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その3

続きです

その時だった。


 おはようございますと声が聞こえた。私は声のする方に振り返る。そこには合成繊維のポロシャツにズボンの制服姿の男性職員がいた。荒木さん?私は首を傾げた。接点もなく、興味もない彼の存在感は私にとっては薄い。だが、私たちとは違い、制服に似合わない中年のおじさんは印象深く、それが判断材料となった。彼は私に簡単なあいさつをすると、そのまま老人たちの横にしゃがみ込み、あいさつを始めた。


「永井さん、おはようございます。」


「加藤さん、おはよう。あれ、今日は顔色いいね。」


 荒木さんは1人ずつ丁寧にあいさつしてゆく。次の方に移るごとに、椅子の横にしゃがみ、見つめながら声をかけていた。反応の薄い老人には顔を覗き込むようにしてあいさつする。見下さないように目線を合わせているんだ。さすがにそれぐらいは私にも分かった。


「吉田さん、おはようございます。ああ、今日も顔色がいいね。そういえば昨日、お孫さんが来ていたんだよね。どう、親孝行してもらった?あ、違うか。お孫さんだから、おばあちゃん孝行かな。」


 吉田さんは認知症が進んでいて、話しかけられても表情にあまり変化が見られない。それでもかわまず荒木さんはしゃべり続ける。そういえば杉山さんも、利用者によく話しかけてはいる。でも印象は少し違っていた。杉山さんは元来のおしゃべり好きだが、彼は意図的にやっている。その証拠に、この季節に似合わない玉のような汗が荒木さんの額に浮かんでいた。


「ああやって、毎日、全員にあいさつするのよ。」


 杉山さんが話しかけてきた。


「全員…」


「そう、全員。」


 なぜか杉山さんが自慢気に胸を張った。そして少し声をひそめて、


「岬さんは嫌っているけどね。彼…荒木さんは、いい人よ。少し、いや、けっこう変わっているけどね。」


 私はなんて言ったらいいか分からず、じっと彼があいさつしているのを見ている。やがて、さっきまで私を悩ませた西村さんの席に座りこんだ。そして「あはようございます」とあいさつする。すると「家に帰らせてもらえないか?」と例の言葉が返ってきた。


・・・やった。


 人が悪いのは十分承知している。でも自分が散々苦労したのだ。あの人にも苦労してもらわないとという気持ちの方が勝ってしまった。それに、この対応は本当に厄介だった。まず、西村さんはひとつも悪いことを言っていない。悪口も、非難も、皮肉すら言っていない。ただ「帰りたい」といっただけだ。それに本心から言っている。別に私や彼を困らそうと思って言っていない。本当に「帰りたい」のだ。また認知症という症状から出ているのも分かる。認知症の症状が進むと理性が聞きにくくなる。周囲への理解が及ばず、自分が願っていることをすぐに実行しようと思うからだ。最後に、家に帰してあげた方がいいのも分かる。もちろん、人が傍にいた方が安心だし、施設の方が食事や家事から解放されて便利だという側面もある。でも本人からすれば、住み慣れた家から施設に移るのは大きな環境の変化だ。そもそも、自分から望んで来たのかも分からない。家族の要望で、ということもよくあるからだ。だから、こんな知らない人ばかりの場所よりも慣れ親しんだ自宅に帰りたい気持ちも、本当によく分かる。よく分かるけど、だから帰るという選択肢はない。私たちはプロである。できない要望にははっきりとNOと言わなければならないのだ。


 杉山さんの言葉に全面的に納得できない理由も分かった。荒木さんが悪いわけではないが、ああやってあいさつして回るのは、まるで人気取りのような気がするからだ。だから苦労すればいいと思ってしまった。嫌な女だ、と自分でも思う。今日も家での酒量が増えるのは間違いないだろう。


 しかし、西村さんの言葉に対する彼の返答は、私の酒量をさらに増やすものだった。

まだ続きます

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