1-3 ピアノバー『クレイジールイ』
その日の夜。
アドニスがピアノバー『クレイジールイ』の扉を開けると、ペール・エールの香りと、小気味良いジャズの音が出迎えてくれる。
テーブルは満席。なんとかカウンター端のスツールを確保すると、中で四つのエールジョッキを用意してるマスターに、手を振って挨拶する。マスターは軽く顎を上げて挨拶を返すと、泡作りに視線を戻した。マスターにオーダーするのは諦め、アドニスはスツールを回転させ、華やかなピアノステージに目を向けた。
そこには、蒸気灯のスポットライトを浴びて、楽しそうにピアノを弾く金髪碧眼の少女がいた。
薄化粧の顔は大人びて、ノースリーブから覗く白磁の肩は細く艶めかしい。ウエストを飾るセピア色のリボンはきゅっと細く締め上げられ、その分黒いワンピースを突き上げる胸をより大きく見せている。
艶やかなステージ衣装と、無邪気な笑顔。アンジェラは、大人の女性になりきる一歩手前の美しさ、若々しさを、ピアノステージから放っていた。
いや、それよりも――アドニスは、今演奏されてる曲の方に気を取られてしまう。
聴き覚えあるメロディは、定番のスローバラードだったはず。でも今は、アンジェラのアレンジが加わる事によって、アップテンポなジャズピアノになっている。
「こらーっ、アンジェラ! ワシのバラードをジャジーに弾くなー!」
恰幅のいいオヤジが、エールジョッキを片手にピアノステージにヤジを飛ばした。周りの客から笑い声が上がる。
「だって毎回おんなじリクエストだから、飽きちゃったんだもーん!」
「ちゃんと真面目に、弾けー!」
オヤジのヤジを受けて、アンジェラは曲の途中から、じょじょにスローバラードに戻していった。すると酒場のあちこちから、もそもそっと不満の声が上がる。「ありきたり~」とか、「グルーヴ感求む~」とか、「俺もう寝そう」とか。
それに呼応するように、曲のテンポがそろそろと速くなっていく。派手なアレンジが付け加えられると威勢の良い歓声が上がり、ピアノはすっかりジャジーな曲調を取り戻してしまう。
「なんでだーっ‼」
さっきのオヤジが再び叫び声を上げると、大笑いが巻き起こった。
カウンターを背に盛り上がるステージを見ていると、アドニスの背後でコトリと音がした。振り返ると、ロックグラスにウイスキーが注がれている。
「今日のお嬢ちゃんはノリノリだよ。お兄さんが、ピアノを調律してくれたおかげじゃな」
「ありがとう。でもどんなにピアノを調律しても、看板娘には敵わないよ」
マスターに礼を言ってからグラスに口をつけると、スモーキーな香りとともに華やかな甘さが口に広がる。これは相当上質な、スコッチ・ウイスキーだ。
「おまけにこれだけ上等な蒸留酒が飲めるんだから。店が流行ってるのも納得だ」
「いくら美味い酒を出しても、これだけの客入りは望めんさ。今や『クレイジールイ』の主役は、名実ともにお嬢ちゃんだ」
マスターの細めた目は、孫娘でも見てるかのように背後のステージに注がれている。
今度は、誰もが知ってるメジャーな曲がリクエストされた。アンジェラは軽い調子で引き受けると、イントロから大胆なアレンジを付け加え、独自の解釈で弾き始めた。
客は驚いたり笑ったり、あれは全然違うんだぞと仲間に能書きを垂れてる者もいる。
ただ楽譜をなぞるだけじゃなく、遊んでるように弾く事で会話やヤジを生み、それに呼応してまた違う演奏を披露する。そうして生まれたステージの一体感を、お客さんもアンジェラも楽しんでいる。
「上手いもんだな。全部即興なんだろう?」
音楽をつまみにグラスを傾けていたマスターは、我が子の事のように微笑んだ。
「そうじゃ。きちっとした基礎があるから、ああいう芸当もこなせるんじゃろう。お嬢ちゃんの腕は本物だ。今度のコンクールでも、上位に食い込めるんじゃないかのお」
マスターは、壁に貼ってあるポスターを顎で指した。
『第十四回ロンドンピアノコンペティション』
ピアニストの登竜門として名高い、ロンドンで一番大きいピアノコンクールだ。出場するだけでも厳しい審査があり、他コンクールの優勝実績、または後ろ盾となるパトロンの強力な推薦が必要だ。
しかも今回のロンドンコンペは、歴代最年少の十歳で優勝を果たしたマーベル・フェイズが、ゲスト審査員として呼ばれている。審査後には彼女のミニ・コンサートも予定されており、ポスターにもその宣伝とマーベルの写真が、大きく掲載されている。
現在十七歳になったマーベルは、金髪赤眼の可憐な美少女に育っていて、コンサートのチケットはいつも完売。そんなマーベルの演奏が聴けるとなれば、今年のロンドンコンペは過去最高の客入りになるだろう。
「すごいな……出場するって事は、アンジェラはどこかのコンクールの優勝者?」
「いいや。お嬢ちゃんは世話になってるパトロン――ミズ・ジャグリーンの推薦で出場する」
「へぇ。アンジェラが優勝したら、この店の客も大喜びだな」
「それが、そうでもないんじゃよ……」
「え?」
残ったウイスキーを一気に飲み干すと、マスターは苦笑いする。
「なぜかは、直接聞いてもらった方がよいじゃろう。そろそろステージも終盤じゃ」
アドニスがピアノステージを振り返ると、丁度そのタイミングでヤジに振り返ったアンジェラと、ばったり目が合った。額に玉の汗を浮かばせながら、「どうだ、すごいでしょー!」と得意げな顔を向けてくる。すぐに鍵盤に向き直ると自称おこちゃまな指をフル回転させ、観客を盛り上げていく。
アドニスの脳裏に、昼間の既視感が蘇る。白昼夢でも見ているかのように、少女の金色の背中が、古い記憶の背中と重なっていく。
揺れる金髪、白い肩、屈託のない笑顔……。
「どうしたんじゃ?」
マスターの声で我に返ると、アドニスはカウンターバーに向き直り、残りのウイスキーを喉に流し込んだ。
「なんでもない」
* * *