その5
続きです
私があのおじさんを意識するようになったのは、つい最近のことだ。もちろん、悪い意味で、である。それまでは何の興味も無かった。たぶん本当に見えていなかったのだと思う。何気に過去のシフト表を見て、同じ時間帯のシフトがけっこうあったことに驚いたぐらいだ。たぶん施設内ですれ違ったり、場合によっては一緒に介助するなんでこともあったに違いない。しかしそんなことはきれいさっぱり忘れていた。
私が勤める介護施設、紅楽苑では、入居者の入浴は午後に行っている。時間は2時間程度で、約20名の老人たちがお風呂に入る。老人たちの状態は様々で、私たちの手を借りなくても入浴できる方もいるが、傍でずっと介助しないといけない方も多いので、入浴介助はけっこう大変だった。
通常、入浴介助は3名の職員で行う。当番は持ち回りだが、週3回ぐらいはそれに当たる。不運なことに、今日は2日連続の当番だった。私は疲労感を感じながらも、Tシャツと短パン姿で大浴場に入った。後ろから声をかけられて、振り向くと、同じく当番の神月かんづきさんが両手を振りながら入ってきた。神月さんは私より6歳若い同僚だ。今年から三十路を超えた私が言うのもなんだが、神月さんは二十代の女性の中でも飛びぬけて美人だと思う。モデルでも、タレントでも、容姿を活かした仕事はいくらでもあるように思うのだが、本人は数か月前にこの施設に入ってきた。以前、なぜこの仕事を選んだのか本人に聞いたこともあるのだが、彼女は「えへへ♡」と笑って答えなかった。でも、この仕事を気に入っているようだった。彼女は金髪を後ろに束ねながら、
「岬さん、今日も入浴ですか。」
と尋ねてきた。私が、「ええ」と言うと、
「ほんとに、最近のシフトはひどいですね。文句言ってやらないと。」
と頬を膨らませた。義理ではなく、本当に怒ってくれるから、この子はかわいい。
「大丈夫よ、かんちゃん。こう見えてもまだ私も若いんだから。」
と言うと、「そうですよね」と笑顔が戻った。そして少し丈の長いTシャツの裾をお腹の前で縛った。大きくプリントされたマリリンモンローの顔がくしゃくしゃになったその下に小さなおへそが見えた。私にはできない格好だ。その下は私と同じく短パンで、スラリとした長い足が伸びている。背丈は自分と変わらないのに、腰の線は彼女の方が上だ。時々、同じ日本人なの?と思ってしまう。
急に浴場のドアが開いた。ヌッと人影が見えたので私は驚いた。出てきたのは荒木さんだった。
「えー!、荒木さん」神月さんが代わりに声を出した。「こんなに早く来てどうしたんですか?まさか、もう準備を…」
「いやあ、入浴の準備は割りと重労働ですからね。男の私がやらないと。」
荒木さんはそう言うと、私に向かって、
「岬さん、今日もよろしくお願いします。」
と頭を下げた。その仰々しい姿に少し戸惑った私は無表情で会釈した。会釈しながら、今日もというからには過去にも一緒に仕事したことがあるのだろう。でも、覚えてない。そんな自分がとても嫌な奴に思えたが、でも…でも、彼はうちに来てからそう日にちは経ってない。だから覚えてないんだ。私は無理にそう思うようにした。
「さあ、始めましょう。」
神月さんの声が響いた。
まだ続きます