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その2

続きです

「もう帰らせてもらえませんか?」


 はぁ。今日何度目かのため息が出た。朝に出勤してから、もう10回はこの場面がループしている。最近の小説は異世界転生とパラレルワールド無限ループが流行りだと娘のあかりから聞いたことがあるが、何のことはない、私にとっては日常だ。


「西村さん、」私は少々面倒くさそうに同じことを繰り返した。「西村さんのおうちはここですよ。前のおうちは売ってしまって、もう無いんです。」


 西村さんと呼ばれた老人は、私の言葉にポカンと口を開けている。yesともnoともつかない不思議な表情だった。彼はしばらく私を見つめていたが、ゆっくりと後ろを振り向くと、切れかかったゼンマイのようにのろのろと自分の席に戻っていった。私は今度は安堵のため息をついたが、気分は晴れない。5分もすれば、西村さんが私の元に戻ってきて、さっきのやりとりの繰り返しになるのが、目に見えているからだ。


「おっはよ。」


 声がしたので振り返ると杉山さんがいた。昨日はあれから唐揚げや春巻き、チャーハンなどを散々食べたはずだが、手には食べかけのクリームパンを持っている。彼女には胃もたれという言葉は無いのだろう。ちなみに杉山さんはパート職員なので、出勤は私よりも遅い。


 私はあいさつを返した後、昨日の飲み会のお礼を言った。結局、昨日は杉山さんのおごりだったからだ。あら、そんなの良いのよ、と彼女は笑顔を見せると、


「どう?少しは気分良くなった?」


「ええ、まあ。」


 正直、気分良くはない。昨日でいくらか改善したのだろうが、朝のやりとりでもう心のストックは無くなってしまっていた。その様子を杉山さんは感じ取ったようだ。


「あら、この時間帯の勤務、初めてだった?」


 私はその質問に軽い会釈で応えると、黙々と朝食の片づけに取りかかった。正直、気分的にも仕事量的にもこれ以上、心の余裕はない。朝食の介助は最小限の人数で行われる。朝は6時出勤と早いものの、特別手当がつくので、時々はこの勤務を入れるようになったのだ。あと1年でやってくる長男の私立中学の受験を見据えてのシフト変更だったが、やはり負担も大きい。その上、さっきのような「帰りたい」攻撃を受けてしまうと心が萎えてしまう。この前など、3人の高齢者に「帰りたい」と言われて、仕事がストップしてしまい、困ったこともあった。


「最初は大変だけどね。慣れたら自分のペースでできるから楽よ。」


 質問には答えなかったのに、杉山さんは気にせず話を続けている。正直、うざかったが、次の言葉にドキリとする。


「この仕事はね、めんどくさいと思ったらだめなのよ。」


 時々思うのだが、この人はどうして私の心を見透かすような言葉をピンポイントで出せるのだろう。


「こう見えてもね。ここにいるおじいちゃんやおばあちゃんは戦争中や戦後の大変な時期をがんばってきたのよ。いわば、私たちの大先輩。その人たちの最後の居場所がここなんだから、ちょっとぐらい我がままを言われても、私たちは我慢しないといけないの。いい?」


 私は小さくうなづいた。確かにそうだ、大先輩なのだから。だけど、と私は近くのバケツを見る。中には朝食の食べ残しがずいぶんと溜まっていた。もし、おじいちゃんおばあちゃんが若い頃なら、こんなに残飯を残していたら、親に殴られていたのではないか。最後の場所が我がまま放題できて良かったですね。そこまで考えて、自分が底意地の悪い精神状態になっていることに気づき、後悔した。


 それにしても、食器を洗いながら、私はフロアを見渡す。フロアは静かだった。誰もいないわけではない。今は10人ほどの老人たちが座っていたが、誰も言葉を発することが無い。ただじっとテレビを見ていた。テレビでは厚化粧をした自称ファッション評論家が最近注目株の女優のファッションチェックを行っている。彼女が言葉を発するたびに、テレビの中では歓声が湧き起るのだが、フロア内に反応はない。私は思う。まるで住宅のモデルルームみたいだ。老人をマネキンに置き替えても全く気がつかないに違いない。

まだ続きます

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