1-4 ピアノ・ステージ
「それじゃ、今日はちょっと早いけど最後の曲ね。もちろん最後は『鎮魂歌』です」
タオルで汗を拭いながら、アンジェラが最後の曲を演奏しようとした、その時。
「ちょーっと待ったあー!」
アドニスはカウンターから大声を上げて、ピアノステージへ小走りで向かう。酒場の視線は、見慣れない闖入者に集中する。
やっときたか、という内心とは裏腹に、アンジェラは「おーなんだなんだ?」とわざとらしく出迎えてくれる。
アドニスは笑顔でピアノステージに上がると、大きな身振り手振りで話し始めた。
「親愛なるイングレス連合王国紳士諸君、聞いてください! 私はしがないピアノ調律師のアドニス。本日、私がこのピアノを調律した時に、アンジェラからピアノ勝負を申し込まれました!」
どこを向いても、オヤジ達の胡散臭そうな目。
まるで若さと顔だけのピアニストくずれが、娘の彼氏だと言って家に上がりこんできたかのような、目、目、目。
想像以上のアウェー感に心折られそうになりながらも、アドニスは声を張って自分を奮い立たせる。
「確かに今夜の演奏は素晴らしかった、感動した! だけどこれではまだ、私との決着が付いたとは言い難い。だから皆様には、勝負の審判をしてほしい!」
アドニスの口上に、視線だけでなくブーイングが立ち始める。オヤジ達は口々に「男はお呼びじゃないぞ~」とか、「いてこますぞコラ!」とか、「アンジェラちゃんマジ天使」とか聞こえてくる。
それ見た事かと、余裕の笑顔で成り行きを見守るアンジェラ。アドニスは芝居がかった動きで彼女の手を取ると、エスコートしてピアノ椅子から立たせた。もちろんオヤジ達のブーイングは、一層大きくなる。
「高音の方で、途中から入ってきて」
こっそりアンジェラに耳打ちすると、アドニスはピアノの前に座った。
鍵盤を叩くと、男性ピアニスト特有の圧倒的音量に、ブーイングはあっさり飲み込まれてしまう。
派手なイントロは、誰もが好きなジャズの定番曲。親しみやすいメロディに小気味良いアレンジが加わると、口うるさい常連客もヤジを止めピアノの音に聴き入っていく。
上質な演奏を下支えする長い指、速度、力強さ。演奏しながらリズムに乗せて身体を揺するアドニスにつられ、オヤジ達も顎で、指で、足で。ついついリズムを取ってしまう。
アンジェラは、アドニスの後ろで立ったまま目を丸くしている。超スピードで鍵盤上を踊る調律師の指から、目が離せないのだ。
アドニスは、座る位置を左にズラす。背後に立つアンジェラに、入ってこいと背中で語り掛ける。それが伝わったのか、少女はアドニスの背後から恐る恐る右手を伸ばした。
高音部の鍵盤を一音、Cマイナーセブンスのタイミングを見て叩く。
更にもう一回、今度は和音。次は一小節。
アンジェラが後ろからちょっかい出し始めたのを見て、観客のボルテージが上がってくる。
アドニスは弾きながら振り返り、今度は背中じゃなく目で語る。ビビッてないで、早く入ってこいアンジェラ!
「アンジェラ! 調律師にピアニストの実力、見せてやれ!」
囃し立てる観客に大きく頷くと、アンジェラはノースリーブの腕をまくりあげるパフォーマンスを見せ、アドニスの隣に座った。
二人は一瞬、目線を交わす。それは、戦いの火蓋が切って落とされた合図。
アドニスはいきなりテンポを上げ、入りにくくする。そんな手が通じるかと、アンジェラの指が鍵盤上で少し踊り、完璧なタイミングで高音を響かせる。二人の連弾が始まると、音量も旋律も、曲の規模感が一気に膨れ上がる。
贅沢なピアノの旋律は、観客の感情を一気に高ぶらせ、あちこちから野太い歓声が上がってくる。
一人、また一人と立ち上がって、脂肪のついた身体が激しくシェイクされていく。
アドニスは大人の余裕で軽妙なアレンジを連発し、アンジェラは少女の感性そのままを鍵盤にぶつける。二人を核として爆発するような音と高揚感がピアノバーを包み、観客とステージの一体感が演奏を盛り立てる。
二人とも必死、それでいて笑顔。
連弾の興奮でアドニスは白い歯を零し、アンジェラの頬はピンク色に染まっている。
ハイレベルな連弾演奏は留まる事を知らず、どこまでも速く高く上りつめる。観客の盛り上がりが最高潮に達したところで、一拍の余韻を作りフィナーレへ。
派手なグリッサンドを交互に決めて、最後にもう一度、二人同時のグリッサンドで締めくくると、ピアノバーにいる全員が総立ちで拍手を送る。
流れる汗もそのままに、二人は一緒に立ち上がると、舞台の終劇のように恭しくお辞儀した。
最高の演奏を聴けるなら、誰にとっても勝負なんてどうでも良かった。
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