1-1 調律師とピアニスト
「そういうわけじゃ。あとはよろしく頼むよ」
初老のマスターは眠そうな目をしきりに瞬きさせると、アドニスに店の鍵を託し重い扉を開けた。
調律はうるさい作業だ。昼夜逆転している雇い主に、余計な気を遣わず作業できるのは、アドニスにとってもありがたい。階段を上った店の入口まで付き添い、マスターに手を振ると、地下に戻って防音対策用の鉄扉をしっかりと閉める。
アドニスはあらためて、ピアノバー『クレイジールイ』の店内を見渡した。
薄ぼんやりした蒸気灯に照らされ浮かび上がるのは、イスがさかさまに乗った数脚のテーブル、年季は入っているものの手入れが行き届いているカウンターバー。そして店の中央――ステージ上にひっそり佇む、年代物のグランドピアノ。
一際強いスポットライトが、木目に乗るニスの艶と、グランドピアノだけが持つ上質な存在感を照らし出している。
若い調律師はグランドピアノに近づくと、おもむろに天板と鍵盤蓋を開けた。
外観に古ぼけた印象がないピアノだったが、内部木材の様子や鍵盤のヤレ具合から、製造されて五十年以上経っている事が推測できた。昔の職人がこだわって作った、ビンテージ・ピアノならではの味わいが感じられる。
定期的に内部まで清掃しているのだろう。見えてる範囲では虫食いや汚れ、塵埃の類はほとんどなく、極めて良い状態だ。しかし安心するのはまだ早い。分解してみないと分からない問題はたくさんある。
アドニスは鍵盤蓋や譜面台など、邪魔になるパーツを手際良く外し、早速作業に取り掛かった。
ピアノ調律と言っても、弦のチューニングピンを回して音の調律をするのは、全体の一工程でしかない。ピアノ調律ではなく、ピアノメンテナンスという広い視野で捉えると、必要な工程は六つある。
すなわち、清掃、鍵盤調整、ハンマーアクション調整、ダンパー調整、調律、そして整音だ。
これら全ての工程を完璧にこなすとなると、最低二日はかかってしまう。そのため依頼人の要望とピアノの状態に合わせて、ある程度取捨選択が必要になってくる。
今回の必須項目は内部清掃、鍵盤調整、調律……あとは時間が許す限り、整音だろう。ピアノバーの営業時間に間に合わせるとなると、これでギリギリの作業量だ。
「さて、と」
作業工程の見積が頭の中で出来上がったところで、アドニスはシャツの袖を捲り上げて、鍵盤とアクションメカニックを慎重に引き出した。
* * *
午前中から初めて、時刻はもう十六時。アドニスは最後の工程である整音調整に入っていた。
パーツ清掃は想定より時間がかかり、鍵盤も経年によるガタツキが出始めていて調整に手間取った。しかし弦の調律においては大きな狂いもなく、大幅に作業時間を短縮する事ができた。このまま慎重に整音を進めたとしても、営業開始の十九時には十分間に合うだろう。
整音とは、鍵盤と連動して弦を叩くアクションハンマーの弾力を復活させる作業だ。
ハンマーの頭はフェルト製で、経年により徐々に固くなっていく。フェルトが固いと音も硬くなるので、ピッカーと呼ばれる道具で針を刺し、適度な隙間を作ってやればいい。
音の高さを耳で聴きわける調律と違い、音の硬さを感性で聴き分ける整音は、高い集中力が求められる。没我の境地で耳を澄まし、硬いと感じたら鍵盤を引き出しまた戻す。
一連の動作を淀みなく進めていると――。
「わっ!」
「うわっ!?」
背後からの大声に、アドニスは思わず声を出して驚いた。振り返るとそこには、長い金髪の可愛らしい少女がいた。
年はアドニスより少し若い、十七歳くらいか。野菜や果物がいっぱい入った紙袋を抱えながら、アドニスの驚きっぷりに、スカイブルーの目を大きくして逆に驚いている。
少女は手近のテーブルに紙袋を置くと、狼狽するアドニスに謝った。
「驚かせてごめんなさい。何度声をかけてもちっとも聞こえていないようだったから、つい」
悪戯っ子のように両手を顎の前で合わせると、その切っ先を薄い桜色の唇に押し当てる。アドニスの心臓は早鐘を打ったまま、なかなか言葉が出てこない。
「ピアノの調律、してるの?」
「あっ……ああ。こっちこそ、気が付かなくてすまなかった。ピアノ調律師のアドニスだ」
「ピアニストのアンジェラよ。すごいね。こんなにピアノ分解してるとこ、初めて見た」
アンジェラは、ピアノ椅子に座るアドニスの肩越しに身を乗り出し、普段見る事のないピアノ内部を覗き込んだ。前のめりで接近する少女の香りに、アドニスは注意代わりの咳払いをする。少女もそれで気付いたのか、ぱっとその身を引いた。
「私、昨日もこのピアノ弾いてたけど、音に違和感なんてなかったわ。そんなに良くなかったの?」
「ああ、うん。それなら」
アドニスは鍵盤を所定の位置に戻し、簡易的に弾けるようにする。
「ちょっと弾いてみてよ」
アンジェラは剥き出しの鍵盤を見て、むくむくと湧き上がる好奇心に瞳を輝かせる。
「まーかせーなさーい」
少女はピアノ椅子に座ると両手を伸ばし、何の迷いもなく弾き始めた。