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ヴィシュタイン・コピーライト  作者: トモユキ
第一部 第二章 アンジェラの円舞曲(ワルツ)
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2-3 ミセス・ケア

「はい。というわけで、ミセス・ケアさんです」

 アドニスは、テーブル席に一緒に座る淑女を、ライブ上がりのアンジェラに紹介した。

 アンジェラは、柔和な笑顔のミセス・ケアをじっと見つめると、熟女をナンパしたのかと責めるような半目をアドニスに向ける。

「先ほどは、無理なリクエストをしてしまってごめんなさいね。ケアです、どうぞよろしくね」

「いえいえ! 折角いらして下さったのに、私の方こそご期待に沿えずごめんなさい、マダム」

 アンジェラは丁寧な言葉遣いと立ち振る舞いで、ミセス・ケアに対応する。

「本当はあのまま帰るつもりだったけど、お店を出たところでアドニスさんに声を掛けられてね。年甲斐もなくときめいてしまったわ」

 おっほっほと品良く笑う淑女に、いやいやおキレイですしー、と引きつった愛想笑いを返すアンジェラ。

 熟女好きが認定される前に、とっとと本題に入ってくれというアドニスの願いが通じたのか、ミセス・ケアはようやく本題を切り出した。

「実はアンジェラさん。折り入ってあなたに、お願いしたい事がございます」

「なんでしょう?」

「私の家に来て頂いて、『右手のためのピアノ独奏曲』を弾いては頂けないでしょうか?」

 きょとんとするアンジェラ。すぐに意味を理解すると、首を大きく横に振った。

「いやいやいや。あの、だからさっきも言いましたけど私、その曲弾けなくて……」

「アドニスさんからも伺っています。それでも、私はあなたにお願いしたいのです」

「その~、もしご自宅で聴きたかったらこっちのア――いっつ!」

 微笑みの仮面はそのままに、アドニスは思いっきりアンジェラの足を踏み付けた。

「ミセス・ケア。まずはその理由(わけ)を、話して頂けますでしょうか」

 突っ伏して痛みに耐えるアンジェラに代わり、アドニスが話を促す。

「分かりました。実は私には二十五歳になる息子がおりまして。名をハーディと言います」

 ミセス・ケアが涙ながらに語った息子ハーディの話は、大体こんなところだ。


 若い頃から軍人として国のために尽くしてきたハーディは、任務で左腕を負傷した。医師の診断では、彼の左腕は神経が切断されていて、一生治る事はないと言われてしまった。

 失意の中、軍を退役せざるを得なくなったハーディは、たまたまメルチ・グリーンフィールドという左手を失ったピアニストを知った。

 『右手のためのピアノ独奏曲』という、右手だけで弾くピアノ曲で音楽界にカムバックした話は、同じ境遇のハーディを大いに勇気づけた。是非その曲を聴きたいと願ったが、既にメルチは謎の失踪で表舞台から姿を消し、他に弾けるピアニストもほとんどいない事を知った。

 諦めざるを得ないハーディは、その後体調が悪化。家に引きこもりがちになってしまう。

 しかしそれは何かの病気に罹ったわけではなく、左腕を失った精神的ショックから立ち直れていないからだと、母であるミセス・ケアは感じていた。

 可哀想な息子のために、『右手のためのピアノ独奏曲』を聴かせてあげたい。そうすればハーディの中で何かが変わり、立ち直るきっかけになるかもしれない。

 早速ミセス・ケアは、弾いてくれるピアニストを探し始めた。

 しかし『右手のためのピアノ独奏曲』が弾けるピアニストなんて、知る由もなく。知り合いのピアニストに相談しても、こんな変態曲、弾こうと思う人はいないだろうと言われてしまった。

 途方に暮れていたところ、ダウンタウンにあるピアノバー『クレイジールイ』の事を伝え聞いた。

 そのピアノバーでは客のリクエストを受け付けてると聞き、無理を承知でリクエストに来た――というわけだ。


「ああ、それならア……ったーーい!」

 話を聞き終わるなり声を上げたアンジェラの足を、もう一度思いっきり踏むアドニス。踏んだ勢いのまま立ち上がり、ミセス・ケアに申し出る。

「ちょーっとだけ、彼女と話をしてきます。ちょーっとだけ、お待ちくださいマダム」

 痛みで左足がカクカクしているアンジェラを引き連れて、テーブル席からカウンターバーに移動する。スツールに座るまでもなく、アンジェラは立ったまま抗議の声を上げた。

「ちょ……何よさっきから! いちいち踏まないでよ!」

「アンジェラ。君にその気があるなら、俺が君に『右手のためのピアノ独奏曲』を教える」

 一転、シリアスな口調で迫るアドニス。いきなりの話に、アンジェラは戸惑った表情を見せる。

「ど……どうしてそんな事……そもそも私の指じゃ、弾くの無理って言ったでしょ!」

「たしかに俺なら、下手くそなりに息子さんの前で弾けると思う。でもアンジェラ、君はメルチの娘だ。この事実を知った今、アンジェラこそがこの話を受けるべきだと思うんだ。それに俺自身、何度も君のピアノを聴いて確信してる。アンジェラなら『右手のためのピアノ独奏曲』を弾けるようになるって」

