烏子
高野山の夏。標高八百メートルの“避暑地”を謳ってはいるが、実際の気温は地上と大差ない。
蝉が鳴き続けている。
空気の端には、微かに夕暮れの気配が混じり始めていた。
木立の影が長く伸び、参道には人影もまばらだった。
ユウキは制服姿のまま、学校からの帰り道を歩いていた。
学生バッグには、朝からずっと括りつけてある金色の法具――あの《バジュラ》が、陽に光っている。
毎日お大師様に手を合わせるのが、ユウキの日課になっていた。
奥の院。
観光客はほとんどおらず、杉並木のあいだを吹き抜ける風に、苔むした石畳だけが静かに応えていた。
杉の影が参道に斑をつくり、ユウキの足音がそこに小さく響く。
歩きながら、彼女は学生バッグにぶら下げたバジュラを指先でなぞった。
金属の感触が、今日も変わらずそこにある。
いつものように祈って帰るだけのはずだった。
……だが、その日は違った。
御廟橋の少し手前で、ユウキはふと立ち止まった。
参道の先に、ひとりの少女が歩いていた。
長い黒髪。淡い水色の地に、紅の桜が舞う手描き友禅の着物。
奥の院の墓所にはあまりに不釣り合いな、古典の美。
その背は小さく、歩くたびに袖がゆれて、下駄の音がかすかに石畳に響いていた。
夕暮れの光を受け、その姿はどこか現実の色から浮き上がって見える。
少女はやがて御廟橋を渡り、ユウキはその後ろ姿を追いながら、気づけば彼女の歩調に合わせて歩いていた。
そして――御廟の前、灯籠の影の中で、少女は立ち止まった。
まっすぐに、奥の院の奥を見つめていた。
ユウキは思わず声をかけた。
「……すごくきれいなお着物ですね。地元の方ですか?」
少女はゆっくりと振り返り、柔らかく微笑んだ。
「ありがとう。これは手描友禅。地元の者ではありません」
「観光ですか?」
「違います」
「……え?」
少女はユウキをまっすぐ見つめ、問い返す。
「あんた、よくここへ来るの?」
「うん。毎日、学校帰りに。家がお寺で……」
少女はふっと目を細め、御廟の方へ視線を移した。
「――ここに弘法大師はいないわよ」
「……え?」
ユウキは思わず聞き返した。
少女は少しだけ首を傾け、御廟を見据えたまま、淡く囁いた。
「あそこは空っぽだわ」
「ええっ!? でも、毎日ごはんが運ばれてるよ。朝6時と10時30分に欠かさず……」
少女は小さく笑い、友禅の袖で口元を隠した。
うふふ、と風のように洩れた笑い声が、なぜか心にひっかかった。
少女は静かに歩き出す。
ユウキは思わず、あとを追った。
「ちょっと待って、名前……!」
少女は無縁塚の前で立ち止まった。
何百と積まれた無縁仏が夕暮れに沈黙している。
ユウキはこの場所が怖くて苦手だった。
いつもは目を逸らして早足で通りすぎていた。
そのときだった。
――カァァ……カァァァ……ッ!
高い杉の枝から、カラスの声が響く。
一羽の黒い影が舞い降り、少女の肩にぴたりと止まった。
ユウキの息が止まる。
そのカラスの額――
黒い羽毛のあいだから、ひと文字の白い梵字が浮かび上がっていた。
カーン。
(……昨夜の、あのカラスだ)
カラスはユウキをじっと見つめ、わずかに首を傾けた。
「あんた、バジュラを持ってるね」
その声は、年齢にそぐわないほど静かで、深い。
ユウキはバッグに括りつけられたバジュラに視線を移す。
「はい。昨夜……その、カラスさんが家に持ってきました。……どうして、それを?」
少女は肩のカラスをそっと撫で、囁くように答えた。
「あんたはアクリヤに選ばれたのよ」
「え……?」
カラスが自分の名を呼ばれたことを誇るように、カー、と鳴いた。
「またご縁があれば、会いしましょう。お名前は?」
「ユウキ。……あなたは?」
「烏子」
アクリヤが羽ばたいた。
ナンコは下駄の音を響かせながら、薄暗い林道の奥へと姿を消していった。