桜守鴉物語
桜守鴉物語
☆1☆
昔々、荒川の河川敷に、それは見事な桜がいくつも並び立ち、春になると満開の花が咲き誇り、その花びらは河川敷一帯を多い尽くして、まるで極楽の園のようになったという。
花見の客も多く大多数はマナーと節度を守り、慎ましやかな宴を張っては、団子より花のほうに満足しておりました。
が、なかには酔っ払ってキチガイのように暴れる酔客がおり、宴を散々荒らした挙げ句の果てに桜の樹に果物ナイフを突き立てる真似を始めた。
不埒な酔っ払いに対して善良だけどか弱い人々は為す術がありません。
ついに酔っ払いが悪乗りして自分の名前を桜の幹に切り刻もうとしたその瞬間、一陣の風とともにサッと巨大な鴉が現れ酔客の目を狙って鋭い嘴を突き立てた。
これには酔客も慌てふためき、一瞬で酔いが醒め、一目散に逃げ出した。
周囲の人々は、驚きながらも、鴉がそれ以上人を襲わず、青空へと吸い込まれるように飛び去って行ったので、まずは一安心、暴れん坊の酔客もいないので、再び和やかな宴を再開した。
さて、この鴉、酔客だけでなく、桜の樹の枝を折ろうとするクソガキや、桜の花をついばむ小鳥なども見つけては襲いかかって追い払い、日々、桜を守っていたという。
桜の化身、桜の姫が大空を旋回する鴉にねぎらいの言葉をかけます。
桜の姫,
「鴉様、いつも私たちを見守り、時には助けていただき、本当に感謝しています」
鴉も人の姿に化身し桜の姫に答えます。
鴉,
「もったいないお言葉、いたみいります。桜の姫がいついつまでも美しく、健やかに過ごせるよう、微力ながら、それがし、誠心誠意、見守り、時に実力行使してでも悪の輩を排除する所存であります」
化身した二人の姿を、人は決して見ることは出来ない。
二人は人のような姿で会話を続けた。
桜の姫,
「鴉様、ご無理はなさらぬよう、お気をつけください、近頃、鴉様のご同輩や我らを調査している役人の姿を見かけたと、何人かの妹が訴えております」
鴉「我が百八羽の同胞にとって、役人など恐るに足りません。天を屋根とし、地を寝床とする、我ら真に自由な空の民を前に、役人どもは虚空を掴む事しか出来ませぬ」
桜の姫、
「鴉様のおっしゃる通りですが、人を侮ってはなりません。人は猫より足が遅くとも、自動車なる物を乗りこなし、羽は無くとも、飛行機なる物で大空にまで足を伸ばします。何より恐ろしいのは、彼らの悪知恵です。いかなる手段をも禁じ得ない、同胞すら情け容赦なく殺す。その残忍さ、卑怯さです」
鴉、
「桜の姫のおっしゃる事は分かります。はらからを殺す獣は人のみ、彼らの残虐さには特段の注意を払いましょう」
鴉の瞳が地上の桜に注がれ鋭く細められる。
「どうやら人の飼い犬が妹君に悪さをしている様子。それがし、懲らしめてまいります」
桜の姫「どうか本当にご無理はなさらぬよう、お願いします」
鴉が首肯しバサッと大きく羽ばたく。
燕のように素早く折り返すと、桜や人、その他、誰彼構わず噛みつき吠え立てる駄犬を成敗し始めた。
☆2☆
役人の動きが活発になったのは、大雨の際、荒川の水の流れを制御する古い赤水門に変わり、新しく、より大きな、青水門が完成して、しばらく経った頃だ。
春が終わり、桜の姫とその妹たちが、薄桃色の衣から葉桜になるに伴い、緑の衣へと衣替えが終わる時期だ。
青水門の上からは霊峰富士が遠く、南の空にうっすらと見える。
桜の姫と鴉は、夕暮れに真紅に染まる大空の神々しい姿に見とれていた。
その際も、鴉の鋭い瞳は河川敷一帯をおおう桜の木々を取り巻き、怪しげな行動を繰り返す役人どもに注意深く注がれていた。
鴉、
「きゃつらはいったい何をしておるのでしょうか? 奇妙な長い棒を地面に付けたり、長い糸を張ったり、不可解千万ですな」
桜の姫、
「測量、という物だそうです、長さを測ったり、高さを測ったり、するそうです。青水門建設の際も同じ事をしていましたよ」
鴉の瞳が怒りに燃える、
鴉、
「まさか、きゃつらはこの極楽のような平和で美しい土地に、桜の姫とその妹君たちがおられる神聖な土地を汚そうと、よからぬ事をたくらんでいるのではございますまいな」
桜の姫、
「彼らに私たちの姿が見えて、私たちの声が聞こえて、私たちと語り合えれば良いのですが」
