臨界
熱い。
何もかもが焼けるように熱い。
視界が歪み、陽炎がアスファルトの上で揺れていた。空は雲ひとつない真昼の白、空気は動かず、風すら死んでいる。自分の汗が肌を滑っていくのがわかる。
スマホの温度表示を見た。
《48.7℃》。
今年は、もう、限界かもしれない。
水道は止まっていた。
蛇口を捻っても、ただ乾いた音が響くだけ。電気も切れている。スマホの画面では、同じ注意文が繰り返し再生されていた。
「落ち着いてください。避難は早めに。水分補給を――」
外に出ると、世界は音を失っていた。
道路には人影ひとつない。誰もが何かから目をそらすようにして閉じこもっている。
息を吸うだけで喉が焼けそうだった。
それでも、足を動かさなければならない。水……水がある場所へ。
川。
昔、家族で行った川があるはずだった。あそこなら、少しは涼しいかもしれない――
朦朧とする意識のなか、汗まみれのシャツで歩き出す。
足元が揺れていた。
そのとき、バイクの音が背後から響いた。
ふらりと振り返ると、一台の大型バイクが近づいてきていた。
白いヘルメットの男性がハンドルを握り、無言で停車する。
「乗れ」
「ありがとうございます」
後部座席に跨がると、バイクは再び走り出した。
目指すは「海」ではなかった。
「海はダメだ。十キロの渋滞だし、着いたとしても、直射日光で一時間以内に死ぬ」
男はそう呟き、谷の奥へ、山のほうへとバイクを向ける。
山道には、延々と続く車の列。
エアコンをMAXにしても対処出来ず、熱中症でうなだれる家族連れ、ぐったりした犬を抱く老人たち。
彼らを横目に、バイクはその列の脇をすり抜けてゆく。
ようやく着いたのは、森の中にぽつんとある駐車場だった。
そこから数分、獣道のような小道を抜けて、ようやく川が見えた。
だが――そこに楽園はなかった。
川は、既に人で満ちていた。
無数の人々が浅瀬で仰向けに水に浸かり、虚ろな瞳で空を見上げ、まるで生きるためではなく、死なないためだけに水に沈んでいた。
岸辺には、死体が積まれていた。
人や、ペットだったであろう大型犬の死体。
ユウキは思わず叫んだ。
「いやああああああああっ!!」
その叫び声で、自分の声に目が覚めた。
布団の上に跳ね起きる。額から背中まで、汗でびっしょりだ。時計を見ると、午前二時を少し過ぎたところだった。
蒸し暑さが部屋を満たしている。エアコンは我慢して、二ヵ所の窓を開け、扇風機で何とかしのいでいた――はずだったが、限界だった。喉がからからに渇いている。
先ほどの夢が頭にこびりついている。
(嫌な夢だった。なのに……すごく、リアルで)
ユウキは中学二年の夏を生きている。世界は、まだ“終わって”いないはずだった。
そのとき、窓から音がした。
「……?」
コッ、コッ。
ガラスを軽く叩く音。くちばしの先でつつくような、小さな乾いた音だった。恐る恐るカーテンをめくると、そこに一羽のカラスがいた。真っ黒な羽根。丸いつぶらな目で、じっとユウキを見つめている。
一歩退きかけて、でも――吸い寄せられるようにもう一度近づいた。
その額に、白い羽毛で形作られたような文字が浮かんでいた。
梵字――カーン。
なんだか、こわい。
カラスは、ゆっくりとバルコニーの柵へ飛び移った。
「人に慣れてる……? 誰かの飼いカラス?」
戸を開けた瞬間、不思議なカラスはひと鳴きして夜の空へと消えた。
そして、バルコニーの床に何かが落ちていた。
――金剛杵だった。
「……え? これ、まさか……お土産?」
恐る恐る手を伸ばす。指先に触れたそれは、想像よりも冷たく、どこか神聖な重みをまとっていた。
「なんか……本物っぽい……」
翌朝。
ユウキは、学生バッグに金剛杵を括りつけ、家を出た。
七月。今年は10年に1度の暑さだという。
だけど――何だか嫌な予感がする。
夢と現実の境目が、ぼやけはじめていた。