高野四賢
高野山には、四人の賢人がいる――
そんな噂が、どこからともなく囁かれている。
彼らは誰かに任命されたわけでもなく、肩書きがあるわけでもない。
高野四賢――高野山に潜む、知の四柱である。
これは、ユウキとその四人とのささやかな邂逅の記録である。
その日の昼休みも、ユウキは大学構内にあるネットカフェの片隅にいた。
“情報ラウンジ”と名づけられてはいるが、実際のところは、簡素なソファと仕切り机、自動販売機が並ぶだけのスペースだ。
そこはユウキと千紗が昼食をともにする静かな避難所だった。
千紗――中学二年生。ユウキと同い年。
彼女は、もうしばらく学校には来ていない。
小学五年のとき、地方でいじめに遭い、高野山に越してきた。だが、中学生になって再び標的にされた。
以来、登校をやめ、今はほとんどこのラウンジに通っている。
ユウキは毎日、手作りのお弁当を持ってくる。
竹皮に包まれた小ぶりのおにぎり。中には自家製の梅干しがひとつ。そして昆布。昨夜のうちに焼いて冷ましただし巻き卵が彩りを添え、隅にはきゅうりのぬか漬けがひっそりと並ぶ。ほんのりと漂うぬか床の香りが、どこか懐かしい空気をまとう。
千紗は一年中マスクをつけている。
水泳の授業は一度も参加せず、給食の時間も口に運ぶ直前にマスクをずらすという独特な食べ方をしていた。
小学生の頃は「そういう子なんだ」と皆が受け入れていた。だが中学になると、それは“気に障る行動”として無遠慮な視線を集めるようになった。
家では千紗はマスクを外す。
このラウンジでも二人きりのときだけはそうだった。
千紗は、ぽつりと呟いた。
「ユウキちゃん、いつも……ありがと」
「いいよ。宿坊で出す精進料理の練習だから」
二人の間に、静かに時間が流れた。
やがてユウキは学校に戻るために席を立ち、小部屋のドアをそっと引いた。
情報ラウンジを出て大学の正門へ向かう。
ちょうど一人の僧が鉢合わせする。
僧はにこにこと笑いながら、ユウキに会釈する。
「こんにちは。ええ天気ですね」
穏やかな関西弁。柔らかな口調だった。
「こんにちは!」
ユウキも思わず声を明るく返した。
その人物は川咲。大学の特任教授だった。
真言宗の僧で、いつも笑顔を絶やさないことで知られている。
「それ、バッグにつけてるの、金剛杵ですよね?」
「えっ?」
ユウキは肩から提げた学生バッグに視線を落とした。
金具に結びつけたままの金属――バジュラが、真夏の陽にわずかに反射している。
「ああ、すみません。わたし川咲言います。この大学でちょっと教えさせてもろてる坊さんです」
「鶴羽ユウキです……中学生です」
「真影庵の?」
「そうです!」
ユウキは、真影庵の一人娘だった。
気さくな笑顔に少し安心しながらも、ユウキにはどうしても気になっていることがあった。
けれど、こんなことを聞いていいのだろうか。そんな迷いを飲み込んで、意を決して口を開く。
「あの、先生。質問してもいいですか?」
「どうぞ、なんでも」
「……奥の院って、本当は……お大師様は、いないのですか?」
一瞬、川咲教授は目を丸くして、それから朗らかに笑った。
「ええ質問ですねぇ。うーん、なんて言えばええんかなあ……。
お大師さんは、亡くなられたとき、お弟子さんたちによって荼毘に付されたんです。
だから、“物理的にはおられない”。でも、信じる人の中には、ちゃんと“おられる”んです。
わたしも、そう思ってますよ」
ユウキは、すこし黙ってから言った。
「……方便、ですか?」
川咲教授は、にっこりと目を細めて頷いた。
「言葉を知ってますね。『史実と伝承』とも言います」
「お大師さんが三鈷杵を中国から投げて高野山まで飛んだって話が“伝承”ですね?」
「その通りです!」
川咲教授は嬉しそうに声を弾ませた。
ユウキは不思議な感動を覚えた。
宗教に関わる大人は、どこか偏っていると思っていた。だけど、この人は違う。
言葉に知性があり、同時に優しさがあった。