鴉、
「遠い、はるか昔の言い伝えです。人間の、そういった血筋は絶えて久しいはず。しかし、例え彼らが、見え、聞こえ、話せたとしても、所詮、下っ端の小役人に過ぎません。お上の命令に従うだけの能無しなメクラどもですからな」
桜の姫、
「出来れば争いは避けたいものです。鴉様にも戦って欲しくはありません。私はどうなっても構いません。ただ、鴉様が無用に傷付かない事を願うだけです」
鴉、
「今さら何をおっしゃいます。我ら百八羽、命を捨ててでも、桜の姫の為に役人どもの企みを粉砕してみせますぞ。桜の姫はどうか大船に乗った気で安心して下され」
桜の姫が瞳を伏せる。
悲しみに打ち沈んでいるのは間違いない。
蠢く役人を前に鴉も打つ手がない。
怪しげな役人の登場に不穏な空気は募る一方だった。
☆3☆
恐れていたことが遂に起きる。
数十台のトラック、ショベルカー、ブルドーザーが荒川の美しい河川敷へ押し寄せてきたのだ。
ショベルカーが土を掘り返し、トラックが土を運ぶ、ブルドーザーが荒れた河川敷を平らに直す。
刻一刻と桜のある場所へ近づくなか、鴉も遂に時の声を上げる。
百八羽の鴉の群れが工事作業者に一斉に襲いかかる。
瞬く間に河川敷は修羅場と化した。
突然の鴉の襲撃に驚きはしたものの、気性の荒い、土かた連中が先頭に立って鴉を追い払う。
鴉は前進、後退を繰り返しながら、隙を見て工事作業者に襲いかかる。
ゲリラ戦である。
土かたのダミ声が響くなか、遂に一本の桜の樹が引き抜かれる。
悲鳴をあげる桜の樹の妹たち。
大地の竜がこの暴挙に憤り、震度四程度の地震を起こす。
が、効果は薄かった。
さらに引き抜かれる桜の姿を見かねた天の竜が、悲しみの涙を流し、風の精霊がその雨水を河川敷一帯へ風で運ぶ、突然の集中豪雨により荒川の水位はグングン上がり、川の竜も桜の姫に加勢し荒川を氾濫させる。
河川敷一帯は一気に水没してしまった。
この事態に、さしもの土かたも音をあげ、一時的とはいえ工事を中断する。
幹の半ばまで水に浸かりながら桜の姫が安堵の吐息を漏らす。
桜の姫、
「助かりました。鴉様、それに天、地、川の竜様、それに風の精霊様」
鴉、
「まだこれからですぞ、桜の姫、連れ去られた妹君の奪還もしなければいけません。とにかく、万事、それがしと百八羽におまかせください」
桜の姫、
「私たちは無力です。鴉様、あなたに全権を託します。どうか最後まで私たちの希望として大空を羽ばたき続けて下さい。どのような結果になろうと、私たちは決して絶望はいたしません」
鴉、
「弱気な事はおっしゃりなさるな。必ずや事態を好転させてご覧に入れます。どうか安心してお待ちください」
桜の姫がうなずく。
疲れた様子はあるが、覚悟を決めた者のみが持ちうる強い意思が、彼女の神々しさを際立たせていた。
☆4☆
一週間もすると河川敷の水は引いた。
工事が可能な状態になったが、ゼネコンは動く気配がなかった。
作業車も放置されたままだ。
さらに一週間が過ぎ去り、桜の姫の妹たちや、鴉配下の百八羽もすっかり気が緩んでいた。
ある朝、河川敷に美味しそうな香りのする団子がパックごと河川敷の数ヶ所に渡って捨ててあった。
鴉が怪しいから食べるなと百八羽を諌めるが、気の緩んた若い鴉は言うことを聞かない。
天の恵みとばかりに全て平らげてしまう。
しかし、鴉の言った通り、この団子は奸知に長けた人間の罠だった。
すなわち、毒入り団子である。
鴉は呆然としながら仲間たちが地に倒れる姿を見守るしかない。
コメツキバッタのように飛び上がろうとしては、地面に墜落し、嘴や目、両足、全身の羽毛から血を垂れ流し、最後はあぶくのようにヨダレを吹き出して死に至る。
壮絶な最後である。
苦しめるだけ苦しめてから殺す。
という、実に人間らしい極めて残虐な手段である。
百八羽いた鴉は全て全滅した。
どこかに隠れて監視していたゼネコンの工事作業者が次々と鴉がいなくなったと口にしながら現れ、河川敷へと再び集まって来る。
怒りに燃えた鴉が単騎で立ち向かうが、土かたの返り討ちにあう。
敵はエアガンという新兵器まで用意してきたのだ。
鴉はこのエアガンの威力を熟知している。
以前、鴉の天敵である猫を子供がエアガンで撃っていたのを空から眺めた事があるのだ。
