魔女に触れたら恋をする
その森に住む者は、誰にも触れられない。
霧が常に立ちこめる深緑の中、一本の小道が静かに続いている。村の者はその小道に足を踏み入れない。なぜなら、その先には魔女が棲むからだ。
魔女の名はリゼ。黒曜石のように艶のある長い髪に、氷のように澄んだ瞳。年の頃は二十歳前後に見えるが、誰もその真の年齢を知らない。
彼女は森の奥で一人、静かに暮らしていた。小屋の周囲には薬草が植えられ、乾燥させたハーブの香りが漂う。時折、村の人間が病に倒れると、恐る恐るこの森を訪れ、薬を求めた。リゼはそれを断ることはなかった。彼女は優しかった。ただ一つ、決して人に触れようとはしなかった。
「触れられた者は、魔女に恋をする。」
村にはそんな噂が流れていた。恋というには奇妙な響きがあった。まるで呪いのように、触れた者は彼女に心を奪われ、狂おしいほどに恋に落ち、そして──死ぬ。
それが噂の全てだった。真偽は定かでないが、リゼ自身、誰にも触れようとはしなかったから、試す者もいなかった。
そんなある日、森に一人の青年が迷い込んだ。
彼の名はユリウス。鋭い目元と傷だらけの鎧をまとった青年で、剣を携えていたが、その刃は折れていた。彼は森の奥で倒れており、気を失っていた。リゼは彼を見つけ、小屋に運んだ。
魔女である自分が男に触れる──それは彼の運命を変えてしまう行為。だが、放っておけば命はない。
「仕方ないわね……」
リゼは手袋をはめ、布越しにユリウスの身体を抱きかかえた。慎重に、細心の注意を払って。直接肌には触れないように。
──けれど、それはほんの序章に過ぎなかった。
リゼはユリウスを小屋に運び、ベッドに横たえた。意識が戻るまで、しばらく時間がかかるだろう。彼の顔は汗に濡れており、呼吸も荒かったが、命に別状はないようだった。リゼはその様子を見守りながら、ゆっくりと薬草を集め、彼の傷を手当てし始めた。
彼女の手が触れる度、細やかな魔法が働く。傷口はすぐに治り、青く腫れていた皮膚も、白い肌に戻る。
「これで、少しは楽になるでしょう」
リゼはそう呟きながら、ゆっくりと手袋を外した。その瞬間、ふと目を閉じた。肌の感覚を確かめるかのように、指先をじっと見つめる。彼女が他人と触れることは、すなわち彼らを恋に落とすことを意味する。その呪いは、彼女自身が一番知っていた。
──触れてはいけない。
そう思いながらも、リゼはユリウスの顔を見つめる。彼の安らかな寝顔が、なぜだか心を乱した。彼女はふと、彼に自分が何をしているのかを考えた。
──彼に触れたら、彼は私に恋をしてしまう。それが恐ろしいことだと、彼にはわからない。
リゼは窓の外を見つめながら、深いため息をついた。
その夜、ユリウスが目を覚ました。目を開けた瞬間、目に映ったのは、暗い小屋の中でぼんやりと輝くキャンドルの灯火と、優雅に動く魔女の姿だった。
「ここは……」
「あなたが倒れていた場所です。森の奥で見つけました」
リゼは冷静に答えたが、その目には少しだけ心の奥の動揺が映っていた。
ユリウスはゆっくりと起き上がり、周囲を見回すと、傷だらけの自分の体に気がついた。だが、痛みを感じることなく、すでに治癒していることに驚いた。
「これは……君が?」
リゼはうなずき、彼に差し出した水の入った杯を手渡す。
「魔女ですから。治癒の魔法を使いました。でも、無理しないでください。まだ疲れているはずです」
ユリウスは一瞬、彼女の顔をじっと見つめた。そして、ゆっくりとその優しい眼差しが彼女に向けられた。
「ありがとう。君が助けてくれたんですね」
その言葉に、リゼは少し戸惑った。彼が感謝の気持ちを表すことに、どうしても違和感を覚えてしまう。だが、それが彼の純粋な心から来ていることを、リゼは否応なく感じ取ってしまった。
「……どういたしまして」
リゼは微笑みを浮かべたが、その笑顔はどこか儚げで、目の前の青年にはわからなかっただろう。
ユリウスはまだ、自分が何故この森に迷い込んだのかを思い出せなかった。記憶が断片的で、どこか大事なものを忘れているような気がしていた。しかし、リゼの存在は不思議と心に残った。彼女の冷たい美しさ、そして、どこか寂しげな目。
「君は、何でこんな森に……?」