だから、ユウキは思った。
やっぱり――奥の院には、お大師様が「いる」と。
「今日も奥の院に行きます」
「はい。いってらっしゃい」
僧は優しく微笑んだ。
*
その日の夕方。
ユウキは学校帰りに大学の図書館にいた。
手にはヘルマン・ヘッセの『シッダールタ』。
夏休みの読書感想文の予習として読んではみたが、正直ほとんど理解できなかった。
一体、何年後の自分ならノーベル文学賞作家が書いた小説を理解できるようになるのだろう。
そんなことを思いながら返却しようとしたそのとき、不意に声をかけられる。
「難しい本持ってるね」
顔を上げると、涼しげな眼差しの大柄な男性が立っていた。森口助教授。
白いシャツに淡い茶のチノパン。清潔感と知性を漂わせながらも、どこか砕けた親しみやすさがあった。
笑顔には人の懐にすっと入り込むようなやわらかさがある。
「すみません、ほとんど意味がわかりませんでした……」
「正直だなあ。中学生?」
「え、あ、はい……」
「あ、ごめんね。私はこの大学で心理学を教えてる森口です。どうしてその本を?」
「どうすればお釈迦様のように賢くなれるか、知りたくて」
森口は少し黙り、そして口を開いた。
「“賢さ”とは、“知性”のこと。そして、知性とは“言葉”だって言われてますね」
「言葉……?」
「そう。言葉をどれだけ知っているかがその人の知性を決める。でも大事なのは語彙の数だけじゃない。“言葉の重み”です」
ユウキは息を飲んで聞き入る。
「たとえば、“火”という言葉。君も知っているでしょ? でも消防士が語る“火”、中華料理人の扱う“火”、化学者が研究する“火”――それらの情報はまるで別物だと思いませんか?」
「あ……」
「あの人たちにとって“火”は生き死にに関わり、仕事の技に関わり、理論に関わる。その言葉には深さと重さがある。――本質に届く“言葉”をどれだけ持っているか。それが知性なんだと思います」
ユウキは初めて言葉の本質に触れた気がした。
ただ本を読めばいいわけじゃない。そこに“重み”が宿っているかどうか。
森口は続けた。
「もう一つ大切なことがあると思う。それは、“間違わない”ことです」
「……間違わない?」
「僕の知ってる本当に賢い人たちはいつも“正解側”にいる。知識だけでなく判断の精度がすごく高い。そして彼らに共通しているのは不思議なほど“慈悲”を持っていることです。きっと知性からは慈悲が芽生えるんでしょうね」
そのとき、大学のチャイムが鳴った。
森口は「ではまた」と軽く会釈し、本を片手に抱えて、少し急ぎ足で去っていった。
*
その日は、二十一日。
お大師様の“ご命日”――入定された日だという。
高野山では毎月この日、参拝客が少しだけ増える。
ユウキは、奥の院の御廟前に立っていた。
いつもより人影が多く、参道には線香の香りが濃く漂っている。
苔むした石畳の上に、どこかしんとした祈りの気配があった。
ふと、見知った顔が視界に入る。
黒縁の眼鏡。穏やかな眼差し。
御廟の方をじっと見つめ、深い祈りに沈んでいる。
高野四賢――前谷教授だった。
普段はスーツで教壇に立っている彼が、この日は法衣姿だった。
今日だけで高野四賢の3人に出逢っている。
ユウキは思わず声をかけた。
「こんにちは、前谷先生」
彼はゆっくりとこちらに振り返り、眼差しをやわらかくほどく。
「おお、ユウキちゃん。こんにちは」
「……暑いですね」
「そうですね。今年はまた一段と暑い気がします」
そう言って彼は御廟のほうに目をやりながら冗談めかして続けた。
「お大師さまに『なんとかしてくれ』ってお願いしていたところですよ」
ユウキはふっと笑う。
暑さの中にも少しだけ涼しい空気が流れた気がした。
「……先生、いつも大学、使わせてもらってありがとうございます。千紗が助かっています」
ユウキは頭を下げた。
前谷はゆっくりと頷いた。
「ええ。ああいう子には逃げ場所が必要です。安心できる場所ですね」