運が悪い事にその猫は瞳に弾が当たり、網膜を突き破ったBB弾が脳髄まで達し数日間苦しんだすえ、ようやく息を引き取った。
それを知りながら鴉は時折、工事作業者目掛けて攻撃を仕掛けるが効果は薄かった。
桜の姫の妹たちは次々に掘り返され、続々とトラックへ詰み込まれていった。
最後に桜の姫を残すのみとなった段階で陽が暮れた。
その日の工事作業は終わりとなった。
☆5☆
桜の姫、
「随分と寂しくなりましたね。私たちだけではなく、他の樹も草も草花も虫も、根こそぎ奪われてしまいましたからね」
美しかった河川敷は今は見る影もなく、桜の姫の宿る樹を残し、泥と盛り土の山と化している。
桜の姫、
「殺風景にはなりましたが、今夜は月がとても綺麗ですよ。鴉様もご一緒にご覧下さい」
鴉、
「桜の姫のお心遣い、それがし、大変痛み入ります。ですが、百八羽の同胞を殺され、妹君も連れ去られた今となっては、心苦しい限りでございます。まったく面目次第もございません。桜の姫の前で大口を叩いて、この体たらく、万死に値します」
桜の姫、
「腹が減っては戦は出来ぬ、と古来より言われております。団子があれば食べたくなるのは理の当然。鴉様は食べてはいけないと警告なされましたが、警告だけで、それ以上の事をなさらなかったのは鴉様の優しさだと私は判断致します。お腹を空かせた若者に腹一杯食べさせたい気持ちは、無慈悲ではない何よりの証拠です」
鴉、
「ですが、その甘さの為に仲間を死においやってしまいました」
桜の姫、
「この周辺は一度水没したら、食べ物はあらかた流れ去ります。食べないで死ぬよりは食べて死んだほうがマシです。飢餓の苦しみは猛毒以上です」
鴉、
「桜の姫にそう言われると心が少し楽になります。しかし、連れ去られた妹君たちのことを思うと、やはりハラワタが引き裂かれる思いがします」
桜の姫、
「私たちは覚悟を決めております。鴉様を恨む妹は一人もおりません。その覚悟は鴉様、あなたから与えられた物です。あなたは来る日も来る日も私たちを守ってくださった。感謝しない日は無いほどです。それに、覚悟といっても、そう悲しい物ではありません。むしろ逆です。私たちは例え命の危機が訪れようと、絶望しないで最後まで希望を持つという覚悟を決めたのです。絶望して死を迎えるよりは、希望を持って死に挑む。結果は同じでも大きく違うとは思いませんか? そして鴉様、私はあなたにもそうあって欲しいのです。これは私のワガママでしょうか?」
鴉、
「桜の姫の仰る通りです。不肖、この鴉もまた桜の姫に従い、最後の最後まで絶望することなく、希望をこね胸に抱いて戦いましょう」
二人の想いは通じ合い、いつまでも美しい名月を眺めた。
そして、さらに美しい夜明けを迎えたが、工事作業者の朝は早く、まだ暗いうちからモソモソと動きだし、八時ピッタリに工事を開始する。
鴉も時の声をあげ、工事を阻止しようと懸命に戦うが、多勢に無勢、背後から土かたにエアガンで撃たれ、あえなく、その身は地上へと墜落する。
致命傷ではないが、全身がバラバラになりそうな苦痛である。
どうにかして再び大空へと舞い上がるが、時すでに遅し、桜の姫は根元から引っこ抜かれ、トラックで運ばれる最中である。
動きだしたトラックを追いかける鴉。
工事作業者はフラフラしながら飛翔を続ける鴉に呆れ果てるが、徐々に距離が開いてくるに連れて、次第に誰も気にしなくなる。
必死に飛び続けた鴉も、ついに精も根も尽き果て地上へ無様に落下した。
鴉の胸に諦めの感情が沸き上がる。
仲間は殺され、桜の姫たちも奪われた。
これ以上何が出来るというのか。
鴉の顔に雨水が数滴降りかかる。
雲の切れ目から天の竜が鴉を覗いている。
が、鴉は起き上がらない。
地の竜が大地を軽く揺する。
が、それでも鴉は起き上がらない。
最後に柔らかな風とともに風の精霊が鴉の側に降り立った、
風の精霊、
「鴉殿、何ゆえ大地に伏せておられる。桜の姫との約束を忘れられたか」
鴉、
「桜の姫は連れ去られました。私の戦いは全て終わったのです。人間に無様に負けたのです」
風の精霊、
「人は人、鴉は鴉、勝ち負けなどありませぬ」
鴉、
「失礼ながら、先の戦いにおいて我らを加勢されたのは何故です」
