2-1 ミズ・ジャグリーン
「おはようアンジェラ。あなた酷い顔してるわよ、寝不足なの?」
ネグリジェ姿でダイニングルームに現れたミズ・ジャグリーンは、朝食が並べてあるテーブルに着くなり、眉をひそめた。
ジャグリーン家の朝食はいつも遅く、だいたい午前一〇時頃。それもあってアンジェラは遅くまで『クレイジールイ』で遊んでいられるわけだが、今朝は目の下にクマを作ってしまっていた。
アドニスとの連弾はアンジェラの身体を芯から興奮させてしまったようで、帰るなりベッドに潜り込むも眠気は一向にやって来なかった。それどころか瞼の裏に浮かぶのは、連弾中に盗み見た彼の横顔。少年のように夢中になってピアノを弾くあの笑顔を思い出すたび、アンジェラは手足をバタつかせ悶え、とても寝るどころではなかったのだ。
「えへへ、ごめんなさーい。後で顔、洗ってきまーす」
「全くあなたは。どうせまた恋愛小説でも読んで、夜更かししていたのでしょう!? ロンドンコンペの課題曲、出来はどうですか?」
「ほぼ、完璧です!」
「嘘おっしゃい。あなたの『ほぼ』は幅が広すぎるのよ。本当に分かってる? アンジェラ。これが最後のチャンスなのですよ?」
「分かってますってば。だからこうして寝る間も惜しんで……」
「惜しんで?」
「恋愛小説で、表現力を付けてます!」
親指を立て自信満々言い放つアンジェラに、配膳を務める二人のメイドは吹き出してしまう。
ミズ・ジャグリーンは深い溜息を吐くと、持っていたテーブルナイフを上下に振りながら、お小言モードに切り替わる。
「あのねぇアンジェラ……今度のロンドンコンペは、あのマーベル・フェイズがゲスト審査員として参加するのよ。あの子、あなたと同じ十七歳でしょ」
「そうれふね」
パンを頬張りながら緊張感のない相槌を返す、お抱えピアニスト見習い。その姿に、ミズ・ジャグリーンのお小言はますます続いていく。
「片や十七歳にして特別な後ろ盾もなく、音楽界にその名を刻んだマーベル・フェイズ。片や十七歳にして恋愛小説にうつつを抜かす、異才ヴィシュタインの弟子の娘のあなた。同じ年月過ごしてきて、どうしてこうも違うのよ! 悔しくないの? 血統的には、あなたの方が優れているはずなのよ!?」
「ピアニストに血統なんて関係ないって事は、その十年に一人の天才、マーベル・フェイズが証明してるじゃないですか。マーベルの演奏は次元が違うっていうか、その旋律はまるでファンタジー! 思い出すだけで恋しちゃうような――」
「だから! その恋愛脳を止めなさいって言ってるの!」
「ひ、酷い……ミズ・ジャグリーンだって私が貸した恋愛小説! 十巻一晩で読破して、次の日一日寝てたじゃないですかー!」
「わ……私は、いいのよ。仕事はちゃんとこなしているし、夫に先立たれているし……」
「最新十一巻。出たんですよ、そういえば。ドロッドロでしたよ、のっけから~」
「ちょ、え!? 十巻もかけてやっと結婚したのに? ありえないわ、そんな展開……」
「奥様。そろそろご準備頂きませんと、本日の農園運営会議に間に合いません。お急ぎを」
メイドの一人、サラがティーポッドを持ちながら主人に注意を促す。
「え!? もうそんな時間? 紅茶はいいわ。それより着替えるから手伝って。アンジェラ、ちゃんと練習しておくのよ。あと――」
「ブツはお納めしときやすぜ」
「さわりだけでも!?」
「赤髭の侯爵と~?」
「いやあぁああああ! ドロドロ気になるうぅぅ‼」
「奥様、いけません! 帰ってから……帰ってからにして下さい!」
サラに引きずられ、ミズ・ジャグリーンの悲鳴が遠ざかる。本日のお小言回避作戦は大成功だった。
「アンジェラ……アンタもう最高。我慢できなくて吹き出しちゃったわ」
もう一人のメイド、カーラがニヤニヤしながら、アンジェラの紅茶を入れ直してくれる。
「弱み、握っちゃったからねー。ああ見えて恋する乙女なんですよ、ミズ・ジャグリーンは」
「またそんな事言って……いくら仲良くなったからって、約束には厳しい人だからね。今度のコンクールで優勝しないと、アンタ本当に家から追い出されるよ」
「まー、その時はその時!」
その時のために、毎晩抜け出して下準備しているとも言えず。アンジェラは立ち上がると、自分の食器を台所まで運んでいく。
「あー、いいって。紅茶ゆっくり飲んでな、せっかく入れ直してやったんだから」
「ありがとうカーラ、でも、自分の分だけでもーっ!」
いそいそと食器を片付けるアンジェラを見て、カーラは苦笑いする。
「たとえ追い出されても、アンタならどこでも上手くやっていけるか」
* * *
「うーん、ちょっと違うのよねー、表現力っていうか演出力っていうか……もう一度ここから弾いてみてちょうだ~い」
アンジェラの通算五人目となるピアノ教師は、とにかくもう何もかも、段違いに酷かった。何が悲しくて今更、指力強化練習と称してハノンを弾かなければならないのだろうか。しかもハノン弾いて、表現力も演出力もあるかっ!