彼の言葉は穏やかだったがその根にあるものは確かだった。
「ほんとうはこの山全体がそういう場所であってほしい。でも――残念ながら人が多く集まる場所というのはどこも似てきてしまうんです」
彼の視線は深く御廟へ向けられていた。
そこに何を見ていたのかユウキにはわからなかった。
「だからこそ聖域をつくる必要がある。
私は大学はそういう場であってほしいと思うんです」
その言葉にユウキは森口助教授の言葉を思い出していた。
「本当に知性のある人は、慈悲を持っている」と。
目の前の前谷教授にもたしかに知性に由来する慈悲があった。
「では、私はこれで。お父さんによろしくお伝えください」
「……はい」
前谷は一礼しゆっくりと御廟をあとにした。
その背中が小さくなるまで、ユウキはずっと見送っていた。
*
午後六時過ぎ。
山あいの空はゆるやかに藍色へと移ろいはじめ、参道に灯る石灯籠の明かりがほんのりと宵の気配を照らしていた。
奥の院からの帰り道、ユウキはお使いで、山内に一軒だけあるファミリーマートに立ち寄っていた。
お茶と切らしていた味噌、そして台所用のスポンジ。袋は軽いはずなのに、腕にかかる重みがやけに意識に残る。少しだけ、疲れていた。
大学の裏手にあたる細い路地を歩いていると、視界の片隅に人影が見えた。
大学の石垣沿い。
街灯の薄明かりの下、誰かが路肩にしゃがみこんでいた。
よれよれの法衣。膝を抱えて座り込み、何をするでもなく、ただ夜に同化しているようなその男――
高野四賢最後の一人、仮名乞児。
高野山に突如現れ、どこにも属さず、どこにでも現れる。
山内の誰も彼の素性を知らず、彼自身は「予言者」を名乗っている。
宿坊にも寺院にも属さず、大学の構内にすら出入りしているという噂がある。
人によっては“ただの変人”“頭のおかしいホームレス”、"新宗教の勧誘"とも囁かれていた。
ユウキは思わず足をすくませた。
過去に経験した、夜道でのつきまとい。人混みでの痴漢。そうした記憶が、反射のように警戒を呼び起こす。
彼の正面を通ることができず、道の反対側を、そろりそろりと歩きはじめた――そのときだった。
すっと、男が手を持ち上げた。
呼ぶように、招くような仕草。
ユウキは恐怖に駆られ、駆け出しそうになる。
――カア! カアアア!
鋭い鳴き声が、夜の木立に響いた。
見上げると、大学構内の大樹の枝に、一羽のカラスが止まっていた。
黒い羽毛に包まれた額。そこには、確かにあった。
――梵字。《カーン》。
アクリアだった。
ユウキは、そのカラスと目を合わせる。
なぜだろう。怖さが、少しだけ和らいだ。
彼女はゆっくりと男のもとに歩み寄り、ふと膝を折るようにしゃがんだ。
「……ご気分でも悪いのですか?」
声に出して、自分でも驚いた
男は暗い瞳でユウキを見た。
そして、呟くように語りだした。
「――バジュラに選ばれし者よ」
ユウキの心臓が、一拍だけ早く鳴った。
「この世界はもうすぐ、地球沸騰化によって滅びる。
だがな、その原因は二酸化炭素でも、牛のゲップでもない。
太陽だ。太陽がおかしくなっている。……十四年前に、俺は世界で一番最初に、そのことに気づいた」
脳裏に、あの夢がよみがえる。
灼ける空。蒸し焼きのような街。水を求めてさまよう人々――
仮名乞児の声が、じんわりと耳に染み込んでくる。
「急げ。仲間を集め、創れ。
――この世界に、楽土を」
――カアア!!
アクリアが大きく鳴いた。
その声に押されるように、仮名乞児が叫ぶ。
「走れ!!」
陸上部のエースであるユウキは立ち上がり、反射的に駆け出していた。
足が勝手に前へ出る。走る――。ユウキの小さな胸は新しい人生が切り開かれた予感に満ちていた。
「広めてくれ! 世界で一番最初に気づいたのは俺だと!!」
背後から仮名乞児の切実な叫び声が聴こえた。
ユウキは――笑っていた。
なぜだか自分でもわからない。
心の奥底から湧き出る笑い。
世界の終わりが始まる最初の夜を、彼女は希望を抱いて駆け抜けていた。