リゼは少し黙り込んだ。答えたくない質問だった。だが、彼女はそれを無視するわけにはいかなかった。
「私は──呪いを受けているから」
ユリウスは眉をひそめた。
「呪い?」
「ええ、私の触れる者は、恋に落ち、そして──消えていく」
リゼは小さく呟いた。その声は、まるで自分に言い聞かせているようだった。
ユリウスはその言葉に驚き、そして少しの間黙った後、言った。
「……それが本当だとして、君はなぜ人を助けるんだ?」
リゼはその質問に答えることができなかった。彼女は人を助けることが、ただの習慣のようになっていた。ただ一つ、心の奥底でそれが唯一の慰めだと感じていたから。けれど、助けるたびに、その者が恋に落ち、そして最終的に消えていく。それが彼女にとっての呪いであり、永遠の孤独だった。
ユリウスが回復してから、数日が経った。リゼは彼に、森の中でできる限りの薬草や食事を与え、彼が歩けるようになるまで見守っていた。ユリウスは日に日に元気を取り戻し、次第にリゼとの会話も増えていった。
その間、ユリウスはリゼのことを少しずつ知るようになった。彼女は孤独で、どこか遠くを見つめるような瞳をしていた。村人たちから恐れられている魔女という立場だけではない、何か別の、深い痛みがその瞳に宿っていた。
ある日、ユリウスは小屋の前で薬草を摘んでいるリゼに声をかけた。
「リゼ、君は一人でずっとここにいるのか?」
リゼはその質問に答えることなく、薬草の葉をひとつ摘み取ると、無言でそれを切り取って小さな束にした。彼女はただ黙々と作業を続ける。
「一人か」とユリウスは繰り返すように言った。彼女の目が一瞬だけ、ふと彼の方に向けられた。
「はい。私には……家族も、仲間も、もういません」
その言葉はあまりにも静かで、ユリウスは思わず息を呑んだ。彼女の過去に何があったのか、何が彼女をこの孤独な地に縛りつけているのか、何も知らない。ただ一つだけ確かなことは、リゼがこの森で一人で生きる理由が、その「呪い」にあるということだ。
「……あなたも、ここに来た理由があるのでしょう?」リゼが続けた。
ユリウスはその問いに少しの間答えを迷ったが、やがて小さく頷いた。その言葉にリゼは表情を変えずに、ただ無言で彼を見守っていた。その言葉にリゼは表情を変えずに、ただ無言で彼を見守っていた。
その夜、リゼとユリウスは暖炉の前に座り、静かに燃える火を眺めていた。リゼは時折、視線を落としながらも、ユリウスの方をちらりと見た。ユリウスもまた、リゼの横顔を何度も見ていた。彼の胸の中に芽生えた感情が、だんだんと明確になっていくのを感じていた。
──彼女を、愛している。
それが何か恐ろしいことであることは、ユリウスも分かっていた。彼女に触れれば、呪いが発動する。それは、恋に落ちるどころか、自分を破滅に導くものだと。
だが、それでも彼は感じていた。彼女が抱える孤独や痛みを、少しでも分かち合いたいと思ってしまう自分がいる。
「リゼ、君がずっと一人でいる理由はわかる。でも……僕が言ったように、僕も記憶がない。だから、君に触れたり、君を傷つけたりしたくはない。ただ……」
ユリウスは言葉を切り、少しだけ顔を曇らせた。暖炉の炎の明かりがゆらゆらと彼を照らしている。
「ただ、君が寂しそうに見えると、どうしても放っておけないんだ」
その言葉がリゼの心に刺さった。彼女は思わず目を伏せ、指先をかすかに震わせた。ユリウスの言葉は、まるで彼女の抑え込んでいた感情に触れるようだった。
「……私は、触れてはいけない」
リゼはつぶやくように言った。声がわずかに震えていた。
「君に触れれば、君は僕を……」
「恋に落ちて、そして死ぬ」
リゼが言葉を続けると、ユリウスはゆっくりと彼女を見つめた。彼女の冷たい目には、絶望と孤独の色が混じっていた。それでもユリウスは、彼女の手を取りたくてたまらなかった。
「それが、君の呪いなんだね」
リゼは無言でうなずく。そして、震えるような声で言った。
「触れることができるなら、私は──あなたに恋をしてしまうかもしれない」
ユリウスの心臓が大きく跳ね上がった。彼女の言葉が、彼にとっては予想以上に重く響いた。今すぐにでも彼女を抱きしめたいという気持ちを、彼女が抱くやるせなさを噛みしめ、彼女に触れたいという欲望を拳をギュッと握りしめ押し込めた。