ミズ・ジャグリーンは、アンジェラがコンクール入選を逃すたびにピアノ教師を変えてきた。そしてそれら全ての教師が揃いも揃って、げんなりするような指導方針を打ち出てくる。
それでも、一週間前から来てるこのカマっぽい先生に較べれば、まだ今までの方がましだった。
ハノンを弾きながら、アンジェラはミズ・ジャグリーンとの出会いを思い出す。
突如現れた人生の先輩 (未亡人三十七歳)は、初対面の十六歳少女に聞くも涙、語るも涙な自分語りを始めていた。
曰く。
若き日のミズ・ジャグリーンは、ピアニストを目指していた。しかし自分に才能がないと自覚するとその夢を断念。女性の社会進出を果たし、今や上流階級の一員となった。
それでも、ピアノに対する情熱は変わらない。
今度はパトロンとして、若く才能あるピアニストの成長を手助けしたいと考えていた矢先、孤児院併設の教会で、讃美歌を演奏するアンジェラを見つけた。
この素晴らしい才能を、こんなところで燻らせるわけにはいかない。アンジェラを世に知らしめることこそ私の使命と、天啓を受けたそうだ。
当時は降って湧いた幸運に素直に感激していたアンジェラだったが……今ならば、ミズ・ジャグリーンがピアニストを断念した理由も察しがつく。
ミズ・ジャグリーン、あなたはピアノの才能が無かったわけじゃない。
あなたがいいと思って選んだ先生が、ことごとく、才能という名の芽に除草剤ぶちまけるタイプの先生だったんだよ!
言いたい事は多々あるが、結果が出てないのはアンジェラ自身の責任だ。いちいちカマっぽい指導を聞き流しながら、少女は指先の罰を甘んじて受け入れ、ハノンを演奏していく。
午前中のこれが終われば、午後からは課題曲の練習だ。どちらも気は進まないが、ハノンに較べればまだ課題曲の方が良い。
しかし午後になると、途端にアンジェラの演奏は精彩を欠いてしまう。
今回のコンクール課題曲は、これでもかこれでもかとオクターブのフォルテが並んでいる。手が小さいアンジェラにとって、まさに鬼門。
メリハリがないわぁ、安定感もっとちょうだい、もっと強く、あなたの情熱をぶつけてぇ! と一人盛り上がるカマ先生が気になって、余計に集中できない。
それでもなんとか弾き終えて、指摘された事を楽譜にメモ、そしてまた演奏。
指を広げて力任せに打鍵すると、音は大きくなるがタッチが荒く、ミスタッチに繋がってしまう。カマ先生にそう言っても、そこは何度もやって指を広げていくしか~と、当たり障りのない事しか言わない。
数ページに渡る嫌がらせのようなオクターブ連打に出くわすたびに、アンジェラの脳裏には、五線譜の底なし沼にズブズブと沈んでいく自分の姿が浮かび上がる。
強く弾けば指が疲れる。鍵盤が重くなる。またミスする。まさに絶不調スパイラル。
いや。実際、調律されたばかりの『クレイジールイ』のピアノに較べると、このピアノの鍵盤は重いし打鍵してもすぐに戻ってこない。弾きやすさと楽しさは直結するんだと、改めて感じてしまう。
ああ、またアドニスと連弾したい。
今度はもっと上手なアレンジで弾いて、びっくりさせてやりたい。
そして、心の底からピアノを楽しむ彼の横顔を……少年のような笑顔をまた見たい。
クネクネ動く除草剤を適当にあしらいながら、早く夜にならないかなと、十七歳の少女は胸を膨らませた。
* * *