1-2 今夜の約束
その曲はアドニスが聴いた事がない、低音ベースのオリジナル曲だった。
柔和な微笑みを浮かべるアンジェラは、長い白金の金髪を静かに揺らしながら、優しいタッチで厳かな響きを紡ぎだす。情感たっぷりに練り上げられた旋律が、開店前のピアノバーを満たしていく。
技術的に難しい曲ではなかったかもしれないが、実力の片鱗を感じさせる素晴らしい演奏だ。
アドニスは浅くテーブルに腰かけて、少女の演奏する後ろ姿を見つめていた。荘厳なメロディが遠い記憶を呼び起こし、揺れる金髪に既視感を覚えずにはいられない。
最後までしっとり曲を締めくくると、アンジェラは控えめな拍手を送るアドニスに、勢いよく振り返った。
「すごい! すごいよ、これ! 昨日までと全然違うピアノみたい!」
こうも素直に誉められると、アドニスの口角も自然と上がっていく。
「どのへんが良くなった?」
「音で言えば伸びがぐーんと良くなった感じだけど、なによりこのタッチ感! 弾いてて気持ちいいし、変に引っかかるとこなくさらさらと弾きやすい! 新品のピアノを弾いてるみたい!」
「それは良かった。アンジェラの演奏も良かったよ、オリジナルの曲だよね」
「うん、『鎮魂歌』っていう曲でね。子供の頃、ママから教えてもらった思い出の曲なの」
「すごく良かったんだけど、調律のチェックって意味で言えば、もう少し高い音階を使う曲を弾いてほしいかな。例えば、そうだなあ……」
「お、リクエストだね」
アンジェラは座ったまま、両手手のひらを前に出し「どうぞ!」のポーズで微笑んでいる。
さすがピアノバーのピアニスト。曲のリクエストには慣れてるようだ。
「俺の好きな曲で、『右手のためのピアノ独奏曲』……とか」
この曲は、事故で左手を失ったピアニスト、メルチ・グリーンフィールドのピアノ曲だ。その名の通り右手一本で弾くため、超人的な手さばきが要求される。
その物珍しさから一度は挑戦するピアニストは多いが、人前で演奏する者はほとんどいない。作曲者のメルチ自身、久しく表舞台に立っておらず、今ではほとんど弾き手がいない珍曲と言われている。
曲名を聞いた途端、少女の微笑みは苦笑いとなり、「ああぁ……」と自信なさげな声が漏れる。
「あの、ごめんなさい。知ってはいるんだけど、ほら」
アンジェラは、両手をひらひらと振って見せた。
「私の手の大きさじゃ、あの曲は弾けないんだ。何度かチャレンジはしたんだけどね……」
アドニスは、目の前ではためいている少女の手を取りマジマジと見た。
なるほど。可愛らしいという点では文句のつけようもないが、ピアニストとしては及第点ギリギリの大きさだ。
「ア……アドニスは弾けるの?」
アンジェラは恥ずかしそうに、手をひっこめながら訊く。
「大好きな曲だから、一応ね」
椅子に座るアンジェラの肩越し、立ったまま、アドニスは右手を伸ばした。
長い指が、鍵盤上を華麗に踊る。『右手のためのピアノ独奏曲』の何小節かが、さらっと弾かれていく。
「ほら」
アドニスは弾きながら、目の前の少女からマグマのような熱気を感じた。
それは演奏を聴いて発奮した……というよりも?