風の精霊、
「桜の姫を不憫に思ってのこと、神々は人に対し時折、憤ることもある」
鴉、
「神々に対し不遜ながら、何故、最後の戦いにおいて加勢なさらなかったのでしょうか」
風の精霊、
「神に問うてはなりませぬ。神々の意思は、はかれぬもの。幸も不幸もすべてそなたのため。不幸を嘆く力があるのなら、嘆きを力に変えるべし」
風の精霊が腕を一振りすると、一陣の風が吹き、無数の桜の花びらが、鴉の周囲に舞い降りた。
風の精霊、
「万物は流転し、止どまる事なし。なれど、魂は不変にして、滅びることなし。そなたの桜の姫への想いも不変のはず」
舞い散る美しい桜の花びらの中、鴉がゆっくりと立ち上がる。
やがて、大きく羽を広げ、大空へと羽ばたいた。
鴉、
「それがし、少々甘ったれていたようです。桜の姫がいなくとも、姫への想いは、この胸の内に、しっかと刻まれております。約束通り、絶望する事なく、最後まで生き延びて見せましょう」
ほどなくして荒川河川敷、赤羽岩渕水門へと鴉は舞い戻る。
戦うためではなく、ただ、生きて見守るためである。
☆6☆
河川敷の工事は粛々と、それはもう遅滞する事なく、粛々と押し進められた。
一時期、水没して延期したぶん工期は延びたが、延びたぶんだけ工事費は増えるので、ゼネコンはむしろ得々としていた、それはもう満面の笑みを浮かべて得々としていた。
さて、更地になった河川敷は、数年後、三階建ての立派な建物が完成した。
荒川治水資料館である。
何の役にも立たない経費ばかりかかる金食い虫、完全に税金の無駄使いの産物である。
いわゆる箱物といわれる天下り先である。
といっても、大物官僚などが鳴り物入りで天下る退職金数憶万円の財団法人などが入る大型箱物ではなく、ささやかな、それはもう実にささやかな箱物でしかない。
が、箱物は箱物で無駄に税金を使う点では何の違いもない。
鴉はその無骨な建物に憤りを感じながらも、ただただ見守っていた。
そんな冬のある日の事、どこからともなく懐かしい声が聞こえてくる。
聞き覚えのある懐かしい声。
忘れようにも、忘れようのない、桜の姫の声である。
その声は赤水門のほうから聞こえてきた。
鴉は翼を広げるとパッと大空へ舞い上がる。
近づいて見ると、工事業者が赤水門と用水路の間に桜を植えていた。
見間違える事はない。
正真正銘、桜の姫である。
☆7☆
桜の姫、
「あのあと、山のほうへ連れていかれ、一旦そこへ植えられたのですが、こうしてまた、鴉様に生きて再びお会い出来るとは夢にも思いませんでした。まるで奇跡のようです」
鴉、
「桜の姫が連れ去られた時は、生きた心地さえしませんでした。絶望して死さえ覚悟しました。風の精霊のお諌めが無ければ、今頃は生きておりません」
桜の姫、
「生きてさえいればこそ、こうして再び会えるという奇跡が起きたのです。死んで何になりましょう。死などお考えにならないで下さい」
鴉、
「桜の姫のお言葉、魂に刻みましょう。それがし、今後一切、死の事など考えませぬ」
桜の姫、
「それでこそ桜を守る鴉様です。ところで、妹たちは荒川大橋の先に新しく出来た遊歩道に植え替えられたそうです。土手の上にあるので見晴らしも良く、今頃は大満足している事でしょう」
鴉、
「すると、いずれ戻るとも知らずに、それがしは若い鴉をイクサに急き立てて無駄に死に追いやった、という事でしょうか」
桜の姫、
「人間は身勝手な生き物です。自分たちに害を為すと定めれば、それらを遠からず駆除したはずです。戦いは避けられない運命だったのです」
鴉、
「彼らの戦いは無駄では無かったのでしょうか」
桜の姫、
「無駄ではありません。この世に無駄な物などあるはずがありません。私はそう信じます。鴉様、そろそろ妹たちの元へ参りましょう。きっと妹たちも鴉様の身を案じているはずです」
鴉、
「ならば桜の姫よ、ともに参りましょう。それがし、二度と桜の姫のお側を離れるような真似は致しませぬ」
桜の姫、
「時の流れが二人を別つまで、私も永遠に鴉様のお側を離れませぬ」
鴉と桜の姫が手に手を取って大空を舞う、天の竜、地の竜、川の竜、風の精霊が、そして、桜の姫の妹たちが、いつまでも、いつまでも二人を祝福したという。
めでたし、めでたし。
☆完☆