リゼは小さく息をつきながら、火を見つめた。ユリウスはその言葉を胸に刻みながら、しばらく黙っていた。
その夜、リゼは自分でも気づかぬうちに、ユリウスの存在を強く感じていた。彼が優しく、何度も自分を支えようとしてくれたことが、彼女の心に深く響いた。それは、彼に恋をしている証拠だと分かっていたが、それでも手を伸ばすことができなかった。
彼女にとって、それは永遠に届かないものだから。
ユリウスはリゼが恐れることを、少しずつ理解し始めていた。彼女が自分に触れることで、彼を恋に落とさせ、そしてその恋が彼にとっては命取りになってしまうという呪い。リゼがどれだけ自分に心を閉ざしていても、ユリウスはその心の中にあるわずかな希望を感じずにはいられなかった。
彼がリゼを触れることができないこと、彼女の運命を受け入れることが、どれほど痛ましいことであるかを、ユリウスは身をもって知っていた。
だが、それでも──。
「リゼ」
ユリウスは小屋の外で薬草を摘んでいた彼女に声をかけた。彼女はいつものように、無言で振り向いた。
「君が言うように、触れてはいけない。でも、僕は──君がどれだけ恐れていても、君を愛している」
リゼはその言葉に、強く動揺した。心臓が痛むような感覚が広がり、何かが胸の中で震えた。
「だから……」ユリウスは続けた。「君が僕に触れて、僕が君に恋をしたとしても、それでも僕は──それは呪いじゃない。僕はもうこんなにも君のことを愛しているんだから。君を守りたい。君がどんなに傷ついても、君を離したくない」
その言葉を聞いた瞬間、リゼは我慢していた涙をこらえきれなかった。目の前のユリウスが、少しずつ彼女の呪いに立ち向かおうとしている。リゼはただ、彼の温かい手を握りたかった。しかし、もしそれをしてしまったら──。
「君を──手に入れたら、僕はどうなる?」
その問いを、リゼは無意識のうちに口にしていた。
「きっと消えてしまう。今までがそうだったように」
リゼの声は震えていた。目の前のユリウスが、彼女の呪いを理解していることが、痛いほど分かったからだ。
「リゼ、君がどれだけ傷ついてきたかは分からない。でも、僕は──僕は君を手放さない。君が僕に触れたら、僕が消えてしまうとしても。いや、消えない」
ユリウスは静かにリゼに歩み寄り、その手を握った。その手にはしっかりと手袋がはめられている。ユリウスがここに来てから外すことない手袋が。
「でも、触れた瞬間、君は消えちゃうんだよ?」リゼは目を閉じ、涙を堪えながら言った。
「それでも構わない」ユリウスの声には、どこか決意が込められていた。「君と過ごした時間が、僕にとって何よりも大切だから」
リゼはその言葉を聞いて、心の奥底からあふれる感情を抑えきれなくなった。ユリウスの手を握りしめることで、彼女は初めて自分の感情に素直になれる気がした。
「ユリウス……」
彼女はついに彼に触れる決意をした。呪いが発動し、彼が消えてしまうその瞬間を、彼女は覚悟していた。
その瞬間、リゼは彼の唇にそっと触れた。ユリウスの顔が驚きに染まり、その瞳に深い痛みが宿った。
だが──それでも、彼はリゼを抱きしめた。
「大丈夫だ、リゼ」
その言葉が、彼女の胸に深く響いた。何かが壊れるような、崩れ落ちるような感覚が広がる中で、リゼはただ、彼を感じていた。
「君を、愛している」とユリウスが囁いた。
その言葉が、リゼを包み込んだ。彼女の心が満たされていくような感覚を覚えた。彼の手のひらが、温かかった。
そして、次の瞬間──
リゼの体が一瞬だけ震えた。そして、彼女の身体から、かすかな光が漏れた。少し肩が軽くなるような感覚がした。
ユリウスは驚いてその光を見つめたが、リゼは笑顔を浮かべながら、彼の腕の中で、ゆっくりと目を閉じた。
「呪い……解けたみたい」
リゼはユリウスにもたれかかるように体を預けた。安心でへたり込むリゼを強く抱擁した。
「ほらね。僕に呪いなんて効かないよ。触れる前から君に恋していたんだから」
その森には魔女がいた。彼女に触れると恋をする。
戦いで深手を負い、戦線を離脱した騎士が一人、森の深い霧の中へと迷い込む。