表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ヴィシュタイン・コピーライト  作者: トモユキ
第一部 第一章 アドニスの序曲(オバーチュア)
4/100

1-3 ピアノバー『クレイジールイ』

 その日の夜。

 アドニスがピアノバー『クレイジールイ』の扉を開けると、ペール・エールの香りと、小気味良いジャズの音が出迎えてくれる。

 テーブルは満席。なんとかカウンター端のスツールを確保すると、中で四つのエールジョッキを用意してるマスターに、手を振って挨拶する。マスターは軽く顎を上げて挨拶を返すと、泡作りに視線を戻した。マスターにオーダーするのは諦め、アドニスはスツールを回転させ、華やかなピアノステージに目を向けた。

 そこには、蒸気灯のスポットライトを浴びて、楽しそうにピアノを弾く金髪碧眼の少女がいた。

 薄化粧の顔は大人びて、ノースリーブから覗く白磁の肩は細く艶めかしい。ウエストを飾るセピア色のリボンはきゅっと細く締め上げられ、その分黒いワンピースを突き上げる胸をより大きく見せている。

 艶やかなステージ衣装と、無邪気な笑顔。アンジェラは、大人の女性になりきる一歩手前の美しさ、若々しさを、ピアノステージから放っていた。

 いや、それよりも――アドニスは、今演奏されてる曲の方に気を取られてしまう。

 聴き覚えあるメロディは、定番のスローバラードだったはず。でも今は、アンジェラのアレンジが加わる事によって、アップテンポなジャズピアノになっている。

「こらーっ、アンジェラ! ワシのバラードをジャジーに弾くなー!」

 恰幅のいいオヤジが、エールジョッキを片手にピアノステージにヤジを飛ばした。周りの客から笑い声が上がる。

「だって毎回おんなじリクエストだから、飽きちゃったんだもーん!」

「ちゃんと真面目に、弾けー!」

 オヤジのヤジを受けて、アンジェラは曲の途中から、じょじょにスローバラードに戻していった。すると酒場のあちこちから、もそもそっと不満の声が上がる。「ありきたり~」とか、「グルーヴ感求む~」とか、「俺もう寝そう」とか。

 それに呼応するように、曲のテンポがそろそろと速くなっていく。派手なアレンジが付け加えられると威勢の良い歓声が上がり、ピアノはすっかりジャジーな曲調を取り戻してしまう。

「なんでだーっ‼」

 さっきのオヤジが再び叫び声を上げると、大笑いが巻き起こった。

 カウンターを背に盛り上がるステージを見ていると、アドニスの背後でコトリと音がした。振り返ると、ロックグラスにウイスキーが注がれている。

「今日のお嬢ちゃんはノリノリだよ。お兄さんが、ピアノを調律してくれたおかげじゃな」

「ありがとう。でもどんなにピアノを調律しても、看板娘には敵わないよ」

 マスターに礼を言ってからグラスに口をつけると、スモーキーな香りとともに華やかな甘さが口に広がる。これは相当上質な、スコッチ・ウイスキーだ。

「おまけにこれだけ上等な蒸留酒(モルト)が飲めるんだから。店が流行ってるのも納得だ」

「いくら美味い酒を出しても、これだけの客入りは望めんさ。今や『クレイジールイ』の主役は、名実ともにお嬢ちゃんだ」

 マスターの細めた目は、孫娘でも見てるかのように背後のステージに注がれている。

 今度は、誰もが知ってるメジャーな曲がリクエストされた。アンジェラは軽い調子で引き受けると、イントロから大胆なアレンジを付け加え、独自の解釈で弾き始めた。

 客は驚いたり笑ったり、あれは全然違うんだぞと仲間に能書きを垂れてる者もいる。

 ただ楽譜をなぞるだけじゃなく、遊んでるように弾く事で会話やヤジを生み、それに呼応してまた違う演奏を披露する。そうして生まれたステージの一体感を、お客さんもアンジェラも楽しんでいる。

「上手いもんだな。全部即興なんだろう?」

 音楽をつまみにグラスを傾けていたマスターは、我が子の事のように微笑んだ。

「そうじゃ。きちっとした基礎があるから、ああいう芸当もこなせるんじゃろう。お嬢ちゃんの腕は本物だ。今度のコンクールでも、上位に食い込めるんじゃないかのお」

 マスターは、壁に貼ってあるポスターを顎で指した。

『第十四回ロンドンピアノコンペティション』

 ピアニストの登竜門として名高い、ロンドンで一番大きいピアノコンクールだ。出場するだけでも厳しい審査があり、他コンクールの優勝実績、または後ろ盾となるパトロンの強力な推薦が必要だ。

 しかも今回のロンドンコンペは、歴代最年少の十歳で優勝を果たしたマーベル・フェイズが、ゲスト審査員として呼ばれている。審査後には彼女のミニ・コンサートも予定されており、ポスターにもその宣伝とマーベルの写真が、大きく掲載されている。

 現在十七歳になったマーベルは、金髪赤眼の可憐な美少女に育っていて、コンサートのチケットはいつも完売。そんなマーベルの演奏が聴けるとなれば、今年のロンドンコンペは過去最高の客入りになるだろう。

「すごいな……出場するって事は、アンジェラはどこかのコンクールの優勝者?」

「いいや。お嬢ちゃんは世話になってるパトロン――ミズ・ジャグリーンの推薦で出場する」

「へぇ。アンジェラが優勝したら、この店の客も大喜びだな」

「それが、そうでもないんじゃよ……」

「え?」

 残ったウイスキーを一気に飲み干すと、マスターは苦笑いする。

「なぜかは、直接聞いてもらった方がよいじゃろう。そろそろステージも終盤じゃ」

 アドニスがピアノステージを振り返ると、丁度そのタイミングでヤジに振り返ったアンジェラと、ばったり目が合った。額に玉の汗を浮かばせながら、「どうだ、すごいでしょー!」と得意げな顔を向けてくる。すぐに鍵盤に向き直ると自称おこちゃまな指をフル回転させ、観客を盛り上げていく。

 アドニスの脳裏に、昼間の既視感が蘇る。白昼夢でも見ているかのように、少女の金色の背中が、古い記憶の背中と重なっていく。

 揺れる金髪、白い肩、屈託のない笑顔……。

「どうしたんじゃ?」

 マスターの声で我に返ると、アドニスはカウンターバーに向き直り、残りのウイスキーを喉に流し込んだ。

「なんでもない」


* * *


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