おかえり
"強く転移先の名残が残っているものからその場所や人との繋がりを作り転移をさせる。もちろん転移先の座標が分かってることに越したことはないが、座標の特定が難しく、転移魔法の使用が避けられない事態の場合に使用される。しかし、この方法の場合が呼び出すものが曖昧であるため、本来の意思と違うものが呼び出されることがあるため注意されたい。"
私があの日、古書店で見つけた転移魔法の応用について書かれた本。怪しい表紙に信じられない内容。だけど、試してみる価値くらいはあると思った。私に魔力はないけど、それが込められた魔法石を使って、魔力溢れる月夜に準備を行えば転移魔法は不可能なことではなかった。転移に必要な転移先の名残があるものは私の身体そのもので事足りる。
少し試してみるだけ。だけどそんな理由が通用するわけないことは私が一番知っていた。イーサンが悲しむのを知っていて、私は元の世界を選んだ。私はイーサンとの思い出を幸せな夢で終わらせることにしたのだ。
そんな私を、イーサンは当然許さなかった。全ての準備を終えた日、私は彼に気絶させられ、気づいた時には家に閉じ込められてしまっていた。
家の中では自由がある。だけど、家から出た瞬間引っ捕まえられてベッドに転がされる。でも、それ以上は何もしない。家から出ようとしなければイーサンは変わらず優しいまま。それが逆に怖くて怖くて仕方がなかったし、彼が何を思ってそうしているのか私にはさっぱり分からなかった。
早くそんな状況を脱したかった私は、イーサンが珍しく家を開けた日転移魔法を使った。無事成功して家の前の道路に転がっていたときには、これでもう全部全部良くなると思っていたのに……。
ーー
二度と開くはずのなかった目が開く。テーブルランプだけが室内を照らす暗い空間では、目は光よりも闇に慣れていって、そして慣れきった頃に辺りを見渡すと、すぐにその違和感に気づいた。
両手両足についた、カシャリと音を立てるもの。
(……願いが叶ったことを喜ぶべきか、状況が悪化したことを悲しむべきか……)
冷や汗が首を伝い始める。生きていた時点でこうなる事は分かっていたが、いざ現実になると震えが止まらない。
「……目が覚めたか」
そんな時にドアが開き彼が現れたものだから、身体が飛び上がった。もちろん、鎖のカシャリという音と共に。
「……ああ、それが気になるのか? 必要ないと思ったんだが、一度逃げられたものだからつけたんだ。でも安心して良い。すぐに外せると思う」
イーサンが、ゆっくりと私が座っているベッドに近づいてくる。その一挙一動を、私はただ見ていることしかできない。
イーサンがシーツの上に膝をついて、それによって掛かる二人分の体重がベッドを軋ませる。ベッドはそう広くはないからすぐにイーサンとの距離は縮まって、更に近づく彼のブルーグレーの癖っ毛が私の耳を擽った。
左肩をやんわり抑えられ、ひたりと彼の冷えた指が首に遺った跡をなぞる。その跡を、彼の二つの瞳でも見つめられているのを感じる。
「他に、傷はないか?」
「……? うん、一応なんともないけど……」
そう言うと、肩口から顔を離して彼はにこりと笑った。
「それは良かった」
その笑顔にまた不安が募る。
「……な、なんで怒らないの。私、貴方に酷いこと沢山してるのに。約束だって破った。なのに、なんで……」
顔を覆って、ずっと思っていたことが漏れ出す。イーサンは私が帰ることを諦めていないのを気づいていてなお、背中を押すことも引き止めるための説得をすることもせず、ただ閉じ込めるだけだった頃から、私はイーサンの考えていることが分からなくなってしまっていた。ただただ優しい。彼が優しくなかったのは初めて逃げ出した時にこの首に噛みついた時くらいだ。
俯いた私の頬を、イーサンはふわりと撫でる。まるで、そう。愛おしくて大切なものを扱うように。
「信じてたからな。最後にはおれを選ぶって」
イーサンがまたより一層笑みを深くする。今まで見たことがない、奇妙で歪な笑み。
「最初、歩夢がまだ帰る方法を探してるって知った時は本当に悲しかった。あの約束は嘘だったのかって」
