映画を観ることにした。
夕方。
道頓堀の橋の上。喧騒のなか、川面を眺めながら、スマートフォンを取り出し、今夜の宿を探す。
選んだのは「メディアカフェポパイなんば本店」。
鍵付きの狭い個室。
リュックをおろし、靴下を脱ぐ。足が少し蒸れていて、なんだか臭い気がする。でも、こういう場所でシャワーを浴びるほどの気力はなかった。
ドリンクバーのフローズンをストローですくって口に運びながら、ユウキはぼんやりと天井を見つめた。
――夢で見たものたち。
ゾンビ。仮名乞児。そして、昼間に見かけたあのバス。
それらはただの夢だったはずなのに、どこか、現実と地続きの感触があった。
自分は、今――新しい世界にいる。
化学反応のように、思いがけないことが起こる場所。
良くも悪くも、きっと何かが起こる。