 出会って一週間。アドニスはアンジェラに対し、軽口を叩きあう友達ポジションは確保した。しかしここは一歩、その枠を大きく踏み越える。

 具体的には、真剣な眼差し。エメラルドの瞳が、スカイブルーの瞳を捉えて離さない。

 アンジェラは、場を支配する甘酸っぱい雰囲気に気が付くと、頬を染めて俯いた。

「ダメよ、たぶん。今までだって、何度も挑戦してきたけど……」

 力ない理由を呟く少女の両肩に、アドニスは優しく手を置いた。アンジェラの身体は電流が走ったかのようにビクッと跳ね、反射的にアドニスを見上げる。

「大丈夫。俺が教えれば、必ずアンジェラは弾けるようになる。これは君の言う絶不調から脱却する、大きなきっかけになると思うんだ。安心して。もしダメだったとしても、その時は俺が代わりに弾く。でも諦める前に、もう一度チャレンジしてほしいんだ」

 肩を掴まれ耳まで真っ赤になったアンジェラは、アドニスの真意が掴めず目を泳がせる。

 ひとしきり全方向に泳がせた結果、再び俯く。そして――。

「本当に私、弾けると思う……?」

 上目遣いで問いかける。そのスカイブルーの瞳には、アドニスだけが映っている。

 そう、アドニスだけは気付いていた。

 カウンターバーの二人が、いつの間にか酒場の注目を集めている事を。

 オヤジ連中が固唾を飲んで、二人の様子を見守ってる事を。

 グラスを磨いていたマスターが、カウンターの下に隠れて聞き耳を立てている事を!

 シャンパンボトルを持ち寄って、何人かのオヤジがアンジェラの背後に集まってる。アドニスと目が合うと、口に人差し指を立て「しーっ」の合図を送ってくる。

「もちろんだ。アンジェラのピアノは音が綺麗だし、何より表現力がある。きっと右手の曲が弾けるようになれば、俺よりもいい演奏ができる。俺もそれが聴いてみたい」

 嘘ではない。相手を説得する時は、何よりも真実の言葉が大切だから。伝えていない真実も、あるだけで。

「そ……それなら私、やってみ――」

「お待たせしましたマダム!」

 どうにか言質げんちを取ると、アドニスは風のようにミセス・ケアの元に舞い戻っていった。

 置いて行かれたアンジェラは、え? あ、うん、やるけど……私、やるの? という顔で、両肩グワシ展開の唐突な終了に付いていけてない。オヤジ達は口々に、「なんだつまらん」「結局ピアノの話かよ」「告白でもするのかと思った」と、それぞれの会話に戻っていく。シャンパンボトルは三本とも、マスターに突き返された。

「アンジェラにお任せくださいマダム! 彼女の演奏を聞いたら、息子さんも飛び上がって喜ぶ事でしょう!」

「よろしいんですか!? アンジェラさん! 本当に感謝します。ありがとう、ありがとう!」

 アンジェラがテーブルに戻ってくるなり、ミセス・ケアは、ぱあっと五歳くらい若返った勢いで手を差し伸べてくる。

「やっぱりお弾きになられるんですね! あなたに頼んで本当に良かったわ!」

「あったり前じゃないですかー。彼女、実はここだけの話――」

 あまりの急展開に、取られるままミセス・ケアの手を握っていたアンジェラだったが、アドニスの言葉でハッと我に返る。

 必死で止めようとする彼女を尻目に、アドニスは嬉しそうに言った。

「『右手のためのピアノ独奏曲』作曲者メルチ・グリーンフィールドの娘、アンジェラ・グリーンフィールドなんですから‼」

「まあああっ!」

 アンジェラの目の前に、更に十歳ほど若返ってしまったミセス・ケアの笑顔。

 片翼のピアニスト・メルチの娘は、張り付いた笑顔はそのままに、アドニスのロックグラスを奪い取る。そのまま一気に、喉奥に流し込んだ。

 呆気に取られる二人に向き直ると、アンジェラは半ばやけっぱちに言い放った。

「まーかせてください! 息子さんの笑顔、私が取り戻してあげます‼」


* * *


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