「でも、なるべくお前を傷つけて無理矢理引き止めたくはなかったんだ。だっておれ達は愛し合っているだろう? だからきっと、分かり合える道があるって信じていた」
しかし笑みに似合わず、彼の言葉はいつも通り静謐な響きを持つ穏やかなもの。
「……じゃあ、何も言わずに閉じ込めたのは?」
「歩夢におれの気持ちを分かってもらうには少し時間が必要だと考えたから、ああいった方法を選んだだけだ」
酷い方法で、間違えてしまったかとも思った時もあったが……。
「お前は最後におれを選んだ。だからここに帰ってきたんだろう?」
キラキラとした達成感と安堵に満ちた微笑み。それに私は、今まで気を張っていたものが全部無駄になったような心地がした。圧倒的な敗北感。彼はずっとずっと、私なんかより私のことをよく理解していたのだ。
「なあ、約束してくれ。思えば歩夢から言葉で約束はしてもらえていなかったから」
頬を両手で包まれ、愛おしげに細められた深緑と目を合わせられる。もう逃げ場所はない。逃げる気も湧かない。
「……私は一生、イーサンのものだよ。だけど、イーサンも一生、私のものだよ」
「……ああ、喜んで!」
ーー
私の指にイーサンの指が絡められる。少し骨張っていて、固くなった指。それに私とは異なる男であることを感じさせるのに、強引に抑え込む力は行使されない。優しく、だが逃げられないことを教え込むみたいな力。その力加減のまま彼の身体へ引きつけられ、深林の匂いが強くなる。人の気配を感じない、孤独の香り。それを私はずっと求めていたのかもしれない。思わず彼の胸に頭を擦り付けると、それを咎めるみたいに繋がれていない方の手で顔を上げさせられる。
「愛してる」
その言葉と共にキスが降ってくる。相手へ愛を伝える為だけの触れるだけのもの。初めてのはずなのに、まるで何度も経験があるような既視感を覚えた。だって、その触れ方も込められた感情も、何年も共に過ごした愛しい恋人に接するものと同様の意味合いを感じて、頭が混乱する。私の中の常識がぐらぐらと揺れて、溶けてしまいそう。
角度を変え何度も唇を合わせて、それが止んだと思ったら耳元でイーサンの低音が鼓膜を揺らした。
「口、開けてくれ」
その熱の籠もった彼の声に変な反応を返してしまいそうで、思わず口を強く引き結ぶ。イーサンはそれに気を悪くした様子もなく、逆に、私の小さな抵抗がいじらしいとでも言うように笑い声を漏らす。
「...ふ、ぅ」
彼の整えられた爪が私の手の甲を軽く掻く。目を閉じているからか、小さな感覚さえ鋭く感じて反応してしまいそうになるのを必死に堪えた。しかし、イーサンが私を弄ぶ手は止まらない。その皮膚の堅い手で感触を楽しみながら、揉んで、絡めて、触れる。その間キスも絶え間なく続き、私の許可が出るのを待っている。
目を少し開けると、それに気づいてイーサンは眉を下げて苦笑を浮かべた。
私が、我儘でも言ってるみたい。
ほんの少し口を開けてみる。彼の瞳にゆらりと熱が浮かび上がるのか見えて、すぐに私の視界はイーサンに埋め尽くされた。
「んぅ、う、あ」
口腔の中で彼の分厚い舌が動き回る。上顎をなぞって、無意識に逃げた私の舌を彼のものが捕らえて、もう喉を通る唾液がどちらのものかも分からない。その初めての快楽に腰が抜けそうになるが、いつの間にか腰を掴んでいた手に止められ、私はそれを享受するしかなくなる。
溺れてしまいそうだった。彼に、彼の愛に。いや、とっくに手遅れなのかもしれない。だって溺れちゃうのに、私も求めて止めれない。私だけを見つめるその深緑に、私だけに見せる表情に。満たされない心がどうしようもなくイーサンだけを渇望する。
「歩夢」
暖かく私を呼ぶ声に答えて、イーサンの首に腕を回した。涙で潤んだ視界では何も見えないというのに、彼が微笑むのがなぜか分かる。
その隙に乗じて、私は彼の首元へ歯を立てた。
「いっ……!」
「……これで、お揃いだね」
出来る限りの力で噛んだからか、キチンと歯型が残り、血が少しにじんでいる。もったいなくて舐めると鉄の味がした。
「大好きだよ。イーサン」
一言一句決して聞き漏らさないように、念を押すように言葉を吐きだす。はっと息を呑む音が聞こえた。
「……ああ、一生おれは歩夢のものだよ」
イーサンがおれは幸せ者だな、と笑った。