「……アンジェラ?」
「……いや」
「え?」
「いやいやいや! 確かに私の手は小さいから、こ・れ・は! 弾けませんよ。これはね? でもね、私だって手の大きさに左右されない曲なら、どんな曲だって弾けるんだから!」
アンジェラは勢い良く振り返り、オーバーアクションではったりをかましてくる。意外と負けず嫌いらしい。
「じゃあ……」
アンジェラと席を代わったアドニスは、両手をピアノの前にかざす。
「これは?」
アドニスは、バラキレフの『イスラメイ』を弾いた。
「……これは無理」
「え、これは?」
アドニスは、リストの超絶技巧練習曲第八番『荒々しき狩り』を弾いた。
「……これも無理」
「じゃあ、これは?」
アドニスは、ショパンのボロネーズ第六番『英雄ポロネーズ』を弾いた。
「……オクターブ、飛ばしていいなら……」
世界の難曲と言われるピアノ曲を、次々とピアノ調律師に弾きこなされ、アンジェラは柱によりかかって遠くを見つめていた。
「何もかも、このお子ちゃまな指がいけないのよ……」
「いやホントごめん。まさかどれも、弾けないなんて」
謝罪の言葉がナイフとなり、乙女のハートを傷つける。ついでにどこかのスイッチが入ったみたいで、アンジェラは必死になって反論する。
「そもそも自分で弾けるなら、最初から自分で弾きなさいよ!」
「アンジェラが弾いてくれた『鎮魂歌』がすごく良かったから、他の曲も聴いてみたかったんだよ」
「だったら! わざわざ難しいのばっかり選ばないで、もう少し手が小さくても弾ける曲にしてよ! こーんなに違うのよ!」
アンジェラはアドニスと手を合わせ、殊更大きさの違いを見せつける。確かにその差はあるけれど、男と手を合わせて真っ赤になってる乙女心の方が心配だ。バーのピアニストのくせに、随分ウブな反応をする。
「あーもー! そうだ!」
照れ隠しに大声を出してから、アンジェラは手を離した。
「今夜もう一度、ここに来なさい! 私のピアニストとしての実力、存分に見せつけてやるんだから!」
そう言って、今度は精一杯怖い顔を作ってアドニスを睨みつける。恥ずかしがったり捲くし立てたり、くるくる表情の変わる彼女を見てると、アドニスも少し意地悪したくなってくる。
「それはでも、フェアじゃないな」
「あら、どうして?」
「俺が調律したピアノは、みんな五割増しで良くなっちゃうからだよ」
「おー? 大した自信ね。でもそれを差し引いても、お客さんの前で弾くピアノってのはどういうものか、見せてあげるんだから!」
「じゃあ勝負しよう」
「勝負!? どんな?」
アドニスが不敵な笑みを浮かべて腕組みすると、アンジェラは分かりやすく色めき立つ。
「今夜、曲のインターバルで、俺がステージに上がってピアノを弾く。審査員はバーの客だ。どっちの演奏が良かったか、拍手で決めてもらおうか」
「ホントにそんなんでいいのぉ? ここは私のホームグラウンド、そして私は看板娘よ。あなたはよそ者で男の人。どっちがオヤジ受けするかなんて、演奏前からわかるでしょ」
「それを差し引いても、お客さんの前で弾くピアノってのはどういうものか、見せてあげるよ」
してやったりの得意顔。自分の言葉で煽られた事に気が付くと、アンジェラもニヤリと笑みを返す。
二人はしばし挑戦的な眼差しを投げ合って、お互いの本気度を品定めする。
「ステージは二十時よ、ブーイングの嵐の中、舞台に上げてあげるわ」
「今夜の客はラッキーだ。本物のピアノが聴けるんだからな」
ふと、アンジェラは店の柱時計に目を向けた。
「いっけない、もう十六時半!」
そう言って、持ってきた紙袋をバッと抱える。
「私、跳ね橋の上がる十七時前には家に帰らないといけないの。でも夜には戻ってくるから。約束だよアドニス! ギッタギタにしてやるんだから!」
「約束だアンジェラ。逃げも隠れもしないよ」
アンジェラは舌をちょろっと出すと、笑顔で手を振って階段を駆け上がっていく。騒がしい少女がいなくなると、バーはすっかり元の静寂を取り戻した。
まるで今の出来事が、夢や幻だったような錯覚を覚えるくらいに。
一人になったアドニスは、額に手を添えかぶりを振る。
「金髪のピアニスト、アンジェラ……か」
アドニスは気を取り直すとピアノに向き直り、鍵盤を叩いて整音作業を再開した。
そのエメラルドのような、翠眼を閉じて。
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